卵も玉子も、共に「たまご」と読む。
使い分けに明確な基準はないが、一般的に、生物学上では「卵」と表記し、調理されたものや食材に使用するたまごは「玉子」を用いる。
ただし、魚類など鳥類以外のたまごは調理済みであっても「玉子」と表記せず、食材に使用されることが多い鶏のたまごは、調理に関係なく「玉子」と表記されることもある。
また、「ゆで玉子」と「ゆで卵」、「玉子焼き」と「卵焼き」の表記があるように、調理済みの鶏のたまごであっても「卵」と書かれることがあり、例外も多い。
「医者の卵」など比喩的に用いるたまごは、孵化に例えたものであることから、「医者の玉子」と表記することはない。
漢字の成り立ちから見ると、卵は魚などの丸くて連なったたまごの形を模した象形文字で、孵化すると子になるものを表す。
たまごの古名「殻の子(かひのこ)」にも当てられており、たまご全般を指すのは「卵」となる。
玉子は、殻に入った鳥のたまごの丸い形から「玉の子」で「玉子」となったもので、食材にされる鳥類のたまごが「玉子」と書かれるのはこのためである。
「寂しい」と「淋しい」は、意味によって使い分けが必要と思われていることもあるが、「寂しい」と「淋しい」の意味に違いはなく、人それぞれが持つ漢字のイメージによるところなので、意味によって使い分けをしたとしても、相手に使い分けた意味まで伝わるとは限らない。
読みの「さみしい」は「さびしい」が音変化したもので違いはなく、「寂しい」も「淋しい」も共に「さびしい」「さみしい」と読む。
「寂しい」と「淋しい」の決定的な違いは、常用漢字か表外漢字の違い。
「寂」の字は常用漢字、「淋」の字は表外漢字である。
そのため、公用文・教科書・新聞などでは、常用漢字の「寂しい」が使われ、「淋しい」は使われないという違いはあるが、「淋しい」も古くから使われている表記で、現在も一般社会ではよく使われている。
一般には「花」を使い、「華」はきらびやかなもの、美しいもの、すぐれた性質の比喩に多く使われる。
「花を添える」や「花を持たせる」のように、比喩表現に花が使われることもあるが、美しさや明るさを加えるという意味の「花を添える」は、美しい花が添えられた状態にたとえたもの。
相手を立てる、相手に名誉や栄光を譲るという意味の「花を持たせる」は、花を贈呈される立場にするというたとえで、花そのものに「きらびやか」「すぐれた」という意味は含まれておらず、植物の花を使った状態からの比喩である。
華には、「華美(はなやかで美しいこと)」「豪華(贅沢ではなやかなこと)」「精華(すぐれていてはなやかなこと)」など、華のみで「はなやか」「すぐれた」という意味を表す言葉が多く、「花のように盛んではなやか」という比喩が、華に含まれていることがわかる。
「はなやか」という言葉も、一般的には「華やか」や「華々しい」が用いられる。
「はながある」という場合には「花」も「華」も用いるが、「華がある」であれば「華やかさ」「華々しさ」を表し、「花がある」であれば「植物の花が存在する」という意味になる。
悲しいと哀しいに明確な使い分けはないが、公用文などでは「悲しい」と表記し、「哀しい」は用いられない。
悲しいは、常用漢字に登録されており、「かなしい」と読む。
一方、哀しいの「哀」は常用漢字に登録されているものの、常用漢字表外音訓で「かなしい」という読みでは登録されておらず、公用文では「かなしい」に「哀しい」を使うことができない。
一般に使われる表現の違いとしては、「哀」の字を使った語に「哀れ」や「哀愁」などがあり、その印象から、「かわいそう」「寂しい」といった意味の「かなしい」を表現したり、詩的な表現・主観的な心情を表現する際に、「哀しい」が多く用いられる。
漢字の成り立ちから見ると、悲の「非」は羽が左右反対に開いた形から割れるという意味を表し、悲しいは「非+心」で、心・胸が裂けるような切ない感じを表す。
哀は「口+衣」で、思いを胸中に抑え、衣で口を隠してむせぶことを表しており、悲しいよりも哀しいの方が、心の中に思いを閉じ込め、胸がつまるようなかなしい心情を表現でき、より詩的で主観的である。
かなしいの漢字には、「悲しい」と「哀しい」のほかに、「愛しい」がある。
古くは、「いとしい」「かわいい」「切ない」「残念である」「悔しい」など、かなしいは激しく心が揺さぶれるさまを広く表す言葉であったため、「いとしい」「かわいい」といった意味では、「愛しい」と表記された。
共同と協同と協働は、複数の人や団体が事にあたるという意味で共通し、どの表記を用いても良い場合もあるが、使用する場面・ニュアンスの違いによって表記が限られたり、使い分けされることがある。
共同には、力を合わせて事を行うという意味のほか、同じ条件・資格で結合したり、関係するといった意味もある。
同じ条件で使用する意味の「共同トイレ」や「共同墓地」などに、「協同」や「協働」の表記は用いられない。
協同には、共に心と力を合わせて物事を行う意味があり、互いに協力するといった精神面を強調する際に用いられることが多い。
協同組合は、業者や消費者などが、事業や生活の改善を図るために組織される団体であるため、「協同」の表記が用いられる。
協働は、協力して働くという意味。
協同も協働も、同じ目的に向かって力を合わせ物事を行うという意味では同じだが、協同は役割分担などが事前に決まっていることが多いのに対し、協働はそれぞれができること、得意分野のことをする場合に用いられることが多い。
また、どちらも一緒に行動するとは限らないが、協同よりも協働の方が、より一緒に行動するという意味合いが強い。
臭いは「くさい」とも読むように、「ゴミの臭い」「下水の臭い」など、不快なものが対象。
「犯罪の臭いがする」など、いかにもそれらしい感じ、好ましくない雰囲気を感じるといった意味でも用いる。
匂いは、「花の匂い」「香水の匂い」など、好ましいものが対象。
臭いと同じく、いかにもそれらしいという意味で使うが、好ましく感じられるもの、趣があるものに対して用いる。
においを「ニオイ」とカタカナ表記する場合は、好ましくないにおい(臭い)を表すことが多い。
香りは匂いと同義語で、良いにおい、よい感じがする、美しいといった意味がある。
「はなのにおい」という場合は、「花の匂い」と「鼻の臭い」の二つの意味があり、悪臭を表すこともあるが、香りに悪臭の意味はなく、「はなのかおり」と言えば、花の良い匂いのことである。
また、「匂い」よりも「香り」とした方が、高級な印象を与えることが多い。
意思も意志も、ドイツ語で「~したい」を意味する助動詞「whollen」を名詞化した「wille」の訳語で、哲学や心理学用語では「意志」、法律用語では「意思」が使われる。
日常会話の中では、意思は「本人の意思を尊重する」や「意思表示」というように、表す対象が、単なる考えや思いの意味に重点を置いた場合に用いる。
意志は「意志を貫く」や「意志が固い」というように、ある物事を成し遂げようとする積極的な気持ちを表すことに重点を置いた場合に用いる。
「出馬の意思」と「出馬の意志」のように、意思(意志)の前後にくる言葉が同じであっても、使われる場面、意識などの違いによって、使用する漢字も使い分けられる。
出馬が打診されたものや、不出馬の考えである場合は、対象者の思い・考えに重点が置かれ、積極的な気持ちを表していないので「意思」を用いる。
出馬の表明をいう場合、「考え」や「思い」という意味では「意思」と同じだが、成し遂げようとする志を持ち、前向き・積極的な気持ちがあることを含むため「意志」を用いる。
表そうとしているその気持ちが、「志」であれば「意志」、単なる「思(思い)」であれば「意思」となる。
「いかす」の漢字には、「生かす」と「活かす」がある。
生かすは、死にかけたものを行き返らせる、生命を保たせる、死なないようにするなど、生命に関することを表す際に用いる。
活かすは、活用する、有効に使うなど、能力や特性に関することを表す際に用い、履歴書などで「経験をいかす」という場合は「活かす」と書く。
ただし、常用漢字に「活かす」がないため、公用文では「生かす」や、かな書きで「いかす」と書く。
もしくは、「活用する」といった言葉に置き換えられる。
公用文でなければ、「生かす」と「活かす」の漢字を使い分けた方が意味は伝わりやすくなるため、能力や特性に関することには「活かす」を使ったほうがよい。
「活かす(活用)」の意味でも、「生かす」と表記することは間違いにならないが、生命を保たせる意味で「活かす」は使用しないため、どちらが正しいか迷った際には「生かす」と表記するとよい。
表す(表わす)は、表に出して示す、表現する、表明するという意味。
使い方には、「気持ちを表す」「文章に表す」「名は体を表す」「図に表す」「顔に表す」などがある。
現す(現わす)は、隠れていたものが見えるようになる、発揮するという意味。
使い方には、「姿を現す」「本性を現す」「全貌を現す」「才能を現す」などがある。
顕す(顕わす)は、広く世間に知らせるという意味。
使い方には、「世に名を顕す」「功績を顕す」「善行を顕す」などがある。
「現す」に換えて使われることもある。
著す(著わす)は、書物を書いて世に出すという意味。
使い方には、「本を著す」「多くの名作を著す」などがある。
このほか、あらわすには「明らかになる」という意味の「露わす(露す)」もあるが、「馬脚を露わす」のように漢文訳された言葉に使われる表記で、「現す」に換えて使われることが多い。
暑いは「暑い部屋」「暑い一日」「蒸し暑い」など、体に不快を覚えるほど気温が高いことを表す言葉で、「寒い」の対義語。
熱いは「熱いお茶」など手で触れられないほど物の温度高いことや、「体が熱い」など体温が高いこと。「熱い男」「熱い視線」「熱い仲」など感情が高まった状態を表す言葉で、「冷たい」の対義語。
つまり、気温の場合は「暑い」を使い、気温以外の場合は「熱い」を使うが、微妙に異なる表現には、太陽や日光に対して使う「あつい」がある。
太陽(直射日光)が照りつけた熱のあつさを表す「あつい」は、体に直接感じる温度が高いことなので「熱い」を用いるが、日光が照りつけて部屋の温度が高いことを表す際には、気温の上昇なので「暑い」を用いる。
事典や字典を含めた総称として「辞典」や「辞書」と呼ぶ場合もあるが、「辞」「事」「字」のそれぞれの文字に意味の違いがあるように、本来は使い方にも区別がある。
辞典の「辞」の字には、「言葉」という意味がある。
辞典は言葉を集めて配列し、意味や発音、文法や例文などを解説したものをいい、他と区別するため「ことばてん」とも呼ばれる。
辞典には「国語辞典」「英和辞典」「古語辞典」などがある。
事典は事物や事柄の知識を集めて配列し、内容を詳しく解説したものをいい、他と区別するため「ことてん」とも呼ばれる。
事典には「百科事典」「歴史事典」「科学事典」などがある。
字典は漢字などの文字を集めて配列し、読みや意味、用法などを解説したものをいい、他と区別するため「もじてん」とも呼ばれる。
字典には「書体字典」「かな字典」などがある。
「IT用語辞典」と「IT用語事典」、「経済用語辞典」と「経済用語事典」のように、専門用語を扱う「じてん」には区別が曖昧なものもあるが、言葉の定義の解説が中心であれば「辞典」、事柄の内容の解説が中心であれば「事典」が使われる。
冒険の「険」は、「けわしい」という意味。
冒険は、危険をおかすことや、危険を承知で行うこと、成功の確かでないことをあえてやってみることを意味する。
探検の「検」は、「調べる」という意味。
探検は、未知の地域などに入り、探り調べることで、未知の世界というのは危険が予想されることから、危険を冒して実地を探るという意味でも使う。
探検が「危険を冒す」の意味も含んで使うことから、「検」を「険」に置き換えたのが「探険」であるが、危険の有無など、微妙な意味の違いによって「探検」と「探険」が使い分けされることはなく、普通は「探検」と書く。
なお、危険を冒すことは調べることには繋がらないため、「冒険」を「冒検」と書くのは間違いである。
速いは、ある動作を完了するのに要する時間が短い、一定時間に動く距離・働く量が大きい、すみやかであるといった意味で用いる。
早いは、「朝が早い」「早いうちに手を打つ」など、ある基準より時間・時期が前である、始まってからあまり時間が経っていないといった意味。
「諦めるにはまだ早い」「結婚にはまだ早い」など、まだその時刻・時期ではないという意味で用いる。
「足が速い」と書けば、走る(歩く)スピードが速いという意味になるが、「足が早い」と書けば、あまり時間が経っていないという意味の「早い」なので、食物などが腐りやすい、売れ行きがよいといった意味になる。
「速い電車」と書けば、普通電車より到着までの時間が短い、特急などの電車のことで、「早い電車」と書けば、朝早くに出発する電車のことになる。
「時間が経つのがはやい」の「はやい」は、「早い」と書かれることが多いが、正しくは「時間が経つのが速い」。
早いは、始まってからの時間の経過が短いという意味で使うが、ある基準より時間・時期が前の方という意味である。
「時間が経つのがはやい」の「はやい」が表しているのは、要した時間が短いという意味なので、「時間が経つのが速い」と書く。
つまり、時刻が前である場合は「早い」、時間が短い場合は「速い」を使う。
時間が短いといった意味では、「話が早い」や「回復が早い」など、「早い」を使う場合もある。
「話が早い」や「回復が早い」は、速度を表しているようにも感じるが、手っ取りばやい、短い時間で済むといった、ある時間よりも前になるという意味なので、「早い」を使う。
本来の意味からすれば「速」の字を使いそうな場合でも、「早口」「早業」などは「早」が使われており、使い分けが難しいこともあるが、明らかに速度を表す場合を除き、多くは、慣用として「早い」が使われるため、微妙な違いに注意をし過ぎないほうがよい。
一般的には「足」が多く使われるが、人のあしを指す部分によって漢字を使い分ける場合は、足首からつま先の部分を「足」、足首から骨盤までを「脚」と表記する。
哺乳動物には「肢」、昆虫には「脚」が多く用いられる。
生物の種類による使い分けというよりも、漢字が表す意味で使い分けされるため、哺乳動物に「脚」と書いたり、昆虫に「肢」と書くことも多い。
「足を運ぶ」「足を奪う」「足を洗う」「足が地に着かない」「足が早い」など、比喩的表現には「足」が多く使われる。
このような比喩表現の多くが、歩く・走るといった足を使った動作からや、足の形状に似たものである。
脚は動物の胴から下に伸びた部分を表すため、「馬脚」「脚光」「健脚」など、あし全体を表す言葉に多く使われる。
また、胴から下に伸びた部分や、支える部分といった意味から、「テーブルの脚」「脚立」など、物の下の細長い部分を表す際にも用いる。
肢は、肉月に支で「身体の枝」を意味し、主に、生物学や医学の用語で用いられる。
哺乳動物の場合は、人の手にあたる部分が「前肢(ぜんし)」、足にあたる部分が「後肢(こうし)」。
昆虫の場合は、前胸部にあるものを「前肢」、胸脚のうち後方の一対のものを「後肢」。
人の場合は、前肢(手)を「上肢(じょうし)」、後肢(足)は「下肢(かし)」という。
異常とは、正常でないこと、通常でないことであり、反対語は「正常」。
異状は、普段とは違った状態、つまり「異常な様子」を表す。
異常は形容詞(形容動詞)としても使うが、異状は名詞のみに使うので、「異常な暑さ」「異常に増える」など、名詞でなければすべて「異常」と表記する。
使い分けが難しいのは、「異常あり(異常なし)」と「異状あり(異状なし)」など、名詞として使用する時である。
常が異なるのか、状態が異なるのかの区別が難しいことも多いが、数値を見て判断するなど、正常でないことが明らかな場合には「異常あり」を使い、なんとなく普段と様子が違うと感じられたり、普通とは違うのが目に見えるなど、感覚的に違う場合には「異状あり」を使う。
例えば、喉に違和感・異物感があるのは、普段とは異なる状態なので「異状あり」だが、医師に診察してもらった結果、喉に腫瘍ができていたというのは、正常ではないため「異常あり」。
警備の見回りで、普段と変わりない様子であれば「異状なし」だが、人の気配を感じたならば「異状あり」、不審者が入って暴れていれば「異常事態」となる。
検診は、病気であるか否かを調べるために行う検査・診察のこと。
「がん検診」や「歯科検診」など、特定の病気を早期発見し、早期に治療することを目的としている。
健診は、「健康診断」もしくは「健康診査」の略で、健康であるか否かを調べるために行う診断、乳幼児の発育状況などの調査のこと。
検診も健診も病気の有無を調べるものだが、健診は、病気がないことを前提に、身体の状態を総合的に調べるもので、特定の病気の有無を調べるものではない。
健診の結果、身体に何らかの障害が起こっていることが確認されれば、病気の発見には繋がる。
船は、水上を移動する乗り物の「ふね」を表す一般的な表記で、大きさや動力の有無に関わらず用いる。
舟は小型で手漕ぎのものを表し、海を渡る大きなものには用いないことから、船と舟を使い分ける場合は、小型で手漕ぎのものを「舟」、大型のもの・動力がついたものを「船」と書く。
船舶は船と同じ意味だが、船に比べて改まった場合に使うことが多く、海商法上は、商行為を目的とした手漕ぎ以外のものを指す。
船舶の「舶」の字は、海を渡る大きな船を表し、舶来や舶貨など、外国から船を使って渡ってくる意味の言葉に使われる。
ふねを表す漢字には、「船」「舟」「舶」以外に「艇」や「艦」もある。
艇は「舟」に「延(のばす)」と書くように、細長い小舟を表した漢字で、主に、小型で動力がついたボートなどを表す際に使われる。
艦は「舟」に「監(かこい)」で、敵の攻撃を防ぐために囲った船を意味し、軍艦や潜水艦など、軍用の船を表す。
努めるは、勉学に努める、サービス向上に努める、ダイエットに努めるなど、努力すること、力を尽くして行うことを表す。
勉めるは、困難に耐えて努力する、無理をしてでも励むことを意味し、「力める」とも書く。
勉める(力める)は、努めるとほぼ同じ意味で表外音訓であるため、「努める」を使うのが一般的である。
勤めるは、会社に勤める、官庁に勤める、勤め先など、職に就くこと、職場に勤務することを表す。
また、朝のお勤め、法事を勤めるなど、仏道に励む、仏道を修めるといった意味でも、「勤める」は用いられる。
務めるは、議長を務める、主役を務める、親としての務めなど、引き受けた任務や役割を果たすために力を出すことを表す。
いずれも語源は同じで、勤めるや務めるも、「努力する」という意味から派生した表現である。
視覚器官の「め」を表す漢字には、「目」と「眼」がある。
目は眼よりも日常的に使われ、「台風の目」「魚の目」「痛い目」「ひいき目」など、目の形状や働き・機能などからたとえた言葉も多く、広い意味で用いられる。
医学的・生理学的・生物学的な用語では、器官や構造として「眼」が多く用いられるが、それ以外の場面ではあまり用いられない。
眼の字を使う言葉は、「眼科」「眼圧」「眼球」「眼孔」など「がん」と発音するものが多く、視覚機能や構造を意味するものが多い。
眼を「め」と読む言葉には、「眼鏡」や「眼薬」などあるが、これも器官の意味で使われている。
「専門家のめ」など、物事を見抜く力、洞察力を意味する時の「め」は、「目」と「眼」の両方が使われるが、科学的であったり、鋭い洞察力であることを表現する際に、「眼」を用いることが多い。
めだまは「目玉」としか書かないが、「めのたま」といった場合は「目」も「眼」も使われる。
「目」を使う場合は「目の玉」だが、「眼」を使う場合は「眼の球」と書き、構造的な意味合いが強い表現となる。
母体は、産前から産後までを含めた母親の体のこと。
「母体の健康」や「母体の安全」という時の「母体」に、赤ちゃん(胎児)は含まれていない。
母胎は、赤ちゃんがいる母親の胎内のこと。
母体は肉眼で見ることが出来るが、普通、母胎は肉眼で見られず、超音波写真(エコー写真)などで見る。
母体と母胎は、基盤となるものの比喩としても使われるが、元の意味に違いがあるように、使われる意味にも微妙な違いがある。
母体は、「運営母体」や「選挙母体」など、分かれ出た元となるもの、発展の元となるものをいう。
母胎は、「発明の母胎」「技術の母胎」など、物事を生み出す基盤となるものの意味で使われる。
川」の字は、地の間を縫って流れる普通の川を表した象形文字で、一般的には「川」と書く。
「河」の原文字は、黄河の直角に曲がる流路を表したもので、中国で「河」と書いた場合は「黄河」を指す。
日本では「運河」や「銀河」など、特に大きな川を指す場合に「河」が使われることが多い。
大小含めた川全体の総称を「河川」という。
大きい川であっても、信濃川や利根川、石狩川などに「河」の字が使われないのは、黄河のような規模ではないためといわれるが、普通、固有名詞には「川」が使われるという点も、「河」が使われない理由のひとつであろう。
地球上にあるどの川よりも大きな「天の川」を「天の河」と書くことが少ないのも、そのためである。
川を表す字には「江」もある。
中国で「江」と書いた場合は「長江」を指し、「河」よりも大きな川を表すが、日本では「入り江(海や湖沼の一部が入り込んだところ)」の意味で用いられる。
召集も招集も、人を集めるという点は同じだが、召集が「呼び出して集める」、招集は「招き集める」という意味の違いがある。
召集の「召(召す)」は、人を呼び寄せる、招くなどの尊敬表現。身分や地位の高い人が、自分より下の者を呼んで来させることで、普通は「天皇の行為」をいう。
俗に「赤紙」と呼ばれた戦前の「召集令状」は、事変に際し、在郷軍人や国民兵などを軍隊に呼び出し集める「天皇の行為」であったため、「召集」が使われた。
国会を開くため、衆参両議院に対して一定の期日に議会に集まるよう命ずることは、内閣の助言と承認に基づく「天皇の国事行為」であるため、「召集」が用いられる。
対等な立場の者を集める際には、「招集」の字を使う。
国会とは異なり、地方議会を開くために首長が議員を集めることは、天皇の行為ではないため「招集」が使われる。
また、自衛隊で隊員を集めることも、戦時中の「召集令状」とは異なるため、「招集」が使われる。
「召集」と書いたら「何様のつもりだ」となってしまうので、一般的には「招集」を使い、「召集」は国会と旧日本軍に限った表現と覚えておくとよいであろう。
お店のメニューや加工食品には、「海藻サラダ」と「海草サラダ」の2通りの表記があり、一方は間違いと指摘されることも多いが、その指摘は間違いである。
海藻は「海の藻」と書く通り、海に生える藻の総称。
コンブ・ヒジキ・モズク・ワカメ・アオクサノリ・テングサ・アオサ・アオノリなどは、すべて海藻である。
海草は「海の草」と書く通り、海中に生える種子植物。
同音異義語の「海藻」と区別するため、「うみくさ」とも呼ばれる。
アマモ・スガモ・ウミヒルモなどは、「モ(藻)」と呼ばれるが海草である。
海草は陸上の植物と同様、根・茎・葉が分かれており、花を咲かせて種子によって繁殖する。
海藻は胞子によって繁殖し、根・茎・葉が分かれていないため、海草と海藻を見分ける際には、根の有無を見るとわかりやすい。
普段、食用とされるカイソウは、ワカメやヒジキなどの「海藻」。
そのため、「海藻サラダ」と書くのが正しく、「海草サラダ」と書くのは間違いと指摘されるというのが、冒頭に書いた話である。
正確なのは「海藻サラダ」で間違いないが、海藻のサラダを「海草サラダ」と書いても間違いではない。
なぜなら、広義には海藻を含む海の植物を「海草」というからである。
不足がないさまを表す「じゅうぶん」の漢字には「十分」と「充分」がある。
元々は「十分」が使われており、「充足」や「充実」などの言葉の意味から「充分」とも書くようになったもので、本来は「十分」である。
文部科学省用字用語例では「十分」と書くため、公文書では「十分」が用いられるが、日本国憲法第37条では「充分」が使われている。
元々、「十分」のみであったことや公文書で「充分」が使えないことから、私的な文章でも「十分」で統一されることが多い。
使い分けされる場合には、十分の「十」が数を表すことから、数値的・物理的に満たされていることには「十分」。
充分の「充」は、満ち(充ち)足りることを表すため、量的なものではなく、精神的に満たされていることには「充分」を使っていることが多い。
例えば、腹八分目であれば、十分食べたことにはならないが、充分な満足感を得ることはできる、といったものである。
しかし、数値的に満たされることには「十分」を使うと決めてしまうことで、伝わりにくくなることもある。
「十分に人が集まった」「十分煮る」「残り三十分だから、時間は十分ある」と書いてあると、時間の「10分」を表しているのか、不足がない意味の「十分」なのか分かりにくいのである。
数値的・物理的に満たされていることには「十分」、精神的に満たされていることには「充分」というのは、そのような例が多いというだけで、どちらを使っても間違いではない。
公的文書では「充分」を使えないため、時間の10分と間違われやすければ、別の言葉に置き換えるか、前後の文で調整する必要があるが、公的文書でなければ、数値的・精神的での使い分けを考慮しつつ、場面に応じて意味が伝わりやすい方を選ぶのが一番である。
制作は、美術作品、映画、テレビ番組など、芸術作品の創作活動に用いられることが多い。
製作は、実用的な物品、器具など、ものを作ることや、その作ったものの意味で用いられる。
作成は、書類・文章・計画などを作り上げること。
作製は、品物・機械・図面など、ものを作ることで、製作とほぼ同意。
製造は、品物を作ること。特に、原料を加工して製品にする意味で用いられる。
この中で、使い分けが難しいのは「制作」と「製作」で、芸術作品を作る場合でも、全て「制作」と表記する訳ではない点である。
映画やテレビ番組などでは、創作活動として作品そのものを作ることには「制作」を用いるが、資金調達や宣伝などのプロデュース全般を表す際には「製作」が用いられ、著作権法でも両者は区別されている。
ディズニー映画の場合であれば、作品を作る実作業を「制作:ピクサー」、制作に関わる出資や配給を「製作:ディズニー」と使い分けている。
この使い分けは、作品を何と捉えるかによる。
芸術作品を作ること自体は、創作活動なので「制作」となる。
資金調達や宣伝などのプロデュースは、作品が商品(物)として流通するために行われる行為で、作られた芸術作品も商品(物)にあたるので「製作」となる。
油は「氵(さんずい)」が付いているように液体で、植物性・鉱物性のあぶらを表す。
脂は「月(にくづき)」が付いているように動物性で、固体のあぶらに使われる。
これらの使い分けは、一般的なものから区別された使い分けで、例外もある。
固体・液体は常温時に判断されるものだが、動物性でも魚などの脂は液体に近い状態になり、植物性でもココナッツやカカオなどの油は常温時に固体となる。
植物性・鉱物性と動物性の違いや、固体と液体の違いを意識していない時は、「油」と書かれることが多く、顔などが脂っぽいことを表す際は、正しくは「脂ギッシュ」だが「油ギッシュ」とも書かれる。
膏も「月」が付いており、動物性を表すが、脂と全く同じ使い方ではない。
脂は皮膚や肉から出るあぶらなど、動物性のあぶらを広く表すが、膏は皮膚から出るあぶらには使わず、肉のあぶらのみに使う。
その他、軟膏を表す際に使われる程度で、表現の範囲は狭い。
ちなみに、ひびやあかぎれに効くという「ガマのあぶら」は、ガマガエルの皮膚から出た脂汗とされるが「ガマの脂」と書かず、「ガマの油」と書く。
肉のあぶらではないが、軟膏なので「ガマの膏」と書かれることはある。
探すは、「職を探す」「宝物を探す」「新居を探す」「人のあらを探す」など、欲しいもの、目にしたいものを見つけようとさがす場合に使う。
捜すは、「犯人を捜す」「行方不明者を捜す」「落し物を捜す」など、見えなくなったものを見つけ出そうとさがす場合に使う。
上記のように単純に考えれば、探すと捜すの違い・使い分けはわかりやすいが、次のように、少し深く考えてしまうと難しくなる。
犯人というのは元々見えていた訳ではなく、刑事からすれば、欲しいもの、目にしたいものなので、「犯人を探す」と書いても良さそうである。
しかし、犯人というのは、目にしたことがなくても実在することは確かであり、存在の有無すら不明なものをさがす訳ではないため、「犯人を捜す」と書く。
埋蔵金など本当の宝物を見つけようとするのではなく、宝探しのゲームとしてさがすのであれば、宝物は一度目にした物になるため、「実在することがわかっているものを見つけようとする」と解釈し、「宝物を捜す」と書いても良さそうである。
しかし、宝物を一度見せているのはゲームとしての手順にすぎず、本当の宝探しを模したゲームで、「欲しいものを見つけよう」という意味が強いため、ゲームであっても「宝物を探す」と書く。
すしの漢字には「寿司」と「鮨」と「鮓」がある。
最も古い表記は「鮓」で、元々は塩や糟などに漬けた魚や、発酵させた飯に魚を漬け込んだ保存食を意味した漢字であるため、発酵させて作るすしを指し、馴れずしが当てはまる。
「鮓」の漢字は、鯖鮓や鮎鮓、鮒鮓などで使われるため、関西系のすしに用いられる傾向にある。
「鮓」の次に古い表記は「鮨」で、中国では「魚の塩辛」を意味する漢字であったが、「鮓」と混同され、すしを表すようになった。
「鮨」の漢字は、握り鮨、押し鮨、棒鮨など馴れずし以外のすしに使われ、現代で最も一般的な「すし」は握り鮨(江戸前)であるため、江戸前系のすしに多く用いられる傾向にある。
「寿司」は江戸時代に縁起担ぎで作られた当て字で、「寿を司る」の意味から、もしくは、賀寿の祝いの言葉の「寿詞」に由来するといわれる。
かっぱ巻き、稲荷寿司、手巻き寿司、五目寿司など、ネタに魚を使わないすしには「鮨」や「鮓」の漢字は適していないが、「寿司」は当て字であるため、ネタの種類を問わず使える。
また、すしの種類も問わず使えることや、縁起担ぎの意味もあり、現在、「寿司」が最も一般的な表記として使われている。
避ける」には、「さける」と「よける」の読み方がある。
「さける」も「よける」も、好ましくない対象と関わったり接触したりしないよう離れて位置することをいう。
両語とも使える場合もあるが、一方しか使えない場合もある。
離れよう、差し控えようという、意識の部分に重点が置かれる場合や、対象物が抽象的な場合は、「さける」を用いる。
「彼は私をさけている」「人目をさけて暮らす」「渋滞をさける」などは、「よける」に置き換えることはできない。
身をかわす、脇へ寄るなど、対象物との物理的な接触を回避するための動作に重点が置かれる場合は、「よける」を用いる。
「刀をよける」「落石をよける」などは、「さける」に置き換えることはできない。
さけるは「意識」、よけるは「動作」に重点が置かれるため、「車をさける(よける)」「水たまりをさける(よける)」のように、対象物が具体的で両方の語が使える場面でも、ニュアンスには違いが出てくる。
「車をさける」といった場合は、対象物(止まっている車など)の存在をあらかじめ知っていて、接触しないようにしている印象が強い。
「車をよける」といった場合は、対象物(走ってくる車など)を瞬間的に判断して接触を回避している姿や、脇へ寄ったり身をかわすなどの動作を表している印象が強くなる。
よけるには「別にしておく」「除外する」という意味もあり、この場合は「除ける」と書くのが一般的である。
さけるにはこの意味がないため、「嫌いな食べ物を皿の隅へよける」や「不良品をよける」を、「さける」に置き換えることはできない。
「不良品をさける」という表現が使われない訳ではないが、その場合は「別にしておく」「除外する」という意味ではなく、「回避する」という意味になる。
ひげを表す漢字には「髭」と「鬚」と「髯」がある。
単に「ひげ」といった場合は「髭」の漢字を使うが、口ひげ(口の上の毛)は「髭」、あごひげは「鬚」、ほおひげは「髯」と生えている場所によって使い分けられる。
髭・鬚・髯に共通する部首の髟(かみがしら)は、かみの毛を表す。
髭の「此」は、ぎざぎざとしてふぞろいな様で、髭は口の上(鼻の下)のふぞろいなひげ。
鬚の「須」の字は、元々、あごひげの垂れた老人を描いた象形文字であったが、のちに「彡(長い毛や沢山の毛)+頁(あたま)」で、柔らかいあごひげを表すようになった。
髯の「冉」は、柔らかいひげが左右に垂れた姿を描いた象形文字で、髯は柔らかいほおひげを表す。
英語では、口ひげが「a mustache(米)」「a moustache(英)」、あごひげが「a beard」、ほおひげが「whiskers」。
日本語の「ひげ」のように生えている場所による区別をせず、単に「ひげ」という時には、口ひげではなく、あごひげの「a beard」が使われる。
その他、「mustachios(大きな口ひげ)」や、「a goatee(やぎひげ)」という単語もある。
科学は、様々な事象を観察や実験などによって実証された体系的・法則的知識。
広義には、物理学・化学・生物学・地球科学・天文学などの自然科学、政治学・経済学・経営学・法学・社会学などの社会科学・哲学・心理学・言語学・人間科学などの人文科学の総称として用いられる。
狭義に科学は自然科学を指し、小中高の教科でいえば理科である。
その自然科学の一部門として化学があり、科学と混同を避けるため、化学は「ばけがく」とも呼ばれる。
化学は、物質の構造や性質、物質相互間の反応を研究する部門。
簡単にいえば、物質がどのような構造で出来ているか、どんな性質を持っているか、相互反応によってどう変化するかなどを研究する分野である。
おじさんの漢字表記には、「伯父さん」「叔父さん」「小父さん」がある。
いずれも同源だが、対象が違えば漢字も使い分ける必要があり、父または母の兄弟を表す際は「伯父」や「叔父」、よその年配の男性を表す際には「小父」を用いる。
近所のおじさんなどの「おじ」は、「小父」と書くのが正しい。
父母の兄弟であれば、「伯父」と「叔父」のどちらを使っても良い訳ではなく、父や母との関係によって使い分ける必要がある。
伯父の「伯」の字は「頭」「統率者」を意味し、父または母の兄にあたる人には「伯父」。
叔父の「叔」の字は「若い」「年少者」を意味し、父または母の弟にあたる人には「叔父」を用いる。
「伯父」と「叔父」の使い分けで間違えやすいのは、父母より年上か年下かで使い分けてしまうこと。
兄か弟かという父母との関係性が、使い分けのポイントになる。
父母の姉の夫が父母より年下であっても、父母との関係は義理の兄になるため、「叔父」ではなく「伯父」。
同じく、父母の妹の夫が父母より年上であっても、父母との関係は義理の弟になるため、「伯父」ではなく「叔父」を用いるのが正しい。
ほめる」の漢字には、「褒める」と「誉める」がある。
「褒める」は常用漢字で、「誉める」は常用漢字外の表記となるため、公用文・教科書・新聞などでは「褒める」が使われる。
「褒める」も「誉める」も意味は同じであるため、一般の文章ではどちらを使っても間違いないが、漢字の持つ意味で使い分けられることがある。
褒めるの「褒」は、よい行いに報いる返しをする意味から、相手の行いをほめる意味になっているため、「子供を褒める」など、評価してよしとする意味で「褒める」は用いられる。
誉めるの「誉」は、「名誉」や「栄誉」などに使われる漢字で「ほまれ」。
みんなに持て囃される、よい評判を得るという意味で、みんなで持ち上げてほめる意味から、高い評価を与えるの意味になっっているため、個人的な評価ではなく、勝利や受賞などの場面で「誉める」は用いられる。
このような違いから、「誉める」は目上の人にも目下の人に対しても使えるが、「褒める」を目上の人に対して使うのは失礼といわれることがある。
しかし、目上の人に対して使う「ほめる」が「評価する」という意味であれば、評価するという行為自体が失礼にあたり、「褒める」でも「誉める」でも失礼なことに変わりない。
陰で使われることはあっても、目上の人に対して直接使う言葉ではないため、使い分けるならば、個人的な評価であるか否かという点で考えたほうがよい。
からだ」の漢字には、体・身体・躰・躯・軆・軀・體があり、一般的には「体」、次いで「身体」と書かれることが多い。
「体」と「身体」の基本的な意味は同じだが、使用する場面や、細かな意味の違いで使い分けされる。
常用漢字で「からだ」は「体」と表記するのが正しく、常用漢字で「身体」は「しんたい」と読み、「からだ」を「身体」と書くのは常用漢字外の表記となる。
そのため、公的な文書で「身体」と書いた場合は「からだ」と読まず、「しんたい」と読まれる。
身は、「身が引き締まる」や「身に染みる」というように、心・精神の意味で使われたり、「身の程をわきまえる」や「相手の身になって考える」というように、地位・身分・立場の意味でも使われる。
そのため、心身を表す時には「身体」、固体として肉体を表す時には「体」が使われることが多い。
上記の違いに関連して、次のような使い分けもされる。
体は人間や動物、物体まで幅広く使用されるが、心や精神、地位や立場などを持つのは人間だけなので、身体はほぼ人間に対してのみ使用される。
からだ全体を表す場合は「体」とも「身体」とも書くが、頭と手足を除いた胴の部分を表す場合は「体」のみである。
「体」よりも「身体」の方が改まった表現となり、手紙で「お体を大切に」と書くよりも、「お身体を大切に」と書いた方が丁寧になる。
影は、光が物体に遮られて、光源と反対側に現れる暗い部分。
陰は、物に遮られ、日光や風雨が当たらないところのこと。
影は、「月の影」のように、元々は日・月・星・灯火などの光を表す言葉。
そこから、光が反射して、水や鏡の面などに映る物の形や色などを表し、光が遮られることで見える物の姿や形、黒い部分などを表すようになった。
陰は、日光や風雨が当たらない部分で、必ずしも光と対ではない。
光との関係で考えた場合は、光が遮られることで現れるのが「影」、見えなくなったところが「陰」となる。
陰は、見えないところの意味から、「陰で悪口を言う」のように、その人のいないところや目の届かないところ、「陰のある人」のように、表面には出てこない暗い面の意味でも使われる。
しぼるの漢字には「絞る」と「搾る」があるが、それぞれの漢字が表す意味から使い分けされる。
「絞」の字は、糸を交差させて両方から引きしぼる動作を表し、「ぞうきんをしぼる」「タオルをしぼる」など、両端を持ってねじり水分を出す意味には「絞る」。
「搾」の字は、手で狭く締め付ける動作を表し、「レモンを搾る」「牛乳を搾る」など、圧力をかけて中の液汁を取る・製造する意味には「搾る」を使う。
他にも「しぼる」には様々な意味があるが、「絞る」のほうが使用範囲が広いため、「搾る」の使い方を覚え、残りを「絞る」とした方がわかりやすい。
製造以外で「搾る」を使うのは、圧力をかけて中のものを取り出すことから、「税金を搾り取る」など、無理に取り立てる意味である。
絞るは、ねじって水分を出すという動作から、次のような意味がある。
「知恵を絞る」「声を絞り出す」など、簡単には出てこないものを努力して出す。
「人数を絞る」「的を絞る」など、範囲を小さくする。
「音を絞る」「レンズを絞る」など、音や光の量を少なくする。
「合宿で絞られる」「油を絞る」など、厳しくする、ひどく責める。
最後の例にある、ひどく叱る意味の「油をしぼる」は「絞る」と書くが、油には製品としての油もある。
前にくる言葉が同じでも、意味によって使う漢字は異なり、製品として油を取る場合には「油を搾る」と書く。
液体には「飲む」、固体には「呑む」といわれることもあるが、飲むと呑むの使い分けは、そこまで単純ではない。
酒は液体だが、「酒を飲む」とも「酒を呑む」とも書き、どちらの表記も正しい。
基本的に、液体は「飲む」を使うが、がぶがぶのむこと表す際には「呑む」を使う。
「蛇が蛙を呑む」というように、固体には「呑む」を使うが、必ず「呑む」を使うわけではない。
ふつうは飲まないようなものを、丸ごとのみ込む場合に「呑む」を使い、固体でも、噛まずに流し込むことが常であるものの場合は、「薬を飲む」のように「飲む」を使う。
なお、薬やお茶は「服む」とも書かれるが、「服する」「服用」の意味から当てたもので、「服む」に「のむ」という読み方はない。
呑むは、次のような比喩的表現にも用いられる。
「雰囲気に呑まれる」「敵を呑む」など、圧倒する、見くびる意味。
「要求を呑む」など、承諾、受け入れの意味。
「涙を呑む」「固唾を呑む」など、表に出さない意味。
「波に呑まれる」など、包み込んで見えなくする意味。
「懐にドスを呑む」など、隠し持つ意味。
ただし、「呑」は表外漢字なので、丸のみであっても比喩的表現であっても、公的文書では「呑む」と書かず、「のむ」か「飲む」と書く。
最近はあまり使われないが、「タバコを喫む(喫煙)」「お茶を喫む(喫茶)」など、「のむ」には「喫む」という表記もある。
常用漢字表に「喫」の字はあるが、「喫む」という訓がないため、「喫む」も「のむ」か「飲む」と書く。
重症は、病気や症状が重いことで、対義語は「軽症」。
重傷は、傷の程度が重いことで、対義語は「軽傷」である。
拳銃で撃たれた場合は、「重症を負う」ではなく「重傷を負う」。
なんらかの症状が重くなった場合は、「重傷になる」ではなく「重症になる」。
比喩的に用いる場合、恋わずらいであれば「相当な重症だ」。
精神的なダメージの大きさを表現するのであれば、意味としては「重症」ではなく「重傷」になるが、「重傷」よりも「痛手」が用いられる。
このように一般には、重症が「病気」で、重傷が「傷」として使われるため、誤解されていることもあるが、重症は「症状」なので病気に限らず、ケガの状態も含めていう。
しかし、重症のうち傷のみを表す場合に、「重傷」が使われるという訳でもない。
消防が救急搬送するのは病人とケガ人で、事故によるケガであっても、消防では「重症」を用いる。
警察は事故でケガ人の状態を見るが、病気を診ることはないので、警察では「重傷」を用いる。
マスコミの事故報道で「全治3カ月の重傷」と言われているのは、警察の発表に基づいたものである。
重症と重傷では、治療に必要とする日数にも違いがあり、重症は消防の定義、重傷は警察が定義している。
消防庁による重症の定義は、傷病の程度が3週間以上の入院を必要とするもの。
入院を必要とするが、重症に至らないものを「中等症」。
入院加療を必要としないものは「軽症」という。
警察による重傷の定義は、命に別状はないが、全治30日以上必要とする深い傷や重いケガのこと。
全治30日未満のケガは「軽傷」という。
大分県の温泉地で有名な「ゆふいん」の漢字表記には、「湯布院」と「由布院」がある。
温泉を指すのであれば、正しくは「由布院温泉」だが、観光ガイドでは「湯布院温泉」と書かれていることもある。
また、由布院温泉の住所は、「由布市湯布院町」とややこしい。
元々、ゆふいんは「由布院」と書いた。
昭和30年の昭和の大合併で、旧湯平村と旧由布院町が合併し、作られた町名が「湯布院」である。
町名が「湯布院」となった後も、「由布院温泉」「由布岳」「JR由布院駅」のように、合併前から旧由布院町にあったところには「由布院」を使い、「湯布院映画祭」「湯布院観光協会」など、旧湯平村を含んだ町全体を指す際には、新しい町名の「湯布院」というように使い分けがあった。
しかし、町名は「湯布院」であるため混同され、「湯布院温泉」と書かれることも多くあった。
更にややこしくなったのは、平成17年の平成の大合併。
庄内町・挾間町 ・湯布院町の3町が合併して「由布市」となり、由布院温泉や由布院駅のある湯布院町は、「由布市湯布院町」になったのである。
このように、同じ地域で「由布院」と「湯布院」と「由布」が混在し、使い分けが難しくなったため、現在では「ゆふいん」と平仮名表記されることも多くなっている。
作るは、「料理を作る」「棚を作る」など、比較的小さなものや、「行列を作る」「社会を作る」「記録を作る」など、無形のもの、抽象的なものに用いる。
「つくる」の一般的な表記は、「作る」である。
造るは、「船を造る」「庭園を造る」など、有形の比較的大きなものに用いる。
また、酒・味噌・醤油などは、「製造」「醸造」というように「造る」を用いるが、家庭でつくる味噌などは規模が小さいため「作る」である。
ロボットは、「人造人間」と訳されるように「造る」だが、子供用玩具のロボットは、形も規模も小さいため「作る」である。
「手づくり」は、弁当やケーキなど、機械を使わないで手でつくる小さいものが対象であるため、基本的には「手作り」と書く。
しかし、ハムや家具、お酒など、ふつうは手作りしないもの(機械で製造したり、大量生産するもの)が対象の場合は、「手造り」と書かれる。
創るは、「芸術作品を創る」「新しい雑誌を創る」など、新しいものが対象で、新しいものであれば有形無形を問わず用いられる。
ただし、常用漢字表では「創」に「つくる」の訓がないため、公用文では「創る」と書かず、「作る」か「造る」と書く。
「学校をつくる」という場合、建物という意味であれば、大きな有形物なので「造る」だが、理想の学校という意味であれば、無形のものなので「作る」。
新しい学校という「創立」の意味の場合、私的文章ならば「創る」か「作る」、公用文ならば「作る」と書く。
絶対と絶体は、全く意味の異なる言葉。
「ぜったいぜつめい」は「絶体絶命」としか表記しないが、「絶体」よりも「絶対」の方が絶対的に使用が多いため、「絶対絶命」と誤った表記をされることが多い。
絶対は、他との対立や比較を絶しているという意味で、他に比較・対立するものがないことや、他の何ものにも制約・制限されないことを表し、「絶対君主」や「絶対の真理」と使われる。
このような意味から、「絶対合格する」「絶対に許さない」など、決して・断じて・何がどうあっても必ず、といった意味でも、絶対は使われる。
絶体は、九星術で凶を示す星の名から来ている言葉。
「絶」は、それ以上続けられないぎりぎりの状態のことで、絶体は、体が存続できない限界の状態、体が尽きるような状態を表す。
つまり、絶体は、どうにも逃れられない窮地・立場に追い込まれることを意味する。
歌や本などのタイトルに「絶体」を含んだ言葉(造語)を使うことはあるが、一般には、「絶体絶命」もしくは「絶体絶命」の略以外で使用されることはない。
聞くと聴くは、意識の違いによって使い分けられる。
聞くは、「物音を聞く」「話し声が聞こえる」のように、音や声などを自然に耳に入ってくること。
聴くは、「音楽を聴く」「講義を聴く」「国民の声を聴く」のように、積極的に耳を傾けることを表す。
「聞き耳を立てる」や「聞き惚れる」など複合語の場合は、積極的であっても「聞く」を使うのが一般的である。
「きこえる」は、音や声を自然と耳に感じるものなので、普通は「聞こえる」と書くが、音楽や歌声が自然と耳に入り、その世界に引き込まれることを表す場合は、「聴こえる」と書くこともある。
訊くは、「道を訊く」「都合を訊く」のように、尋ねる、問うことを意味する。
ただし、「訊く」を「きく」と読むのは、常用漢字表にない読み方であるため、公用文では一般的な「聞く」が使われる。
尋ねることを表すため、「訊かれる」ことはあっても「訊こえる」ことはない。
聞くには、「言いつけを聞く」「忠告を聞く」のように、従う、受け入れるという意味もある。
「国民の声を聴く」であれば、国民の意見に耳を傾けることを表すが、「国民の声を聞く」では、国民の意見に従うことになる。
この場合は、「聴く」を使った方が正しい表現となるが、複合語には「聞く」が使われるなど、最も一般的な表記が「聞く」であるため、完全な誤りとは言い切れない。
その他、「香を聞く」「酒を聞く」のように、匂いや味の良し悪しを感じ取り、識別する意味でも「聞く」は使われ、「利く」とも書く。
酒の良し悪しを鑑定する「ききざけ」は、「聞き酒」と表記することもあるが、一般的には「利き酒」と書かれる。
傘も笠も同源で、雨・雪・日光をさえぎるためのもの。
傘は頭上にかざすもので、笠と区別するために「さしがさ」ともいう。
笠は頭にかぶるもので、傘と区別するために「かぶりがさ」ともいう。
椎茸や松茸などキノコの「かさ」は、形が頭にかぶる笠に似ていることからのたとえなので、本来は「笠」と書くのが正しい。
しかし、現代では「傘」と表記される方が多いため、一方が正しく、一方が間違いとはいえなくなっている。
「笠」ではなく「傘」と表記されるようになった理由は、キノコの軸を柄にたとえれば「傘」に見えるためともいわれるが、それではキノコ全体が「傘」になり、指している部分と異なる。
ランプシェードは、本来「電球の笠」であるが、柄にたとえられる部分がなくても「電球の傘」と表記される。
このようなことを踏まえると、現代一般的に「かさ」と呼ばれるものは頭上にかざす「傘」であるため、かさのように覆うものを広く表す際の表記に「傘」が使われている、と考えるのがよいであろう。
大きく分類すると、建物自体を強く頑丈にした「剛」の「耐震」と、振動を軽減させる「柔」の「免震」「制震(制振)」に分かれる。
「免震」と「制震(制振)」は、揺れを軽減する仕組みに違いがあり、「制震」と「制振」の構造は同じものを指すが、使用場面によって用いられる漢字が異なる。
耐震構造とは、耐力壁などの強固な部材や筋交いなどにより、建物の強度を高め、地震の揺れに抵抗できるようにした構造。
耐震構造の場合、建物自体は衝撃に耐えうる強固なものとなるが、揺れ自体を軽減する訳ではないため、大きな地震の場合は、柱・梁・壁などの損傷や家具の転倒は避けられない。
免震構造とは、建物と地盤の間に積層ゴムやダンパーなどの装置を入れて絶縁し、地震による振動が建物に伝わるのを軽減する構造。
免震構造の建物は、揺れを大幅に軽減させることができ、家具の転倒などもほとんどなくなるが、他に比べてコストが高く、軟弱な地盤では使用できないというデメリットがある。
また、建物と地盤を絶縁しているため、強力な台風や竜巻による倒壊や、津波などで押し流される可能性もあるといわれる。
制震構造とは、建物の要所にダンパーを設置することで、振動を吸収し、建物の揺れを軽減する仕組みの構造。
免震構造ほどの効果はないが、建物の一部に可動部分を設けて揺れを吸収するため、ある程度の二次災害は回避でき、コストも免震ほど高くない。
「制震」は「地震を制する」という意味、「制振」は「振動を制する」という意味で、この構造は地震に限らず、新幹線や大型トラックの通過などの振動を軽減することが目的であるため、近年は「制振」が多く用いられるようになってきたが、地震対策の用語として「耐震」や「免震」との比較がしやすいため、「制震」を用いる民間企業も多い。
なお、日本建築学会では、「制振」を正式な用語としている。
精算の「精」は、「精細」「精密」「精巧」などにも使われるように、「細かい」「詳しい」の意味があり、精算は、金額などを細かく計算することや、料金などの過不足を計算し処理することを意味する。
「出張費の精算」「駐車料金の精算」「経費を精算する」などと使う。
清算の「清」には、「清める」「綺麗にする」の意味があり、清算は、債権・債務などの貸し借りに結末をつけることや、解散した会社や組合などの財産処分をすることの意味で、「借金を清算する」「清算会社」などと使う。
また、結末をつけるという意味から、「不倫関係を清算する」「過去を清算する」など、金銭に限らず、それまでの関係や事柄に片を付ける意味でも「清算」は使われる。
「算」の字を含み「せいさん」と読む言葉には「成算」もあるが、成算は、成功する見込みのこと。
精算や精算の「算」は「計算」の意味だが、成算の「算」は「もくろみ」「はかりごと」の意味である。
追求と追及と追究は、いずれも「ついきゅう」と読み、追いかけるという点では共通するが、意味は大きく異なる。
追求とは、目的のものを手に入れるために、どこまでも追い求めること。
追求の「求」は、求めること・手に入れようとすることの意味で、「利益の追求」「幸福の追求」などと使う。
追及とは、どこまでも追い詰めて責任や欠点を問いただすこと。また、後から追いかけて追いつくこと。
追及の「及」の字は、逃げる人の背に手が届いたさまを示した漢字で、追いかけ、追い詰めることを表す。
相手を問いただしたり責める意味での使用が多く、「余罪を追及する」「責任の所在を追及する」などと用いる。
追いかける意味では、「逃げる相手を追及する」「後続走者の追及を振り切る」などと使う。
追究とは、不明なこと・未知のものを、どこまでも深く調べて明らかにしようとすること。
追究の「究」は、極める・奥深くに入り込むという意味で、「研究」という熟語でも使われているとおり、調べる・明らかにすることを表す。
「真理を追究する」「美を追究する」などと使う。
「幸福のついきゅう」には、ふつう、幸福を手に入れようとする意味で「追求」を使うが、幸福というものの本質などを明らかにする意味であれば、「追究」も使える。
また、「事故の原因をついきゅうする」という場合、相手に原因を問いただす意味であれば「追及」、具体的な原因を明らかにする意味であれば「追究」を用いる。
体制と態勢と体勢と大勢は、いずれも「たいせい」と読めるが、まったくの同音異義語である。
体制とは、社会・政治・組織などの継続的な仕組み・構造・様式のことで、「経営体制」「社会体制」「資本主義体制」「新体制」などと使う。
また、「反体制運動」「ベルサイユ体制」など、権力を握っている側も意味する。
態勢とは、ある物事に対する身構えや態度のことで、「受け入れ態勢」「万全の態勢」「警備態勢」などと使う。
「24時間たいせい」や「5人たいせい」という時の「たいせい」は、場面によって使い分けられ、恒久的な仕組みとして行われるのであれば「24時間体制」「5人体制」と書き、緊急事態などに対する一時的な対応であれば「24時間態勢」「5人態勢」と書く。
つまり、長期的・継続的なことには「体制」、短期的・部分的なことには「態勢」を使うというのが、体制と態勢の使い分けのポイントである。
体勢とは、体全体の構えや姿勢のことで、「体勢を崩す」「不利な体勢」「着陸体勢」「射撃体勢」などと使う。
大勢とは、物事の成り行きや傾向のことで、「選挙の大勢が決まる」「大勢に影響はない」「世間の大勢に従う」などと使う。
大勢は「おおぜい」や「たいぜい」とも読むが、この場合は人数が多いことを表し、成り行きの意味では用いられない。
回答とは、質問や要求・要望に答えることや、その答え。
解答とは、問題を解いて答えを出すことや、その答え。
回答の「回」には、「まわる」「めぐる」という意味から、「かえす」という意味があり、類語には応答・返答がある。
「返事」に近い意味の答えが「回答」で、「調査の回答」「アンケートの回答」「問い合わせに回答する」などと用いる。
解答の「解」は「解く」ことで、返事ではなく、筋道をたどって答えを出すのが「解答」である。
「試験問題の解答」「解答用紙」「クイズの解答」などと用いる。
食料も食糧も、「しょくりょう」と読み、食用とする物を意味する。
食料の「料」は米偏に「斗」、食糧の「糧」は米編に「量」で、「斗」にも「量」にも「はかる」の意味があり、使い分けが難しい。
食料と食糧の使い分け方は、食用とするもの全般を表すか、主食のみを表すかの違いが基本となる。
「糧」には「蓄えておく食べ物」「携帯する食べ物」の意味もあり、「兵糧」や「糧米」という言葉があるように、食糧は米や麦などの主食物を指す。
食料は、主食も含めた食べ物全般、もしくは、調理する食材の意味で、肉や魚、野菜などの主食以外の食べ物を表す際に用いる。
政治的・経済的観点では、「食糧自給率」や「食糧問題」など、食用とする物全般を表す際にも「食糧」と表記することが多かったが、昔に比べて主食以外の比率が高くなったためか、最近は「食料」と表記することも多くなっている。
わかるの漢字には「分かる」「解る」「判る」があるが、常用漢字表に従えば「分かる」が正しく、「解る」と「判る」は常用漢字表外の読みであるため、公用文書などでは全て「分かる」と表記する。
また、「わかる」にはいくつかの意味があるが、全ての意味に使えるのが「分かる」である。
公的な文書や公共性の高いところ以外では、「解る」も「判る」も用いるが、意味によって使い分けが必要となる。
「解る」の「解」は、「理解」「解釈」「了解」などに使われる漢字で、「意味がわかる」「日本語がわかる」など、物事の内容や理論がはっきりする意味には「解る」を用いる。
「判る」の「判」は、「判明」「判断」「判決」などに使われる漢字で、「犯人がわかる」「身元がわかる」など、事実がはっきりする意味には「判る」を用いる。
「解る」と「判る」は、前にくる言葉によって使い方が決まっているのではなく、意味によって使い分けるものである。
「答えがわかる」という場合の「わかる」は、筋道を立てて考えた結果の意味ならば「解る」、事実が明らかになった意味ならば「判る」と書く。
使い分けが難しい場合は「解る」や「判る」を使わず、標準的な表記で、全ての意味に使える「分かる」を使うのがよい。
初めは、時間的に早い段階、最初、一番目などの意味の時。
英語でいえば「first」で、文法的には、名詞か副詞として使われる。
始めは、開始、始まり、着手などの意味の時。
英語でえいば「start」「beginning」で、動詞の名詞化表現として使われる。
「はじめ」の漢字「初め」と「始め」の使い分けは、表そうとしている事柄を、上記のように別の言葉に置き換えると分かりやすい。
しかし、中には「仕事はじめ」「社長をはじめとして」「はじめから終わりまで」など、置き換えの判断が難しい場合も多い。
「仕事はじめ」は、新年最初の仕事であり、「年の初め」や「書き初め(かきぞめ)」などの言葉から、「仕事初め」と書かれることもあるが、正しくは「仕事始め」。
「一年の最初の仕事」ではなく、「一年の仕事の始まり」という意味である。
「社長をはじめとして」は、「社長を一番目として」という意味ではなく、「社長に始まり」の意味なので、「社長を始めとして」と書く。
「はじめから終わりまで」は、「初め」と「始め」のどちらも使う。
恋愛に例えると、最初の出会いから別れの時までをいうのであれば「初めから終わりまで」、付き合い始めから別れるまでならば「始めから終わりまで」となる。
対象と対照と対称の使い分けは、英語にすると分かりやすい。
対象とは、行為が向けられる目標や相手のこと。
英語では、「オブジェクト(object)」。
「調査対象」「批判の対象」「恋愛対象」などと使う。
対照とは、他と照らし合わせて比べること。性質の異なるものの違いがきわだつこと。
英語では、「コントラスト(contrast)」。
「比較対照」「AとBを対照する」などと使う。
対称とは、互いに調和を保って釣り合うこと。向き合う二つの点・線・面などが釣り合う位置関係にあること。
英語では、「シンメトリー(symmetry)」。
「左右対称」「対称図形」「点対称」などと使う。
対象は、一つの相手、複数でも一括りとなる相手に関することをいい、対照や対称と異なる。
対照と対称は、二つのものをいうが、対照は「比較」、対称は「釣り合う」ことなので、意味は全く異なり、「対照的」といえば、違いがはっきりしたさま。「対称的」といえば、形や配列などが全く同じさまをいう。
「対象的」という言葉はないが、若者言葉の「的な」の意味であれば使われる可能性はある。
「たいしょうてき」には「対症的」と書く言葉もあり、それぞれの症状に対応する処置をするさまをいう。
対象と対称は、名詞として使うのみだが、対照は「対照する」という形で動詞としても使えるといった違いもある。
対象・対照・対称・対症の他にも、「たいしょう」と読む漢字は多く、大正・大匠・大将・大笑・大勝・大賞・大祥・大捷・大詔・大檣・太衝・体性・対償・待詔・胎生・隊商などがある。
変わる」「代わる」「替わる」「換わる」の使い分け方は、熟語に置き換えて考えると分かりやすい。
変わる(変える)は、「色が変わる」「形が変わる」など、物事の状態や様子が、それまでと違った状態になること。
「住所が変わる」「風向きが変わる」など、他の場所・方向へ動く・移動するという意味や、「季節が変わる」「時代が変わる」など、年月が改まる意味も、今までと違った状態になることである。
「変」の字を使う熟語には、「変化」「変更」「変色」「変身」などがある。
代わる(代える)は、「ピッチャーが代わる」「石油に代わる燃料」など、地位・役割・立場などを別のものに移すこと。
「代」の字を使う熟語は、「代理」「交代」「代用」「代返」など。
替わる(替える)は、「入れ替わる」「着替える」「替え歌」など、それまであった物を新しく別の物にすること。
「替」の字を使う熟語は、「両替」「交替」「替玉」など。
換わる(換える)は、「古本をお金に換える」「配置を換える」「言い換える」など、同等の価値のものに取り換えること。
「換」の字を使う熟語には、「交換」「換金」「転換」「換気」などがある。
ただし、同じ価値のものでも、「両替」は「替」の字が使われたり、一般的に「組みかえ」は「組み替え」と書くが、「遺伝子組み換え」には「換」の字が使われるように、「替わる」と「換わる」を厳密に使い分けることは難しい。
どちらか迷う場合は、一般的な「替わる」を使うか、平仮名表記にするとよい。
本膳料理は、正式な日本料理の膳立てで、室町時代に武家の礼法をもとに確立し、江戸時代に発展したが、明治時代以降に廃れ、現在では、冠婚葬祭などに用いる儀式料理に残る程度である。
食事をとる行為自体に、儀式的な意味合いを強く持たせているのが特徴。
本膳料理では、本膳(一の膳)、二の膳、三の膳から成り、鄭重なものでは、与の膳、五の膳までを供し、料理が一度に並べられる。
献立には、一汁三菜・一汁五菜・二汁五菜・二汁七菜・三汁七菜・三汁九菜・三汁一一菜などの種類があるが、二汁五菜が一般的である。
懐石料理は、茶の湯で濃茶をすすめる前に出す簡単な料理のこと。
空腹の状態で濃茶を飲むと、茶の味が分からなかったり、気分が悪くなるといけないため、軽い食事を出したことに由来する。
温石を懐に抱いて腹を温めるように、腹中を温め空腹をしのぐ程度の料理という意味で「懐石」と呼ばれる。
同音の「会席料理(かいせきりょうり)」と区別するため、「茶懐石」とも呼ばれる。
「懐石」には「料理」の意味が含まれているため、本来は「懐石料理」ではなく「懐石」が正しい。
流派によって違いはあるが、懐石料理では、飯・吸い物・向付、煮物、焼物、預け鉢、吸物、八寸、湯桶・香の物、菓子の順に、一皿・一鉢ずつ出される。
会席料理は、本膳料理を簡略化した料理。
元々は、連歌や俳諧の後、俳人たちが楽しむ食事として出された料理で、会席とは連歌や俳諧の席のこと。
現在では、酒宴の席の上等な料理をさすようになり、本膳料理に次いで、正式な日本料理とされているのが会席料理である。
会席料理は酒を中心とした宴席料理であるため、懐石とは反対に、前菜、吸物・煮物、刺身・膾、焼物などが先で、最後に飯と汁が出される。
懐石は茶席に入る人数が少ないため、多くても5人程度だが、会席料理は酒宴料理であるため、10人以上ということも少なくない。
保証とは、「品質保証」「保証期間」「身元保証」など、責任を持って間違いないと請け合うこと。
また、間違いない、大丈夫だと請け合うことから、「債務保証」「連帯保証人」など、本人に代わって引き受けることも意味する。
保証の重点は、「責任」にある。
保障とは、「社会保障」「安全保障」「人権保障」など、地位や権利などに害のないよう保護すること、保護して損害を与えないこと。
保障の重点は、「保護」にある。
補償とは、「損害補償」「遺族補償」「災害補償」など、損失・損害を補い償うこと。
補償の重点は、「償い」にある。
寄付金(寄附金)とは、公共団体や宗教施設、学校法人などに金銭を贈ること。
災害時に寄せられる寄付金は、用途によって「義援金(義捐金)」と「支援金」に分かれる。
義援金とは、災害などの被害を受けた被災者を支援をするために、日本赤十字社や赤い羽根共同募金などに寄せられる寄付金のこと。
支援金とは、被災地で支援活動するNPO法人やボランティア団体に対して送られる寄付金のこと。
義援金は被災地の自治体に送られ、義援金配分委員会によって寄付金の100%が公平・平等に被災者へ配布される。
確実に被災者の元へ届けたいということであれば、支援金よりも義援金の方が良いが、公平・平等に配分しなければならず、その作業も自治体が被災した混乱の中行うため、被災者の元へ届くまでに、かなり時間がかかるという問題がある。
支援金は被災者へ直接届けられるものではないため、義援金の方が良いとか、支援金の用途は各支援団体が決め、使途や収支報告は行われているが、無駄遣いされる可能性がゼロではないため、義援金の方が良いなどと言われることも多い。
しかし、被災地での救命・復旧活動に役立てられるのは、義援金ではなく支援金で、被災者のニーズに応じて迅速な対応ができるのも支援金である。
支援団体の活動内容を把握し、その支援団体を応援するために寄付するものと考えた方がよい。
「寄付金」と「寄附金」、「義援金」と「義捐金」の漢字表記の違いは、下記の通りである。
「寄付金」と「寄附金」の意味に違いはなく、一般には「寄付金」が多く使われ、法令や公用文では「寄附金」が使われる。
「義援金」は、本来「義捐金」と書くが、「捐」の字が常用漢字ではないため、新聞などでは「支援」の意味から代用して「義援金」と表記される。
「捐」には「捨てる」の意味があるため、「義捐金」よりも「義援金」の方が好ましいとも言われるが、「義捐金」でいう「捨てる」は、「私財を出して(捨てて)人を助ける」という意味である。
のぼる」の漢字には、「上る」と「登る」と「昇る」がある。
広く一般的に使われるのは「上る」で、「階段を上る」「坂道に上る」など、下から上へと一歩一歩足を運ぶ、上へと向かうこと。
「都に上る」「上り列車」など、都へ行く、地方から中央へ行くこと。
「話題に上る」など、取り上げられること。
「食卓に上る」など、高い所に置くこと。
「百万人に上る」など、ある数量に達すること。
のぼせる、逆上を意味する「頭に血が上る」など、使われる意味の幅も広い。
登るは、意図的に、また、踏ん張って高い所へ進む意味の時に使う。
「山に登る(登山)」「頂上まで登る(登頂)」「マウンドに登る(登板)」「演壇に登る(登壇)」のように、熟語で考えると使い分け方も覚えやすい。
昇るは、「天に昇る」「日が昇る」「煙が昇る」など、空中に高くあがる意味が基本としてある。
そこから、「神殿に昇る(昇殿)」といった天を表すような場所にあがったり、「地位が昇る(昇進)」など高い地位に就く意味でも使う。
また、「エレベーターで昇る」「エスカレーターで昇る」のように、昇るは下から上へ移動する意味の中で、「降りる」の反対語(昇降)となる場合に用い、勢いよくあがる、機械を使ってあがるといった意味にも使われる。
ふつう、「階段をのぼる」は「階段を上る」と書くが、表現によっては「登る」や「昇る」を使うこともある。
急な階段をのぼったり、赤ちゃんが階段をのぼる場合は、踏ん張って高い所へ進む、よじ登ることを表すため、「階段を登る」と書いた方が伝わりやすい。
「天国への階段をのぼる」という場合は、天に昇ることを表すため、「天国への階段を昇る」と書く。
このような使い分けを特に意識しない場合は、一般的な「上る」を使うか、ひらがなで「のぼる」と書けばよい。
アヤメとカキツバタは、共にアヤメ科アヤメ属の植物で、「いずれ菖蒲か杜若」という諺もあるように見た目も似ている。
ショウブはサトイモ科で、アヤメやカキツバタと別種であるため見分けはつきやすいが、漢字では「アヤメ」と同じ「菖蒲」と書く。
また、古語で「アヤメ」といえば、「ショウブ」のことを指す。
更に、アヤメ科アヤメ属には「ハナショウブ(花菖蒲)」があり、見た目はアヤメやカキツバタと似ている。
ハナショウブは「ショウブ」とも呼ばれるため、サトイモ科のショウブと区別しにくく、アヤメの漢字表記「菖蒲」とも同じになる。
また、ハナショウブを指して「アヤメ」と呼ぶことも多い。
このように、アヤメ・ショウブ・カキツバタ・ハナショウブは、非常に混同しやすい植物である。
「菖蒲」という漢字表記や、アヤメ科の「(ハナ)ショウブ」という呼称上の類似点を除けば、この中で一番見分けやすいのは、サトイモ科のショウブである。
ショウブは、小川や池などの水辺に生え、5月頃に花を咲かせる。
花は、長剣状の葉の間につける黄緑色の小さな花で、アヤメ科の植物とは区別がつきやすい。
端午の節句に根や葉を風呂に入れて沸かす「菖蒲湯」で使われるショウブは、ハナショウブではなく、サトイモ科のショウブの方である。
アヤメとカキツバタとハナショウブは、以下の特徴から見分けられる。
アヤメは、日当たりの良い乾燥した草地に生え、高さは30~60cm。
開花時期は5月上中旬。花弁の根元に黄色の網目模様がある。
葉は細く、葉脈は目立たない。
カキツバタは、湿地に生え、高さは50~70cm。
開花時期は5月中下旬。アヤメよりも濃い紫色の花で、花弁の根元に白い細長の模様がある。
葉は幅広く、葉脈は目立たない。
ハナショウブは、主に湿地に生えるが、やや乾燥した土地でも生え、高さは80~100cm。
開花時期は5月下旬~6月。花の色や花の形は様々で、花弁の根元に黄色い細長の模様がある。
葉の中央に葉脈がくっきりと見える。
計ると測ると量るは、いずれも「はかる」と読み、「計測」「計量」「測量」という熟語もあるように、計器などを用いて数値を知ることを表すが、はかる対象によって使い分けられる。
計るは、「時間を計る」「タイミングを計る」「損失を計る」など、数や時間を数える際に使う。
「計」を使う熟語には、「時計」「計算」「会計」「累計」などがある。
測るは、「距離を測る」「身長を測る」「面積を測る」など、長さ・高さ・広さ・深さ・速さなどを調べる際に使う。
「測」を使う熟語には、「測定」「観測」「目測」などがある。
量るは、「体重を量る」「容積を量る」など、重さ・かさ・量などを調べる際に使う。「量」を使う熟語には、「重量」「容量」などがある。
次のような場合は、使い分けを間違えやすいため、注意が必要である。
「体温をはかる」の「はかる」は、「体温計」から考えると「計る」と書いてしまうが、「体温測定」という言葉もあるように「測る」を用いる。
温度・熱などは、高低を表すため「測る」である。
「100mのタイムをはかる」の「はかる」は、距離と時間から「スピード(速度)」を連想し、「測る」と書いてしまうこともあるが、この場合は、その距離を走るのにかかった「時間」をいうため、「タイムを計る」と書くのが正しい。
分かれると別れるは、共に「わかれる」と読み、「離れる」という意味においては同じで語源も同じだが、わかれる対象によって漢字を使い分ける必要がある。
分かれるとは、ひとつのものが二つ以上になる、いくつかのより小さいまとまりになること。
分かれるの「分」を使う熟語では、「分離」「分裂」「分岐」「分散」などがある。
別れるとは、一緒にいた人同士が離れ離れになること。
別れるの「別」を使う熟語では、「別離」「別居」「死別」「惜別」などがある。
分かれるは「物や事」、別れるは「人」が対象となる点が使い分けのポイントとなるが、対象が「人」の場合でも、グループなどにわかれることを表す場合は、「分散」の意味になるため、「別れる」ではなく「分かれる」と書く。
また、別れるには、離れ離れになる意味から、それまでの関係を絶つことや、死別や生き別れの意味もあるため、「妻と別れた」と書いてあった場合、単に場所が離れただけのこともあれば、離婚したこと、死別したことなども考えられるため、文脈にも注意する必要がある。
越えるは、物の上や障害、境界などを通り過ぎて向こうへ行くことや、時を経過することを表す際に用いる。
物の上や障害、境界などを通り過ぎる意味では、「頭上を越える」「ハードルを越える」「国境を越える」など。
時を経過する意味では、「冬を越える」「期日を越える」など。
超えるは、基準・数量・範囲・限度などを上回ることになることや、地位・段階などの順序を飛ばして先になること、抜きん出ることを表す際に用いる。
基準・数量・範囲・限度などを上回る意味では、「世界記録を超える」「過半数を超える」「定員を超える」「時速200kmを超える」など。
順序を飛ばして先になる意味では、「先輩を超えて部長になる」など。
上記は簡単な例だが、越えると超えるの使い分けは、曖昧で難しいことも多い。
「国境をこえる」は、ふつう、物理的に国境を通り過ぎることを表すため、「国境を越える」と書く。
しかし、対立する国が一丸となって何かをすることを表す際は、対立していることを見えない壁と捉えれば「国境を越える」、主義や立場という範囲を上回ることと捉えれば「国境を超える」となる。
また、「権限をこえる」は、立場という範囲を上回ることなので「権限を超える」と書きそうだが、「越権」という熟語があるように、境界線を通り過ぎる意味で「権限を越える」と書く。
「60歳をこえる」という場合、年齢は数量なので「60歳を超える」と書くが、「60の坂をこえる」という場合は、60歳という「時期」を坂にたとえた表現なので「60の坂を越える」と書く。
交代と交替は、役目や位置などを入れかえること、また、入れかわることで、同じ意味を表す言葉である。
次のような漢字の使い分け方があるにはあるが、同音異義語ではないため、必ずその通りとは限らない。
一般に、交代は「世代交代」「議長を交代する」など、一回限りでかわる時に用い、交替は「一日交替で勤務する」「当番を交替する」など、かわり合うことが繰り返される時に用いることが多い。
この使い分け方に従えば、野球でベンチに下がった選手は、その試合中に出ることはないので「選手交代」、バレーボールは繰り返し出るため「選手交替」となるが、バレーでも「選手交代」と書かれることが多い。
江戸時代の「参勤交代」は、繰り返し行われることで、武家諸法度の条文にも「交替」の文字が見られるが、普通は「参勤交代」と書く。
また、新聞用字では「交代」で統一されているため、繰り返しかわる場合でも、「交替」ではなく「交代」と書かれる。
ながいの漢字「長い」と「永い」の使い分けは、まず、時間のことなのか、時間以外のことなのかで分けられる。
「長い髪」「長い道」など、空間的に端から端までの隔たりが大きいことや、「気が長い」「長い目で見る」「息の長い」など、抽象的な表現には「長い」を用いる。
「短い」の対義語は「長い」で、一般的な表記は「長い」である。
「長年」と「永年」、「長い年月」と「永い年月」、「長らく」と「永らく」など、時間的な表現にはどちらも使うが、「長い」は単にながい時間を表し、「永い」はいつまでも続く永続的・永遠的なことを表す。
なお、永年は「えいねん」とも読み、「永年勤続」というように用いられる。
「永い」は永続的な表現となることから、「末長いお付き合い」と書くよりも、「末永いお付き合い」と書いた方が、いつまでもお付き合いしたいという印象を与える。
また、永遠的なことを表すため、「永い眠りにつく」など、死に関する表現でも「永い」は用いられる。
春の季語の「ひなが」と、秋の季語である「よなが」は、同じような時間の長さを表す言葉だが、春は「春の日永」、秋は「秋の夜長」というように、慣用として使い分けが決まっているものもある。
鳥類学では「羽」と「羽根」を使い分けておらず、全て「羽」と表記するが、一般には「羽」と「羽根」の表記は使い分けされている。
「羽」と書くのは、鳥の全身を覆う軽い毛、鳥や昆虫が飛ぶための器官(昆虫の場合は「翅」とも書く)、翼状のもの。
「羽根」と書くのは、鳥や昆虫の体から抜けた羽や、羽を加工したもの、またそれに模したものである。
「はねを伸ばす」や「はねを休める」は、鳥の翼にたとえた言葉なので、「羽を伸ばす」「羽を休める」と書く。
共同募金の「赤いはね」は、1本になっているので「赤い羽根共同募金」。
バドミントンや羽子板の「はね」も「羽根」である。
飛行機の「はね」は翼状になっているため「羽」と書くが、ヘリコプターのプロペラや扇風機の「はね」は翼状でないため「羽根」。
トンボの「はね」は「羽(翅)」だが、竹トンボの「はね」は「羽根」と書く。
掛け布団の「はね」は、バラバラになった羽が加工されたものなので、普通は「羽根」と表記するが、鳥の全身に生えている毛のような役割をするものという観点から、「羽」と書かれることもある。
有るは、「財産が有る」「貫禄が有る」「有りがち」など、「持っている」「備わる」「含まれる」といった「所有」の意味で用い、反対語は「無い」である。
また、「有り得ない」「有り難い」など、「起こる」という意味でも用いる。
在るは、「東京に在る」「要職に在る」「言論の在り方」「在りし日の思い出」など、場所・地位・環境などにいるといった「存在」の意味で用いる。
或るは、「或る所」「或る日」のように、具体的には示さず、そのようなものの存在だけをにおわせ、漠然と物事をさす際に用いる。
「有る」と「在る」と「或る」の使い分けは上記のようになるが、基本的に「有るか無いか」のように明確な場合以外は、「ある」とひらがなで表記する。
また、「〇〇である」という場合も、ひらがなで表記する。
皮とは、「手の皮」や「みかんの皮」など、動植物の外表を覆っている膜。
「餃子の皮」や「饅頭の皮」など、物を覆ったり包んだりしているもの。
「化けの皮」や「欲の皮」など、物事の本質を覆っているものをいう。
革とは、「牛革の靴」「蛇革の財布」など、動物の皮から毛や脂肪などを取り除き、腐敗や硬化することを防ぐために薬品で処理する「なめし加工」をしたもののこと。
「毛皮」はなめし加工してあるが、毛を剥いでいないため、「毛革」と表記しない。
一般的には「皮」と「革」は区別して使われるが、上記のように処理した「革」も動物の皮に変わりないため、「皮」と表記されることも少なくない。
ただし、「みかんの皮」を「みかんの革」と書いたり、「餃子の皮」を「餃子の革」と書くなど、「革」の意味に当てはまらない表記は間違いである。
皮革は、動物の皮を加工したものの総称。
「皮革製品」「皮革商」「皮革工業」などと用いることが多く、日常会話で用いることは少ない。
おさえる」の漢字には、「押さえる」と「抑える」がある。
敵の侵入を防ぐ場合、侵入を食い止めるという意味では「敵の侵入を抑える」と書くが、物理的な力を加えるという意味では、「敵が入ってこないようにドアを押さえる」と書くように、同じ状況を表す際にも使い分けが必要である。
押さえるは、「手で押さえる」など、実際に力を加えて動かないようにする意味。
「傷口を押さえる」など、被せる、覆う、押し当てるという意味。
「証拠を押さえる」「要点を押さえる」「店を押さえる」など、捕らえる、つかむ、確保するといった意味で使う。
抑えるは、「反撃を抑える」など、勢いを止める、食い止めるという意味。
「眠気を抑える」「涙を抑える」「不満を抑える」など、こらえる、我慢する、感情を抑制する意味。
「甘さを抑える」「経費を抑える」など、控えめにするという意味で使う。
上から圧力を加えて動かないようにするという意味では、「押さえる」と書くのが一般的だが、その他に「圧さえる」と書くこともある。
おもう」を漢字で書く際、多くの場合は「思う」を用い、特に感情を込めた表現には「想う」を用いる。
「思う」と「想う」の漢字の成り立ちを見ても、このような違い・使い分けがわかる。
「思」の「田」の部分は幼児の脳の形を表したもので、「心」は心臓の形。
つまり、頭で考えたり、心で感じることを表すのが「思う」。
一方の「想」は、木を対象として見ることを表す「相」に「心」。
つまり、頭で考えるのではなく、心でその姿を見るのが「想う」で、対象をイメージしている分、「思う」よりも感情を込めた表現になる。
同じ「相手をおもう」という言葉でも、「相手を思う」では普通の表現になるが、「相手を想う」と書いた場合は、相手の姿や性格などを具体的にイメージしていることになるため、より感情を強く表すことができる。
「おもいで」の場合も、「思い出」は普通の表現だが、「想い出」は当時の情景を心に描いているような印象を与える。
基本的には「思う」を用い、感情を込めた表現には「想う」を用いるが、「思う」と「想う」以外にも、「おもう」には「念う」「懐う」「憶う」「惟う」がある。
念うは、その「おもい」が揺るぎないものであることを強調する場合。
懐うは、しみじみと「おもう」ことを表す場合。
憶うは、忘れないでいる、おもい出すことを表す場合。
惟うは、「惟うに」といったかたちで、「考えてみるに」「思いめぐらしてみるに」の意味で用いる。
開放は、「窓を開放する」「校庭を開放する」など、門戸や窓などを開け放すこと。「開放経済」など、制限をなくして出入りを自由にさせること。
「開け放す」が熟語になった言葉で、対義語は「閉鎖」。
解放は、「人質を解放する」「苦痛から解放される」など、制限を解き放して自由にすること。
「解き放す」が熟語になった言葉で、対義語は「束縛」と覚えておくと、使い分けしやすい。
「開放感」と「開放感」はどちらも使う言葉なので、表現したい意味によって使い分けが必要となる。
「外に出て開放感を味わう」という場合は、狭い部屋から外に出て、広々とした空間や風景を楽しむことを表し、「外に出て解放感を味わう」といった場合は、仕事や家事などの束縛から逃れ、自由を満喫している様子を表す。
あく・あける」の漢字には、「明く・明ける」「開く・開ける」「空く・空ける」がある。
「明く・明ける」は、「夜が明ける」など「明るくなる」の意味や、「梅雨が明ける」や「夜勤明け」など「期間が終わる、片付く」の意味、「襟明き」など衣服の仕立て方に使われる。
「開く・開ける」は、「扉が開く」「蓋を開ける」など「ひらく(開く)」「オープン」の意味、「空く・空ける」は、「席が空く」「家を空ける」など「から(空)」の意味で使う。
対象によっては、「明く」と「開く」、「開く」と「空く」のどちらも使う場合があるので、使い分けに注意が必要である。
「目をあける」の場合、目を覚ますことを表すのであれば、目の前が明るくなることをいっているので、「目を明ける」と書くが、閉じていた目が開いたという動作を表すのであれば、「目を開ける」と書く。
「店をあける」の場合、開店を表すのであれば「店を開ける」、店をからにして留守にする意味であれば「店を空ける」。
「箱をあける」の場合も、箱の蓋をひらく意味であれば「箱を開ける」、箱の中身をからにする意味であれば「箱を空ける」と書く。
「穴をあける」の場合、ピアスの穴のように開放や開通させる意味であれば、「穴を開ける」で、基本的には「穴を開ける」と書くことが多い。
しかし、空間をつくることを表すのであれば「穴を空ける」で、「胃に穴があく」は「胃に穴が空く」と書く。
上記のような物理的な穴と違い、「舞台に穴をあける」や「家計に穴をあける」など慣用句として抽象的な表現の場合は、「穴をあける」とひらがな表記する。
まじる」「まざる」「まぜる」の漢字には、「交」「混」「雑」がある。
「交」は、「白髪が交じる」「大人の中に交じる」など、別種のものが入り込んでいるが溶け合わず、元の素材が区別できる場合に用いる。
「混」は、「絵具を混ぜる」「砂糖に塩が混じる」など、別種のものが溶け合って、元の素材が区別できない場合に用いる。
「雑」は、「柴犬の血が雑じる」「異物が雑じる」など、別種のものが入り込んで純粋さを失う場合に用いるが、常用外漢字であまり使わないため、「雑」を用いる場面では「混」の字が使われる。
基本的には、元のものが区別できる場合に「交」、元のものが区別できない場合に「混」を使うと覚えればよいが、区別ができても「混」を使う場合もあるので注意が必要である。
男性と女性は区別できるものなので、「男の中に女が交じる」など「交」の字を使うが、「男女混合」「混浴風呂」などは「混」の字を使う。
区別ができるのに「混」を使う理由は、別種のものが合わさり、溶け合ったひとつのまとまり、集団として捉えるためである。
小額は「小さな額」で、金額の単位が小さいという意味。
1万円札に対して1円玉や100円玉などが小額で、「小額紙幣」「小額貨幣」「小額通貨」などと用いる。
少額は「少しの額」で、金額が少ないという意味。
同じ1万円であっても、1円や10円からすれば多い金額だが、100万円や1,000万円からすれば少ない金額で、基準となる額から見た時に少ない金額が「少額」となる。
「少額出資」「少額訴訟」「少額の寄付」「少額の費用」など、小額に比べて使用される頻度が高い。
小額の対義語は高額で「高額紙幣」など、少額の対義語は多額で「多額の費用」などと用いられる。
ただし、「少額訴訟」の対義語となるのは、「多額訴訟」ではなく「高額訴訟」であるように、少額と高額が対となることも多い。
これは、高額が金額の単位が大きい意味のほか、多額の類語で「高い金額」も表すためである。
また、少額の類義語には「低額」があり、低額も高額の対義語である。
好意」も「厚意」も、相手を思う親切な心という共通の意味があり、「ご好意に甘える」「ご厚意に甘える」は、どちらも使われる。
好意には、親切な気持ちの意味のほか、相手にいだく親しみや、相手を好ましく思う気持ちの意味もあり、親愛という感情に重点が置かれる。
一方の厚意は、親愛の気持ちから行われたものであるかは関係なく、親切心や思いやりの心が、行為によって表れていることに重点が置かれる。
「好意を持つ」「好意を寄せる」などは、行為ではなく感情を表すものなので、「厚意を持つ」「好意を寄せる」とは使えない。
厚意は一般的に、自分ではなく、他人が示してくれた手厚い親切な行為についていうものなので、自分の行為についていう場合は、「私の厚意を無にされた」ではなく、「私の好意を無にされた」と書くのが正しい。
おばさんの漢字表記には、「伯母さん」「叔母さん」「小母さん」がある。
使い分け方は、おじさんの漢字「伯父さん」「叔父さん」「小父さん」と同じで、父または母の姉にあたる人には「伯母」、父または母の妹にあたる人には「叔母」を使い、近所のおばさんなど、よその年配の女性を表す場合は「小母」と書く。
兄の妻も姉にあたり、弟の妻も妹にあたるため、父や母より年下であっても、父母の兄の妻であれば「伯母」、父や母より年上であっても、父母の弟の妻であれば「叔母」と書く。
なお、「伯」の字は「頭」「統率者」、「叔」の字は「若い」「年少者」を意味する。
怖いと恐いは、ともに、悪い結果が予想され、不安である、近寄りたくない、身がすくむ。また、不思議な力がありそうで不気味であるといった意味で使われる。
「怖い」と「恐い」に意味の違いがないため、「怖い」と「恐い」には使い分け方もない。
ただし、私的な文章では「怖い」と「恐い」のどちらを使っても問題ないが、「恐い」は常用漢字外であるため、公用文では「怖い」を使わなければならない。
「恐い」を別の読み方をすると「恐ろしい」になる。
「怖い」は心情を主観的に表し、「恐ろしい」は客観的に表す言葉であるため、主観的な時には「怖い」、客観的な時には「恐い」という使い分け方をいわれることもある。
しかし、「怖い」と「恐ろしい」の比較は、常用漢字外である「恐い」を使わず、常用漢字の「怖い」と「恐ろしい」を比較したものであり、「怖い」には「恐い」も含まれている。
つまり、「怖い」と「恐ろしい」の違いは、「恐い」と「恐ろしい」の違いでもあるため、それを元に「怖い」と「恐い」の使い分けを考えることはナンセンスである。
強いは、「つよい」とも読み、「手強い(てごわい)」という言葉もあるように、力強い、強情である、かたい、ごわごわしているといった意味で使う。
「怖い・恐い」と「強い」では意味が異なるが、元々、「こわい」は「かたい」という意味で、そこから「つよい」の意味が生まれ、「つよい」から「近寄りたくない」といった感情を表すようになったもので、「怖い」も「恐い」も「強い」も語源は同じである。
勧める・奨める・薦めるは、いずれも「進める」と同源で「すすめる」と読む。
勧めるは、「読書を勧める」「出席を勧める」など、行為をするよう人に働きかけることや、「貯蓄するよう勧める」「省エネを勧める」など、そのことを積極的に実行するよう励ますこと。
「座布団を勧める」「酒を勧める」など、物や飲食物を供して使用してもらおうとすることの意味である。
奨めるは「勧める」と同義で、行為をするよう誘ったり、実行するよう励ます意味で使うが、常用漢字表外なので、普通は「勧める」に置き換える。
薦めるは、「候補者として薦める」「新商品を薦める」など、人や事物を採用するよう働きかける意味で使う。
「読書をすすめる」と「良書をすすめる」の場合、「読書をすすめる」の方は、読書という行為をするよう働きかけることで、勧誘や奨励の意味なので「読書を勧める」。
一方の「良書をすすめる」は、数ある本の中から、読むべき本として採用するよう働きかけることで、推薦や推奨の意味なので「良書を薦める」と書く。
このように、「勧める」と「薦める」の使い分けは、働きかけていることが行為か採用なのかによって変わってくるため、似ている事柄をいう時には特に注意が必要である。
予言と預言の使い分けは、漢字の意味を正しく理解している人ほど間違えやすい。
予言とは、未来のことを予測して言うことや、その言葉。
預言とは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの啓示宗教で、神から預けられた言葉を人々に伝えることや、その言葉である。
予言は大災害や事件・事故などの予知をする占いやチャネリングといったオカルト的分野のほか、科学的データに基づいた予測など、使われる範囲は広いが、預言は宗教に限って使われる。
「ノストラダムスの大予言」で有名なノストラダムスは、予言者であって預言者ではなく、有名な預言者といえば、モーセやイエス・キリストなどが挙げられる。
予言は予測なので的中率があるが、預言は神の言葉を伝えるものなので、的中率とは無縁である。
このような使い分け方をするようになったのは、予言には「予め(あらかじめ)」の意味があり、預言には「預かる(あずかる)」の意味があるからである。
しかし、「予」にも「あずかる」の意味、「預」にも「あらかじめ」の意味があり、予言と預言は同義で、本来は使い分けが必要な漢字ではない。
そのため、漢字の意味をよく知っている人ほど、予言と預言の使い分けを間違えやすいが、現代文で「予かる」や「預め」と書くことはないため、一般的に使われる意味の違いで、予言と預言の使い分けを覚えておくとよい。
懐古と回顧は、昔を思い返すという点では共通するが、意味に違いがあり、使い分けが必要である。
懐古には「懐かしむ」の漢字が含まれているように、昔のことを懐かしく思うこと。
回顧には「顧みる」が含まれているように、過去を顧みることを意味する。
「子供の頃をかいこする」という場合、「あの頃は良かった」と肯定的で、懐かしく思い返しているのであれば、「懐古」と書く。
良くも悪くも、事実を客観的・批評的な見方で思い返しているのであれば、「回顧」である。
自分の生きた時代を振り返り記録したものを「回顧録」という。
人生を振り返る時には、懐かしむ気持ちも生まれるかもしれないが、懐かしむばかりではなく、事実を記録するものなので、「懐古録」と書くのは誤りである。
自分が生まれる以前のこと、経験していないことでも、どこか懐かしく感じられることはあるため、懐古は「明治時代を懐古する」や「懐古趣味」といった使われ方もする。
エビを「海老」と表記するのは、長い髭と曲がった腰が老人のように見えることからの当て字で、日本で作られた。
「蝦」は中国から伝わった漢字で、仮面や外皮をかぶる意味の「叚」と、古くは動物の総称であった「虫」からなる。
海老と蝦の使い分け方は、移動の仕方で区別されている。
エビには、イセエビやロブスターのように大型で砂地に生息して海底を歩く種と、クルマエビやサクラエビのように中・小型で海中を泳ぐ種がある。
そのうち、歩行型のエビには「海老」、遊泳型のエビには「蝦」の漢字が使われる。
ただし、この使い分け方は厳格に決まっているものではなく、日本では「蝦」よりも「海老」の表記が一般的であるため、クルマエビやサクラエビなども、「車蝦」「桜蝦」ではなく、「車海老」「桜海老」と書かれることが多い。
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飛ぶと跳ぶは、「空中を移動する」「飛行する」「fly」の意味であれば「飛ぶ」、「空中にはね上がる」「跳躍する」「jump」の意味であれば「跳ぶ」と使い分ける。
「とび上がる」の場合、鳥や飛行機など空中を移動するものであれば「飛び上がる」で「飛ぶ」、カエルなど跳ねるものであれば「跳び上がる」で「跳ぶ」を使う。
「バッタがとぶ」の場合、羽(翅)でとぶことを表すのであれば「バッタが飛ぶ」、後ろ脚を蹴ってとぶことを表すのであれば「バッタが跳ぶ」となる。
「とび降りる」の場合、降りている間に空中を移動する、下方へ飛び込むことなので、「飛び降りる」と書く。
なお、「飛び降りる」と「飛び下りる」は両方とも使われるが、高い所から低い所へ位置づける場合は「降りる」を使うため、「飛び降りる」と書くのが一般的である。
「とび跳ねる」の場合、泥水であればジャンプしないので「飛び跳ねる」、子供ならば「跳びはねる」と書く。
「跳びはねる」の「はねる」をひらがな表記にする理由は、「跳」の字が続くと見苦しいためである。
「高とび」の場合は、陸上競技であれば「棒高跳び」「走り高跳び」と「跳ぶ」を使い、逃亡する意味では「高飛び」で「飛ぶ」を使う。
高飛びのように、空中を移動する以外の意味で使う「飛ぶ」には、「現場に飛ぶ(大急ぎでかけつける)」「デマが飛ぶ(広く伝わる)」「ボーナスが飛ぶ(消える)」「話が飛ぶ(間を抜かして先へ進む)」などがある。
とぶには「飛ぶ」と「跳ぶ」のほかに、「翔ぶ」という漢字もある。
翔ぶの意味は、空高く飛ぶ、大空を自由に飛びまわる。
飛行機や鳥ではなく、火の鳥などの空想上の動物が空高く飛ぶことや、自由に飛び回ること。また、そのようなものにたとえた比喩として使う言葉で、文学的な表現である。
漢字辞典では、「翔」の訓読みは「かける」のみで、「とぶ」は採用されていないが、平安末期の『類聚名義抄』には「翔」の訓読みに「とぶ」が採用されており、「翔ぶ」が当て字というわけではない。
回復とは、悪い状態になったものが、元の状態になること。一度失ったものを取り戻すこと。
悪い状態から元の状態に戻る意味では、「景気回復」「健康が回復する」「疲労回復」など。
失ったものを取り戻す意味では、「信用を回復する」「名誉を回復する」などと使う。
「恢復」の表記もあるが、常用漢字外表記であるため、あまり使われない。
快復とは、病気が治ること。
「傷が快復する」「病気が快復する」などと使う。
病気が治る意味では、回復も快復も使え、それ以外の意味では回復しか使えないという違いがあるが、病気が治る意味の中でも、回復と快復には使い分けがある。
快復の「快」の字は、「こころよい」という意味。
病気に対して使われる時は、「病気の元が取れて気持ちがよい」という意味から、快復には「完全に治る」というニュアンスが含まれている。
全快、快癒、快気祝いの快気などは、「完全に治る」という意味である。
「少しでも”かいふく”してくれれば」という場合に「快復」と書くと、「少しでも完全に治ってくれれば」という変な意味になってしまうため、「回復」を使うのが正しい。
また、病気の人に対して「”ごかいふく”をお祈り申し上げます」という場合は、「ご回復」よりも「ご快復」のほうが、「完全に治って欲しい」「良くなってさっぱりとして欲しい」という意味が含まれるため、「快復」を使ったほうがよい。
成長は、「成長期の子供」「成長した犬」「成長株」「高度経済成長」など、人や動物が育って大きくなる意味のほか、物事の規模や内容が大きくなることも表す。
生長は、「稲の生長」「樹木の成長」など、植物が育って大きくなることを表す。
つまり、成長と生長は、対象が植物か植物以外かによって、使い分けられるという違いがある。
しかし、成長と生長を使い分けて表記することは混乱を招くという理由から、現代の学問の世界では、植物であっても「成長」が使われるようになっている。
新聞やテレビなども、「成長」の表記で統一されており、「生長」が使われるのは、「生長の家」などの固有名詞に限られている。
そのため、どうしても植物は「生長」で表したい、固有名詞で「生長」が使われているといった場合を除き、「成長」と書いたほうが間違いがなく無難である。
夏季とは、夏の季節のことで、季節が中心にある言葉。
「夏季オリンピック」「夏季限定メニュー」など、夏だからこそ行われることには「夏季」が使われる。
夏期とは、夏の期間のことで、期間が中心にある言葉。
「夏期講習」「夏期大学」など、それ自体は季節を問わず行われるもので、今回行う期間が夏という場合に「夏期」が使われる。
夏季休暇と夏期休暇の場合は、暑い夏の季節だから休むものと捉えれば「夏季休暇」、夏の間の一定期間の休みと捉えれば「夏期休暇」となる。
どちらか一方が間違いということではなく、捉え方の違いだけなので、使いたい方を使えばよい。
ただし、学校教育法施行令では休業日について「夏季」を使用しているため、学校では「夏季休暇」を使う必要がある。
また、これにならって新聞やテレビも「夏季休暇」を使っているため、「夏季休暇」と「夏期休暇」で迷う場合は、「夏季休暇」を使用するのが無難である。
効くは、「効果」や「効能」の熟語があるように、「薬が効く」「宣伝が効く」など、効果や働きが現れることに使う。
利くは、それ以外の場合に使い、「鼻が利く」「気が利く」「機転が利く」「ブレーキが利く」など、十分に機能を発揮する、役立つという意味。
「融通が利く」「小回りが利く」など、可能である、できるという意味で使う。
また、「口を利く」の形で、「生意気な口を利く」「無駄口を利く」など物を言う意味や、「伯父の口利きで就職した」など世話をするという意味でも使われる。
わさび・甘味・辛味・酸味・出汁・パンチなどのように、効果とも機能ともとれるものの場合は、意味に合わせて「効く」と「利く」を使い分けるか、判断が難しい場合は、ひらがなで「きく」と書く。
意味に合わせて「利く」と「効く」を使い分ける際に注意をしたいのは、使えない場合があるということ。
「わさびを利かせる」や「パンチを利かせる」のように、利くであれば「働かせる」「機能を発揮させる」という意味の他動詞として使うことができる。
しかし、効くを他動詞として使おうとすると、「効果を現れさせる」という変な意味になる。
そのため、効くは「わさびが効いてる」や「パンチが効く」といった形の自動詞としてしか使えない。
時期とは、あることを行う時。ある一定の期間。
時季とは、季節。特に、あることが盛んに行われる季節や、そのことをするのに最もふさわしい時期。
時機とは、あることを行うのにちょうど良い機会。
時期と時季と時機の使い分けは、英語で考えるとわかりやすく、時期は「タイム(time)」、時季は「シーズン(season)」、時機は「チャンス(chance)」である。
使い分けを間違えやすいのは時期と時季で、期間を表すのか季節を表すのか迷う場合である。
「入学のじき」といえば「春」だが、入学を行う時を表すため、「入学の時季」ではなく「入学の時期」。
「寒いじき」で「冬」という季節を強調したいのであれば、「寒い時季」と書くことも間違いとは言い切れないが、普通は寒い期間を表すため「寒い時期」と書く。
「行楽のじき」は「行楽シーズン」に置き換えられるように、行楽が盛んに行われる季節を表すため、「行楽の時季」と書く。
しかし、「行楽でにぎわうじき」という場合は期間を表すため、「行楽でにぎわう時期」と書く。
時期と時機の使い分けで間違えやすいのは、あることを行うにはまだ早いことを意味する四字熟語の「じきしょうそう」。
タイミングであってチャンスではないめ、「時機尚早」ではなく「時期尚早」と書く。
また、「じきそうしょう」と読んだり、「時期早尚」と書くのも誤りである。
遵守も順守も「じゅんしゅ」と読み、法律や道徳・決まりなどに従い、それを守ることを意味し、「法令遵守」「法令順守」の形で多く使われる。
一般には「遵守」と「順守」のどちらを使っても間違いではなく、「遵」も「順」も常用漢字である。
しかし、公用文や教科書では「遵守」と表記し、新聞やテレビでは「順守」の表記が使われている。
これには次のような理由がある。
元々の表記は「遵守」であったが、昭和29年3月15日の国語審議会の「当用漢字表審議報告」の中で、当用漢字表から削除する字として「且」「但」「又」など28字が候補として挙げられ、その中に「遵」の字が含まれていた。
日本新聞協会では、この当用漢字補正資料に基づいて、「遵」の代用として「順」の字を使うようになり、「順守」と表記するようになった。
しかし、この削除案は案のままで終わり、昭和56年に当用漢字表が廃止され、常用漢字表となった際にも「遵」の字は残っていた。
新聞協会では、国語審議会から常用漢字が告示されるまでの25年以上、代用として「順守」を採用していた経緯もあって、継続して「順守」を採用することにした。
当用漢字補正資料の削除案は案であり、当用漢字表から「遵」の字が削除されたわけではなかったため、公用文や教科書では「遵守」が使い続けられていた。
このようなことから、公用文や教科書では「遵守」、新聞やテレビでは「順守」と表記が分かれるようになったのである。
法律に従って背かないという意味の「じゅんぽう」にも、「遵法」と「順法」の二通りの表記があり、「遵守」「順守」と同じ理由で、公用文や教科書では「遵法」、新聞やテレビでは「順法」が使われている。
暖かい」と「温かい」の使い分け方は、「暑い」と「熱い」の使い分けと似ている。
気温や気候が、寒すぎず暑すぎもせず、程よいさまを表す際には「暖かい」と書く。
物の温度や体温が、冷たすぎず熱すぎもせず、程よいさまを表す際には「温かい」と書く。
つまり、体全体で感じることには「暖かい」を使い、対義語は「寒い」。
手や舌など体の部分や、心で感じることには「温かい」を使い、対義語は「冷たい」になるのである。
「あたたかいもてなし」や「あたたかい眼差し」のように、愛情や思いやりなどがあって感じがよいことを表す「あたたかい」は、「心」のあたたかさをいうため「温かい」を使い、熟語では「温情」や「温和」が当てはまる。
「暖かいもてなし」「暖かい眼差し」の反対表現は、「冷たいもてなし」や「冷たい眼差し」になる。
赤色・黄色・オレンジ色などをいう時の「あたたかい色」は、視覚から体全体があたたまる印象を受けるものなので、「暖かい色」と書き、対義語は「寒い色」。
熟語では「暖色」、対義語は「寒色」である。
「懐があたたかい」のように、金銭が十分にあることを表す「あたたかい」も、経済的に豊かで体全体があたたまるようなことをいうため、「暖かい」と書き、反対は「懐が寒い」になる。
収めるには、「財布に収める」「カメラに収める」など、中に入れる、記録に残すという意味。
「勝利を収める」「手中に収める」など、自分のものにする、よい結果を得るという意味。
「インフレが収まる」「丸く収まる」など、鎮める、落ち着いた状態にするといった意味がある。
納めるには、「月謝を納める」「税金を納める」など、渡すべき金や物を渡すという意味。
「社長の椅子に納まる」「遺骨を墓に納める」など、入るべき所に落ち着くの意味。
「見納める」「仕事納め」など、終わりにするという意味がある。
「収納」という言葉があるように、「収める」と「納める」は「きちんと中に入れる」という意味があるが、基本的には「収める」を用い、あるべき所に入れるという意味や、義務があるといった場合に「納める」を用いる。
使い分けが難しい場合は、「収容」「収集」「収得」、「納骨」「納棺」「納入」などの熟語に置き換えてみるとよい。
治めるには、「国を治める」「領地を治める」「痛みが治まる」など、支配する、鎮める、平和な状態にするの意味がある。
「争いをおさめる」「怒りをおさめる」など、鎮める、落ち着いた状態にするという意味では、「収める」と「治める」が使われ、一般には、どちらを使っても間違いではない。
厳密に使い分けたい場合は、「収束」や「治安」などの熟語に置き換えて考えたり、落ち着かせるの意味が強い場合に「収める」、正しくするの意味が強い場合に「治める」と使い分けるとよい。
修めるは、「学業を修める」「武道を修める」など、身につける、修得する意味。
「身を修める」「身持ちが修まらない」など、心や行いを正しくするという意味の時に使う。
行き渡るように配ることを意味する「はいふ」には、「配布」と「配付」の漢字表記があるが、意味で使い分ける場合と表記が統一されている場合がある。
配布の「布」には「広く行き渡らせる」という意味があり、「駅前でビラを配布する」など、配って広く行き渡らせる意味の「はいふ」は「配布」と書く。
配付の「付」には「手渡す」「そこまで持っていく」の意味があり、「配」が付いた「配付」は、一人一人の手に渡るよう配りつけることを意味する。
そのため、「関係者に資料を配付する」など、特定の人に行き渡るよう配る意味の時には「配付」と書く。
一般には、不特定多数の人を対象とする時に「配布」、特定の人を対象とする時には「配付」と使い分けるが、公用文として用いる場合は例外である。
配付と配布は、「法令用語改正要領(昭和29年11月)」によって「配布」に統一されている。
そのため、新聞やテレビなどの報道でも、「配布」の表記で統一されている。
ただし、「交付税」や「譲与税配付金特別会計」のような特別な場合には、「配付」を用いることとなっており、すべて統一して「配布」と表記する訳ではないので、使い分けに注意が必要である。
交通機関が発行する乗車券の「切符」。
一般には漢字表記しているが、JRでは「きっぷ」とひらがな表記しており、他の鉄道会社も多くは「きっぷ」とひらがな表記している。
JRが切符を「きっぷ」にしている理由は、幼い子どもなど漢字が読めない人のためではなく、乗車券ではないものを「切符」としているためである。
JRで「切符」は、旅客関係以外で現金を受け取る時や、内部帳票などを指し、「手回り品切符」「一時預かり品切符」「遺失物切符」などに使われる表記である。
そのため、乗車券を販売する場所を「切符売り場」と漢字表記する訳にはいかない。
それならば、「乗車券売り場」にすれば良いように思えるが、「きっぷうりば」では乗車券以外にも販売されているものがある。
「きっぷうりば」で販売されているものには、乗車券(普通乗車券、定期券、回数券、団体乗車券)、特急券、急行券、グリーン券、寝台券、指定席券、乗車整理券、ライナー券などで、旅客営業制度上、これらをまとめて「乗車券類」という。
このことから、本来は「乗車券類売り場」が適当となるのだが、「乗車券類」は一般に馴染みの薄い言葉で、乗客にとっては分かりづらい。
そのため、馴染みのある「切符」に近づける形で、案内表示には「きっぷ」とひらがな表記をし、「切符」と「きっぷ」で使い分けるようになったのである。
ひとりの漢字表記「一人」は、人数が1である。一名であることを表す。
「独り」は、孤独の意味以外にも、単独・独立・独力・独身など様々な意味で使われる。
「部屋に一人」と書けば、部屋にいる人数が1であることを表し、「部屋に独り」と書けば、その人以外に誰もいなくて寂しい印象を与える。
「ひとり歩き」の場合、「夜道のひとり歩き」であれば、人数を表すので「一人歩き」だが、「赤ちゃんのひとり歩き」は、誰の力も借りずに自力で歩くことなので「独り歩き」。
「数字だけがひとり歩きする」も「独り歩き」で、意図や趣旨とは関係なく物事が進むことを意味する。
「ひとり暮らし」の場合は、使い分けがやや難しい。
人数に重みがあれば「一人暮らし」、孤独や独身、親元を離れ自立したことを表すのであれば「独り暮らし」である。
しかし、「独り」は孤独のイメージが強く、寂しい印象を与えるため、「気ままなひとり暮らし」をいう場合は、人数として考え「一人暮らし」と書くか、ひらがなで「ひとり暮らし」とした方が伝わりやすい。
ウニは、食べられる部分(生殖巣)が「胆(肝)」のように見えることから、海の胆で「海胆」と書く。
また、全身がトゲで覆われていることから、海の栗で「海栗」とも書く。
食品として販売される時には、生殖巣だけを取り出した生のウニを「海胆」、トゲが付いた状態のものを「海栗」と書き分けることもあるが、多くの場合は「海胆」が使われる。
生物として表す場合は、「海胆」も「海栗」も使われる。
食品としてのウニを表す漢字には「雲丹」もある。
「丹」の字には「赤い」という意味があり、赤い雲のようなものという意味で、「雲丹」という漢字が当てられた。
この漢字は、塩漬けされたウニを表したものであるため、塩やアルコールや加工されたウニを表すのが普通だが、最近はトゲや内臓などを取り除き、食べられる部分だけにしたウニにも、「雲丹」の漢字が当てられていることもある。
森」は「木」を3つ組み合わせた漢字で、本来は樹木が沢山生えている”様子”を表したが、日本では樹木が生い茂った”場所”を表すようになった。
「杜」は「杜の鎮守」というように、神社のある地の木立ちの意味で使い、神秘的な雰囲気のある森を表すこともある。
「杜」の字は、本来、「ヤマナシ」という植物や、その果実を指す言葉であった。
「(門などを)閉ざす・閉じる」という意味もあったが、「もり」という意味はない。
「杜」が「もり」と読まれるようになったのは、植物を表す漢字であることと、「社(やしろ)」と漢字が似ていることから、神社の周りに広がる樹木が沢山生えている場所を「杜(もり)」と表すようになり、現在のような意味で使われるようになったと考えられている。
仙台市は「杜の都・仙台」と呼ばれ、現在では「杜」の一字で仙台市をイメージする人も多くなっている。
しかし、1909年(明治42年)には「森の都」と記されており、初めて「杜の都」と記されたのは1916年(大正5年)のこと。
仙台市が正式に「杜の都」としたのは、1970年(昭和45年)のことである。
仙台市が「杜の都」とした理由は、山などに自然に生えている樹木や草花だけではなく、そのまちに暮らす人々が協力し合い、長い年月をかけて育ててきた豊かな緑のことを表すとしている。
つまり、仙台市の「杜の都」で表す「杜」は、神社の木立ちを表した「杜」ではなく、自然に生えている樹木の「森」と区別するための「杜」ということである。
物を保管する建物の「くら」には、「倉」「蔵」「庫」の三種類の漢字表記がある。
元々の意味を辿ると、「倉」は穀物を貯えておく場所。
「蔵」には「隠す」の意味があり、大切にしまっておく場所。
「庫」は兵器を入れておく兵器庫である。
現在では、明確な違いがなくなっているが、元々の意味の違いから、次のように使い分けされる傾向にある。
「倉」と「庫」は、製品を保管する倉庫。
「庫」を「くら」と読むことは少ないため、「倉」に集約されており、「倉」は穀物などを保管する場所であったため、それほど頑丈ではない建物に対して使われる。
「蔵」は「蔵屋敷」「酒蔵」など、土壁で造られた古風な土蔵や、大切なものを保管する場所であったことから、重厚で頑丈な建物に対して使われる。
また、現在で「くら」といえば、頑丈で立派な建物を思い浮かべるため、「倉」よりも「蔵」が使われることの方が多い。
孔」を「あな」と訓読みするのは常用漢字表外であるため、一般的に「孔」は「こう」と音読みし、「あな」には「穴」を用いるが、意味を強調する時には「穴」ではなく「孔」を用いることもある。
窪んだあなには「穴」、突き抜けたあなには「孔」を使うともいわれるが、貫通したあなにも「穴」は使い、窪みにも「孔」は使うので、この使い分け方は間違い。
「孔」は、「眼孔」「鼻孔」「気孔」「排気孔(排気口)」などで用いられるように、何かが通るあな。特に、人間以外のものが通る比較的小さいあなを表す。
「針のあな」は通常「針の穴」と書くが、糸が細い穴の中を通ることを強調する場合には「針の孔」と書くのである。
比較的大きいあなを表す場合、何を使うかといえば「坑」である。
ただし、「炭坑」や「坑道」など、「坑」は資源を取り出すために掘られたあなの意味で用いることがほとんどで、たいていの場合は「穴」と表記される。
広報とは、官庁や企業、各種団体などが、施策や活動内容、商品やイメージなどを広く一般の人々に知らせること。また、そのお知らせ。PR。
戦前まで「広報」は「弘報」と書かれることが多かったが、弘報は情報の配信のみを意味し、一方向的なものであったため、人々に知らせて理解や協力を求める双方向的な「PR」の語が入ってきてからは、「広報」が多く使われるようになった。
つまり、弘報は人々に知らせるだけでよいが、広報は単に知らせるだけでなく、理解や協力を得られるようなお知らせでなければならないのである。
公報とは、官庁などの公の機関が、公示しなければならない事項を、一般国民に広く知らせるために発表する公式の報告。地方公共団体が官報に準じて発行する文書。ある官庁が他の官庁へ出す報告文書のこと。
特に、地方公共団体が発行する文書のことを「公報」といい、国の場合は「官報」という。
広報と公報の違いは、企業や各種団体を含めるか含めないかという点もあるが、大きな違いは内容で、官庁の発行する広報は、住民に対するサービスや活動内容のお知らせをするPRであるのに対し、公報は条例や規則の公布、告示、公示、公告など、公の機関の任務として、住民に報告をするものである。
事物や人などが、元の場所や本来の状態に戻ることを「かえる」という。
漢字では「返る」「帰る」「還る」の表記があり、「反る」も「かえる」と読むが、「そる」とも読み、常用漢字表外であるため、ふつうは「返る」を用いる。
これらは全て同源で、卵がひなや子になる、孵化する意味の「孵る」も同源である。
返るは、単に「元に戻る」という意味。
「貸したものが返る」「落とし物が返る」など、元の所有者に戻ることや、「我に返る」「童心に返る」など、一度変化したものが以前の状態に戻ることには、「返る」を使う。
また、「手のひらを反す(返す)」「軍配が返る」など、向きや位置が反対になる意味でも、「返る」は用いる。
帰るは、「家へ帰る(帰宅)」「故郷へ帰る(帰郷)」「会社へ帰る(帰社)」など、人が家や故郷など元いた場所へ戻ることに用いる。
還るは、「走者がホームへ還る」「土へ還る」「祖国に還る」「自然に還る」など、限定的な表現に用いられる表記で、多くの地点を経由したり、様々な過程を経て、根源となるところへ戻ることに用いる。
ただし、還るは常用漢字表外の漢字なので、平仮名表記するか「帰る」を用いる。
人が戻ることをいう場合の「返る」と「帰る」は使い分けが曖昧で、どちらを使ってもよい場合もあるが、正しく使い分けなければならない場合もあるため、注意が必要である。
「初心に返る」と「初心に帰る」、「原点に返る」と「原点に帰る」の場合、一度変化したものが元の状態に戻ることなので、「返る」が正しいようにも思えるが、「原点回帰」という言葉もあるように、出発点に帰るという意味で「帰る」とも考えられる。
「返る」を使っている辞書もあれば、「帰る」を使っている辞書もあり、どちらの表記が正しいとは言い切れず、「初心にかえる」「原点にかえる」など、平仮名表記されることも多い。
「生き返る」は「返る」だが、「生きて帰る」は「帰る」。
生き返るは、一度死んだものや死にかけていたものが息を吹き返すことで、元の状態に戻ることをいうため「返る」。
生きて帰るは、戦場などから死なずに戻ってくることで、人が元いた場所へ戻るという意味になるため「帰る」を使う。
「とんぼ返り」は、元の場所へ帰るという印象が強く、「とんぼ帰り」と書き誤ることも多いが、トンボが飛んでいる時に身をひるがえして後ろに戻る様子から、行った場所からすぐに戻ることをいった言葉であり、向きが反対になる意味の「かえる」なので、「帰り(帰る)」ではなく「返り(返る)」を使う。
探求は「探し求める」と書くように、ある物事を得ようと探し求めること。
「史跡の探求」や「人生の意義を探求する」などと使う。
探究は「探し究める」と書くように、物事の本質や意義を探って見きわめようとすること。明らかにしようとすること。
「学問の探究」や「真理の探究」などと使う。
「幸福をたんきゅうする」という場合、幸福の本質や意義を明らかにするという意味で「探究」と書くことも間違いではないが、ふつうは、幸福を探し求めることを表すため「探求」と書く。
「たんきゅうしんが旺盛」という時の「たんきゅうしん」は、深く掘り下げて物事の本質を見きわめようとする気持ちが旺盛なことを表すため、「探究心」と書くのが正しく、「探求心」とは書かない。
観賞の「観」は「観光」や「観測」などに用いられるように、見る(観る)の意味があり、観賞は見て楽しむことを意味する。
「植物観賞」や「観賞魚」など、主に、動植物や景色など自然に関することに用いられる。
鑑賞の「鑑」、「鑑定」や「鑑別」などに用いられるように、良く見て品定めをするという意味があり、鑑賞は芸術作品などを理解し、味わうことの意味である。
「音楽鑑賞」や「絵画鑑賞」、「詩を鑑賞する」というように、芸術作品全般に用いられる。
映画の場合、娯楽映画は見て楽しむものなので「映画観賞」、芸術映画であれば「映画鑑賞」と書く。
芝居も、コメディーであれば「観賞」、文芸作品であれば「鑑賞」と書く。
しかし、人生を考えさせられる娯楽映画、芸術的なコメディーもあり、芸能の分野で「観賞」と「鑑賞」を明確に使い分けることは難しく、見た人の感覚によって異なるものである。
また、芸術作品の展示では、ふつう「鑑賞」を使うが、気楽に見て楽しんで欲しいという意図から、「観賞」が使われるケースも多くある。
まわり」の漢字には、「回り」「周り」「廻り」がある。
回りは、回転・巡回など、まわること、めぐることを表し、動詞的に用いる。
周りは、周囲・周辺など、そのものを取り囲んでいる辺り・環境、縁や外側に沿ったところを表し、名詞として用いる。
「池のまわりを一まわりする」という場合、「池のまわり」は周囲を表すため「周り」、「一まわり」はめぐることを表すため「回り」を使い、「池の周りを一回りする」と書く。
周囲や周辺を表す場合は「周り」と書くのが基本だが、「回り」と書く例外も多い。
「首回り」や「身の回り」「水回り」など、太さ、手が届く身近なものの周辺、関連のあることを表す場合には「回り」を使う。
周囲や周辺で「周り」と書くのは、比較的大きなものの場合に限るのである。
廻りは、「回」に移動を表す「廴(えんにょう)」を付け加え、動作を強調した漢字であるが、常用漢字表外の漢字であるため、普通は「回り」に書き換えられる。
そのため、漢字の使い分けには「回り」と「周り」の違いを覚えておけばよい。
また、現在はほぼ用い漢字なので、「回り」よりも「廻り」と書いた方が古風な印象を与える。
かえりみるの漢字には、「顧みる」と「省みる」がある。
元々、かえりみるは振り返って見るという意味で、そこから過去の事を考える、反省するなどの意味を持つようになり、その意味の違いによって「顧みる」と「省みる」は使い分けされている。
顧みるは、振り返って見るという意味のほか、「回顧」で使われるように過ぎ去った事を思い起こすこと。「顧問」や「顧客」で使われるように、気にかける、心配するという意味でも用いる。
省みるは、「反省」や「内省」で使われるように、自分のしたことに悪い点はないか考えること。反省する意味で用いる。
基本的には「顧みる」を使い、反省の意味では「省みる」と覚えておけばよいが、反省を表しているのか判断が難しいこともあるので、注意が必要である。
例えば、「危険をかえりみず」や「迷惑をかえりみず」という時の「かえりみず」は、「危険」や「迷惑」という言葉に引っ張られると間違ってしまう。
これらは「危険や迷惑を反省しない」という意味ではなく、「危険を恐れない」「迷惑を気にしない」という意味なので、「危険を顧みず」「迷惑を顧みず」と書く。
また、「半生をかえりみる」や「部下の失敗をかえりみる」などは、「顧みる」と「省みる」のどちらを使っても間違いではないが、使う漢字によって意味が違ってくる。
半生を顧みるは、過去の事を思い起こす意味。
半生を省みるは、過去を振り返った時に「まわりに迷惑ばかりかけていた」という反省が含まれる。
部下の失敗を顧みるは、部下の失敗を振り返ったり、部下の失敗に対して気にかけている意味。
部下の失敗を省みるは、部下の失敗は「自分が原因ではないか」と反省する意味となるのである。
離すは、距離を置く。隔たりを作る。遠ざける。くっついているものを分ける。別々にするなどの意味。
離すの漢字を使った熟語には、分離・隔離・分離などがある。
放すは、自由にする。逃がすなどの意味。
放すの漢字を使った熟語には、解放・釈放・放棄などがある。
離すと放すは、遠ざけることか自由にすることかによって使い分けられそうである。
しかし、遠ざけることは自由にさせることにも繋がるため、離すと放すは使い分けが難しく、間違えやすい漢字である。
動物を檻から出すこという時の「はなす」は、一般的には、自由にするという意味で「動物を檻から放す」と書くが、動物を檻から遠ざけるという意味であれば、「動物を檻から離す」と書く。
「君を離さない」と書けば、君と別れないという意味になるが、「君を放さない」と書いた場合は、君を逃がさないという窮屈な意味になる。
「手を離す」は、握っていたものを手から遠ざける意味。
「手を放す」は、握っていたものを自由にするという意味になる。
「手ばなす」は、自分の手元から離れることなので「手離す」と書きそうだが、手元から離れたものは、その後、自由になるため「手放す」と書くのが正しい。
はなしたものが「ハンドル」だった場合は、どう書くか。
ハンドルを握らず、車が自由勝手に動いてしまう状態で運転していることをいう場合は、「ハンドルから手を放す(手放し運転)」である。
しかし、運転をしていない時であれば、ハンドルはただの「物」に過ぎず、ハンドルから手を遠ざけることを表すことになるため、「ハンドルから手を離す」と書くのが正しくなる。
1月1日から12月31日までの一年間や、年齢を意味する「とし」の漢字には「年」と「歳」がある。
常用漢字表で「歳」に「とし」の訓がないため、公用文では「年」と表記する。
公用文以外では、「年」と「歳」のどちらを使っても間違いではない。
一般的に使われるのは「年」だが、「歳」を使った方が良い場合もある。
「年を取る」と「歳を取る」は、年齢を加えることや老齢になることで、どちらを書いても同じ意味である。
しかし、「年を取る」と書いた場合は、年齢を加えるという「回数」の印象が強く、「歳を取る」と書いた場合は、老齢になるという「経過」の印象が強くなる。
このような印象の違いは、画数の違いもあるが、「歳」の漢字の成り立ちに関係している。
「歳」という漢字は、刃物を表す「戉」と、時の流れを表す「歩」から成り、刃物で作物の穂を刈り取るまでの時間の流れを表している。
そのため、「年」よりも「歳」を使った方が、過ぎ去ることや移り変わることを表しているように感じるのである。
また、暦の「とし」を表す場合、通常は「年」を使うが、「歳末」や「歳暮」で「歳」が使われているように、「歳」に暦の「とし」の意味がないわけではない。
過ぎ去っていく雰囲気を強く表現したい場合には、「年が暮れる」を「歳が暮れる」、「年の瀬」を「歳の瀬」と書いてもよい。
つつしむは、漢字で「慎む」や「謹む」と書く。
共に「包む」が語源で、二つの漢字を使った熟語には「謹慎」がある。
また、慎むと謹むには「過度な行動をしないようにする」という共通の意味があり、使い分けを間違えやすい漢字なので、注意が必要である
謹むは、うやうやしくかしこまるという意味で、他人に対する敬意を表す。
「謹んでお慶び申し上げます」「謹んでお悔やみ申し上げます」「謹んで承りました」など、「謹んで」の形で用いることが多い。
慎むと謹むの使い分けのポイントは、誰をどうするためなのかにある。
謹むは、他人を尊重するための言葉。
慎むは、本人が失敗しないための言葉。
ここでいう本人とは、自分に限らず、気をつけなければならない人のことである。
他人の言動に対する注意に「つつしむ」を使う場合は、相手に対する敬意ではなく、言われた本人が失敗しないための言葉になる。
そのため、「言葉を謹んでください」ではなく、「言葉を慎んでください」が正しい。
若干と弱冠は、いずれも「じゃっかん」と読むが、意味は全く違う。
若干は、「若干名」「若干の間違いがある」など、それほど多くない数量を表す。
弱冠は、男子20歳のこと。また、年が若いことを表す言葉で、「弱冠17歳で〇〇を達成」などと用いる。
若干には「若」の字が含まれいるため、年が若いを表す「弱冠」と混同されやすいが、「若」は「のようだ」「と同じだ」など、似たものを比べたとえる意味の「若し(ごとし)」で、「若い」という意味ではない。
若干という言葉は、「干」を「一」と「十」に分解し、「一の若く(ごとく)、十の若し(ごとし)」と読んで、「一のようでも十のようでもある」という意味から、はっきりしないが、あまり多くない数量を表すようになった。
弱冠は、古代中国では男子の20歳を「弱」といい、その年になると元服して冠をかぶったことから、男子の20歳を「弱冠」と呼ぶようになった。
そこから、20歳に限らず年が若いことも表すようになり、男性のみならず女性にも用いられるようになった。
一般的には10代や20代に使い、30代以上に使われることは少ないため、30代では難しいことを成し遂げた場合でも、「弱冠32歳にして……」といった表現はされにくい。
おくるの漢字「送る」と「贈る」は同源だが、「祝電を送る」と「祝電を贈る」、「送る言葉」と「贈る言葉」では意味が違ってくるため、使い分けに注意が必要である。
送るには、物や情報を届ける。人をある場所へ行かせる。去る人や死者を見送る。時を過ごす。順に移す。送り仮名をつけるといった意味がある。
贈るは、感謝・敬意・祝福・愛情・同情などを表すため、人に金品や、官位・称号などを与えることを表す。
物をおくる場合、物理的に荷物を届けることを表す場合は「送る」だが、その物が感謝や敬意などの気持ちを表すための物の場合には「贈る」と書く。
祝電の場合も、物理的に届ける「配送」の意味であれば「送る」、祝福のメッセージを届ける意味であれば「贈る」を使う。
弔電の場合は、死者に対するお悔やみで、祝福のメッセージではないため、「送る」になるが、普通は「弔電を打つ」、丁寧な表現にするならば「弔電を手向ける(たむける)」という。
在校生が卒業生におくる別れの言葉は「送辞」といって、去る人を見送るための言葉なので「送る言葉」である。
海援隊の「贈る言葉」は、歌詞に「去りゆくあなたへ」とあるため、「送る言葉」の方が正しいように思える。
しかし、「愛するあなたへ贈る言葉」「飾りもつけずに贈る言葉」ともあるように、気持ちを込めた、はなむけの言葉を贈ることなので、「贈る言葉」で正しい。
もし最初の「去りゆくあなたへ」が「去りゆくあなたを」だった場合には、その人を送り出す意味になるため、「送る言葉」が正しくなる。
見るには、視覚でものをとらえる。見物・見学する。調べる・検討する・判断する。読んで知る。経験する。試す。占うなど多くの意味がある。
基本的には「見る」と書き、「観る」「視る」「診る」「看る」は意味を強調したい時に使う漢字であるため、「観る」「視る」「診る」「看る」を「見る」と書いても間違いではない。
観るは、映画や芝居、スポーツなどを観賞することや、観光など周囲を見渡す場合に用いる。
テレビを見ることも、なんとなく見るのであれば「見る」と書くが、じっくり見る場合には「観る」と書く。
視るは、「被災地を視る」のように、調査や視察することの意味で使うが、「見る」と書くことの方が多く、「視る」を使うことは少ない。
「視」の漢字は、じっと見る意味で「注視」「凝視」、みなすの意味で「軽視」「敵視」などの熟語としては使われるが、じっと見るや見なすの意味で「視る」を使うことはほぼない。
診るは、「脈を診る」「医者に診てもらう」のように、病状や健康状態を調べる意味で使う。
看るは、「看病」や「看護」の熟語があるように、世話をするという意味で、「病気の子どもを看る」などと使う。
その他、「みる」には一通り眺める意味で「覧る」、監視する意味で「監る」、試す意味で「試る」といった表記もある。
なお、試るは「みる」、「こころみる」と読む場合は「試みる」と書く。
検討と見当は、はっきりしない先のことについて考えるという点で共通するものの、全く意味の違う言葉である。
検討の意味は、十分に調べて良いか悪いか考えること。
「検討を重ねる」「検討を加える」などと使い、類語は「吟味」や「分析」である。
取引先との会話で「検討する」「検討してみます」と言われた場合は、実際に良し悪しを考える意味で使うこともあれば、その場では断りづらく答えを先延ばしするために、「一応、考えておきます」の意味で使われることもある。
見当の意味は、はっきりしないことについて大体の予想をすること。
「見当をつける」「まるで見当違い」などと使い、類語は「目星」や「見込み」である。
見当は予想することのほか、大体の方向や方角、大体の数量、 版画や印刷などで、刷る紙の位置を決めるための目印といった意味もある。
「検討」はじっくり調べた上で考えることを意味するが、「見当」は考えるといっても調べることをしない大体の勘を意味する。
先のことを考える際の「検討」と「見当」の使い分け方は、どのようにするのが最良の方法か考えるのが「検討」で、どのようになるのか予想するのが「見当」である。
とくちょう」の漢字には「特徴」と「特長」があり、どちらも他と比べて目立った点を意味するが、特徴と特長の違いは、良い点・悪い点に関係なくいうか、良い点のみをいうかの違いである。
特徴の「徴」の漢字は「しるし」と読み、他と区別する印となるものが「特徴」で、類語は「特色」である。
他と比べて目立つところが良いか悪いかは関係なく、他の人とは違って目立つところをいい、「特徴のある顔」や「犯人の特徴」などと使う。
特長の「長」は「長ける」「優れた」という意味で、類語には「長所」があり、他よりも特に優れた点を意味する。
特徴の中でも良い点だけをいうため、「新商品の特長」「個人個人の特長を活かす」のように使う。
「とくちょう的」という場合、ふつう「特徴的」のみで「特長的」は使われない。
「特徴的な声」は他の人と区別できるような独特の声という意味で、問題なく使える。
しかし、美しい声であることを表すために「特長的な声」といってしまうと、他の人よりも優れたような声という意味になり、優れているとは限らないニュアンスになってしまう。
そのため、「特長的」という言い方はしないのである。
改定と改訂は、いずれも「かいてい」と読み、改めることを意味する点では共通するが、改めて何をするかとうい点で意味に違いがある。
一般的には「改定」が多く使われる。
改定には「定」の字が含まれているように「改めて定める」ことで、従来の制度や規則などを改めて定めることを意味する。
「価格を改定する」や「時刻表を改定する」などと使う。
一方の「改訂」は限定的に使われる。
「訂正」の「訂」の字が含まれているように、改訂は「(文字や文章を)改めて正す」ことで、書物や文書などの内容や表現の仕方などを改め直すことを意味する。
「改訂版」や「旧版を改訂する」などと使う。
「改定」と「改訂」の使い分けを間違いやすいのは法律用語として用いる場合で、法律の改正などによって法令文を改めることは「改定」と表記する。
改正には「正す」という字が含まれており、法令文は「文」であるため「改訂」を使いそうになる。
しかし、改正は法律・制度を改めて変えることをいい、法令文を改めることは「文」を改めることを表すのではなく、法律という規則が変更することを表すので「改定」と書くのである。
ただし、新版の法令集を出版する場合は、改定された法令文に沿うよう文書を改めて正すことを意味するため「改訂」と表記する。
荒いと粗いは同源であるため、意味に似たところがあり、ともに「あらい」と読むため、使い分けに注意が必要である。
荒いの意味は、動きや勢いが大きく激しい。性格や言動が乱暴である。限度を超えている。整っておらず荒れ果てている。
粗いは、すきまが大きく細かくない。なめらかでない。大雑把である。粗雑であるという意味である。
荒いと粗いの使い分けのポイントは、人や物の動きに関することには「荒い」、人や物の状態に関することには「粗い」を使うということ。
また、穏やかの反対語になるのが「荒い」、細かいの反対語なるのが「粗い」で、この2点を覚えておくと、比較的使い分けがしやすくなる。
ただし、岩がごつごつしている状態を表す場合は、荒れた状態をいうため「荒い」を使い、石や砂などの粒がざらざらしていることには「粗い」を使うというように、動きか状態かという点だけで使い分けられないこともある。
そのため、反対語と合わせて考えなければならない。
また、荒いと粗いの使い分け方で、触れられない事物には「荒い」、触れられるものには「粗い」を使うと説明しているものもあるが、必ずしもそうとは言い切れない。
たとえば、上記のような岩の場合は触れようと思えば触れられるが「荒い」を使う。
乱暴的な仕事の仕方を表現する場合には「荒い」を使い、大雑把な仕事の仕方を表現する場合には「粗い」を使い、どちらも触れられるものではないのである。
修正と修整は、ともに「しゅうせい」と読む。
「修」の漢字には、直す・繕うといった意味があり、修正と修整には共通して「なおす」の意味が含まれる。
直すの意味で「修」が使われる熟語には、修理・修繕・修復・改修など多くある。
修正は「正」の字が含まれているように、正しく直すこと。
不備があったり不適当であるものを改め直すことである。
軌道修正・修正案・文字を修正する・文章を修正するなど、修整に比べて一般に多く使われる。
修整は「整」の字が含まれているように、整え直すこと。
よくないところを直すという点は「修正」と同じだが、正しく直すのではなく整えて直すという点に違いがあり、写真や印刷の傷を消したり、画像の一部を描き加えるなど、見栄えをよくするために直すことに使われる。
修正と修整のほかに、「しゅうせい」と読んで「修」を含む漢字には「修成」があるが、修成は修正して完成させるという意味である。
ととのえる」は漢字で「整える」や「調える」と書く。
多くの場合は「整える」を使い、「調える」は例外的に使われる。
このような違いがある場合、ふつうは一般的に使う漢字の方が意味が多く、例外的の方が少ないものだが、「整える」よりも「調える」の方が多く、ふつうと反対である。
整えるとは、乱れたところがないようにきちんとすること。秩序づけること。
「机の上を整える」「体調を整える」「髪を整える」などと使う。
調えるは、「必需品を調える」や「夕食を調える」などと使い、必要なものを揃えること。用意すること。買い揃えること。
「道具をととのえる」や「服をととのえる」を漢字で表す場合、整理整頓の意味であれば「道具を整える」「服を整える」と書き、前もって用意しておく意味であれば「道具を調える」「服を調える」と書く。
その他、調えるには「縁談を調える」や「商談を調える」など、交渉や相談事などを成立させること。
「味を調える」や「音を調える」など、程よい加減にすること。望ましい状態にすることの意味でも使われる。
「整える」は秩序を乱さずきちんとすることで、「調える」には用意する、成立させる、よい加減にするといった様々な意味があるが、「調える」の意味を一言で表すならば「いい感じにすること」である。
漢字には「港」と「湊」の表記があるが、一般には「港」が使われ、「湊」を使うと古風な印象を与える。
「港」の「巷」は、町や村の通路を表す漢字である。
その「巷」に「水」を加えた「港」は、元は船の通る「水路」を表し、船が発着する場所という意味はなかった。
「湊」の「奏」は、お供え物を集めて神様に差し出す様子を表した漢字で、多くの物が集まるという意味がある。
その「奏」に「水」を加えた「湊」は、船が集まる場所。「みなと」を表していた。
つまり、船の発着する場所は本来「湊」と書いていたが、水路を意味した「港」がその意味でも使われるようになり、「港」と表記することが一般的となったため、「港」よりも「湊」の方が古めかしい印象を与えるのである。
そのため、「昔は港町として栄えた」よりも、「昔は湊町として栄えた」と書いた方が、現在は港町ではないことを強調し、古風で素朴な印象を与えることになる。
ただし、古風な場合でも「港」を使うことが多く、「湊」は地名以外で使われることが少ないため、特に使い分けを意識せず「港」と書いておけば間違いない。
年齢を数えるのに用いる「さい」の漢字には「歳」と「才」があるが、「才」には「年」の意味がなく、本来は「歳」と書くのが正しい。
「歳」には「歳月」や「歳末」などの熟語があるように、「年」を表す漢字である。
「才」は「才能」や「天才」などの熟語で使われるように、生まれ持っての能力を表す漢字で、「年」という意味はない。
年齢を表さない「才」が「歳」と同じように使われるのは、「歳」の画数が多くて書きづらいため、代替にしているだけである。
「才」が「歳」の代替漢字になった理由は定かではないが、「歳月」を「才月」、「歳末」を「才末」と書くことはなく、「才」を代替にするのは年齢を表す単位に限った使い方である。
「才」の漢字は、船の積荷の容積や石材の体積、木材の体積、尺貫法の容積などの単位としても使われており、「歳」と同じ「さい」と読むことから、代替漢字になったのではないかと考えられる。
「歳」の画数が多いことから、学校で習う時期にも違いがあり、「才」は小学校で習い、「歳」は中学校で習う漢字である。
年齢を表す「さい」は日常で頻繁に使い、小学校低学年には覚えておきたい言葉だが、「歳」の漢字は画数が多く、小学生には難しいため、小学校では「才」と教えている。
古くから「才」は「歳」の代替漢字として使われ、一般にも定着しているため、「才」と書いても間違いではない。
しかし、「才」に「年」の意味はなく、正式な表記は「歳」である。
小学生であれば「才」でも良いが、中学校で「歳」の漢字を習うため、大人であれば「歳」を使った方が良いであろう。
ちなみに、「歳」の略字が「才」といわれることもあるが、これは間違い。
略字というのは、画数の多い漢字の一部を省いて簡略化した文字のことだが、「歳」と「才」の漢字は、それぞれ成り立ちが異なる。
「歳」を「才」と表記するのは、画数が多い漢字を簡単に表すために代替として用いたものなので、略式表記であって略字ではない。
一般的には「試合」を使い、「泥仕合」と「闇仕合」の時だけ「仕合」が使われる。
実はどちらも当て字だが、あまり使われない「仕合」の方が語源には近い。
「しあい」という言葉は、物事を互いにする意味の「しあう(為合う)」が名詞化された語である。
動詞「する(為る)」を名詞化する際、「仕方」「仕事」「仕業」のように「し」には「仕」の字が当てられため、「しあい」も「仕合」となる。
互いにすることの中には「勝負を競う」の意味もあり、それに合わせて作られた当て字が「試合」である。
「国際試合」や「完全試合」のように、競技や武術で技を競い、勝負を争うという意味では「試合」と表記する。
現代ではこの意味で使うことがほとんどであるため、「試合」が一般的になっているのである。
泥仕合は、互いに相手の欠点や秘密を暴露し合う争いのこと。また、歌舞伎で舞台に田園を作り、その中で立ち回ること。
闇仕合は、闇の中での立ち回りや争いをすること。また、相手もわからず争うことを意味する。
泥仕合も闇仕合も「争う」の意味は含まれているが、競技や武術で勝負を競っているわけではなく、「互いにし合う」という意味を表すため「仕合」と書くのである。
しかし、まったく「泥試合」や「闇試合」と表記しないわけではない。
大雨のため泥まみれになって行われた試合を「泥仕合」にかけて「泥試合」と書いたり、暗闇の中で行われた試合を「闇試合」と書くことはある。
ただし、「泥試合」や「闇試合」と書く場合は、必ず「競技」であることが前提であり、互いに暴露し合う意味で「泥仕合」と書いたり、相手もわからず争う意味で「闇仕合」と書くのは誤用となる。
基準と規準は、共に「きじゅん」と読み、意味も似ているため、使い分けを間違えやすい漢字である。
基準の意味は、物事の基礎となるよりどころ。比較して考えるためのよりどころ。満たさなければならない要件。
規準の意味は、思考・行為などで、のっとるべきよりどころ。規範とするものである。
簡単にいえば、基準は「基(もと)」にするもので、他の言葉に置き換えると「基礎」「尺度」「最低水準」「比較の元にする標準」になる。
規準は「一定の枠」「ルール」「手本」とするもので、置き換えるならば「規範」「規則」になる。
「考え方」について「基準」と「規準」を使い分ける場合、基準は基礎となる考え方の意味になるが、規準は社会的・道徳的に守らなければならない考え方の意味になる。
「法律」は「のっとるべきよりどころ」であるため、「遵守すべき規準」のように「規準」を使う。
しかし、法律そのものを表す際は「基礎なるよりどころ」の意味になるため、「建築基準法」や「労働基準法」のように、「基準」を使うので注意が必要である。
電気・電機・電器」は、いずれも「でんき」と読み、それぞれ意味に違いがあるが使い分けが難しい。
電気とは、摩擦電気や放電、電流などの現象の総称。また、電力や電灯も意味する。
電機とは、電力によって運転、使用される機械。電気機械のこと。
電器とは、「電気器具」の略で、電気を利用した器具のこと。
電気の細かな意味まで考えるとわかりにくくなるため、違いに関して考える際には、物理的現象を発生させる電気エネルギーそのもの・電力・電灯を指すとだけ覚えておけばよい。
その電気を使うのが「電機」や「電器」である。
「電機」と「電器」の使い分け方として、大型のものは「電機」、小型のものは「電器」といわれることもあるが、そのように分けえると、大型テレビは「電機」、小型テレビは「電器」になってしまうため正しくない。
「電機」と「電器」の違いを単純に覚える方法としては、「機械・装置」と捉えることが優勢か、「器具・道具」と捉えることが優勢かである。
電気モーター(電動機)などは、機械・装置と捉えるものなので「電機」。
日常の生活で使用する電化製品は、器具・道具として捉えるので「電器」である。
「加湿器」や「炊飯器」のように「器」の字を使っているものも、「掃除機」「洗濯機」のように「機」の字を使っているものも「電器」である。
ただし、電器も機械であることに変わりはなく電機の一種である。
電気エネルギーを使用する機械全般についていう場合は「電機」を使い、家電などの電気製品を手掛けるメーカーを表す場合は「電機メーカー」と書く。
「日本電気」「三洋電機」「松下電器」のように、社名や店名で使われる漢字はややこしい。
家電製品の販売店でも、「ヤマダ電機」のように「電機」を使っている店もあれば、ヤマダ電機が子会社化した「ベスト電器」のように「電器」を使っている店もある。
社名・店名に関しては、会社ごと店ごとで由来が違うため、固有名詞については個々で使い分けを覚える必要がある。
うかがう」の漢字には「伺う」と「窺う」があるが、それぞれ使われる意味に違いがある。
しかし、語源が同じで意味に似た部分があるため、使い分けを間違えやすい。
伺うは「尋ねる」「訪問する」「聞く」「問う」を意味する謙譲語。
使用例には、「お宅に伺う」「ご機嫌を伺う」「噂は伺っております」「ご意見をお伺いします」などがある。
窺うは「そっと様子を見る」「密かに探り調べる」「様子を見て好機の訪れを待ち受ける」といった意味がある。
使用例は、「顔色を窺う」「相手チームの様子を窺う」「チャンスを窺う」などである。
こられの中で特に、「ご機嫌を伺う」と「顔色を窺う」は意味が似ているため、使う漢字を間違えやすい。
ご機嫌を伺うの「ご機嫌」は、他人を敬って意向や思惑、安否や様子などをいう言葉なので、それに続く「伺う」は謙譲語になる。
この場合の「伺う」は、相手の意向や様子などを知るために訪問する意味で、直接人に会いに行くことである。
「顔色を窺う」の「窺う」は、他人を敬っているわけではないため、謙譲語ではない。
この場合も人と直接会うが、人と接することを表すのではなく、顔色(様子・機嫌)という内面的なものを密かに覗き見ることを意味している。
つまり、「伺う」と「窺う」の使い分けのポイントは、謙譲語かそうでないかの違いと、直接人に接することなのか、密かに見ることなのかの違いにある。
また、「うかがう」には「覗う」が当てられることもある。
字を見てわかる通り、「窺う」の意味に当てる漢字で、「伺う」の意味には使わない。
「覗う」はほぼ使われないため、読み方だけ覚えておけばよい。
病気や負傷の程度がおもく、危険な状態にあることを意味する「じゅうたい」の漢字には「重体」と「重態」がある。
この二つの違いは、以下のようにいわれることもある。
重体は事故などで生命の危機にある状態をいい、重態は危篤状態が続いていること。
重体は命にかかわるような病気や負傷の状態をいい、重態は命にかかわるような健康状態のことで、重態には負傷が含まれないなど。
しかし、重体と重態は同じ意味であり、上記のような使い分け方はしていない。
重体と重態の違いを挙げるとすれば、新聞などの報道では「重体」に統一されており、一般にも「重態」より「重体」の表記の方が多く使われていることぐらいである。
とうとい・たっとい」は漢字で「尊い・貴い」と書く。
この二つの漢字は意味の違いによって使い分け、動詞の「尊ぶ・貴ぶ」や「尊む・貴む」も同じように使い分けられる。
尊いは、敬うべきもの(尊敬)。大切にすべきものの意味で使う。
「尊い神仏」「尊い教え」「平和の尊さ」など。
貴いは、他に代えるものがない(貴重)。価値が高い。身分が高い(高貴)という意味で使う。
「貴い体験」「貴い税金」「和を以て貴しとなす」など。
基本的に、神仏や人に対しては「尊い」を使い、物や事柄には「貴い」を使うが、「尊い命」と「貴い命」、「尊い身分」と「貴い身分」のように、どちらも使える場合がある。
これらは「大切にすべきもの(尊い命)」と「価値があるもの(貴い命)」、「尊敬すべきもの(尊い身分)」と「身分が高い(貴い身分)」と使い分けられる。
意味が似ているため使い分けも難しいが、「大切にすべき」「尊敬すべき」というのは主観的な気持ちを表すもので、「価値がある」「身分が高い」というのは客観的な評価・様子を表すものである。
そのため、主観的な気持ちを表す場合には「尊い」を使い、客観的な様子を表す場合には「貴い」を使うようにするのがよい。
かおり・かおる」の漢字には、「香り・香る」「薫り・薫る」「馨り・馨る」がある。
「かおり・かおる」が良いにおいを表す言葉なので、不快なにおいに対して「香り・香る」「薫り・薫る」「馨り・馨る」を使わないことは共通するが、意味の違いによって使い分けされている。
「香り・香る」は、具体的に感じるにおい、鼻で感じる良いにおいの意味で使う。
香水の香り。花の香り。新茶が香る。梅が香るなど。
「薫り・薫る」は、比喩的・抽象的な表現に用いるかおりで、漂っているにおい、肌で感覚的に感じられることに対して使われる。
文化の薫り。ロマンの薫り。風薫る五月。若葉が薫るなど。
「馨り・馨る」は、高い香りがする、良いにおいが遠くまで漂う、良い評判が遠くまで伝わるという意味。
「永遠の馨り」などと使うが、「馨」の字は常用漢字表にないため平仮名表記されることが多く、表現される意味的にも一般にはあまり用いられない。
感心と関心の違いは漢字の意味通りだが、書き間違えやすいので使い分けに注意が必要である。
感心は「感じる心」で、心に深く感じること。立派なものに深く心を動かされることを意味する。
「彼の行動には感心した」「感心な青年だ」など「~する」「~した」「~な」の形で使われるほか、「感心できない」という形で賛成できないという意味にも使われる。
関心は「関わる心」で、何かに関わることで、心がひかれて興味を持つこと。気にかけることを意味する。
「数学に関心がある」「政治に関心を持つ」「強い関心を抱く」など、「~がある」「~を持つ」「~を抱く」の形で使う。
興味を持たないことを「無関心」とは言うが、心に響かないことを「無感心」と言うことはない。
「かんしんに堪えない」の「かんしん」は、「感心」や「関心」ではなく「寒心」である。
寒心は心配や恐れで、ぞっとすること。
「寒心に堪えない」は恐ろしくてたまらないという意味である。
「感心」「関心」「寒心」のほかに「かんしん」と読んで「心」の付く漢字には次のようなものがある。
歓心 … 喜んで嬉しいと思う心。
甘心 … 満足すること。快く思うこと。納得すること。
閑心 … しとやかで優雅な心。
奸心(姦心) … ねじけた心。
恐怖、恐ろしいの同義語「こわい」は「怖い」と書く場合と、「恐い」と書く場合があります。 現在ではどちらを使っても間違いではありませんが、厳密には二つの漢字に次のような違いがあります。
怖いとは
主観的に「こわい」場合に用います。一般的にはどうかわからないが、自分は怖いという意味を持ちます。。
恐いとは
絶対的に「こわい」場合に用います。対象となる物が、主観でも客観でも恐い場合、未知の恐怖である場合などに用います。
要するに!
・「怖い」→主観的な恐怖
・「恐い」→絶対的な恐怖
「たまご」を漢字で書くとき、「卵」と「玉子」の二種類の書き方があります。 この二つの漢字に次のようなは違いがあります。
玉子とは
調理された状態や、食材として用いる場合には「玉子」と表します。またカラがついていない状態の「たまご」(中身)を意味する場合もあります。
卵とは
鳥の卵、魚の卵、恐竜の卵など、生物学的な意味で用いる場合は「卵」と表します。
要するに!
・「玉子」→調理されたもの、または食材
・「卵」→生物学的な意味、生物の卵
調べ物をするときに使う「辞典」と「事典」。どちらも「じてん」と発音するし、いったいどこが違うの?って思ったことはありませんか? この二つの「じてん」には次のような違いがあります。
辞典とは
言葉を集めて一定の順序に配列し、その表記法・発音・語源・意味・用法などを記した書物です。 「言葉」を集めてその言葉そのものについて説明しているところがポイントです。 「漢和辞典」「国語辞典」「英和辞典」等が該当します。
事典とは
事物や事柄を表す言葉を集めて一定の順序に配列し、解説を施した書物です。 「事物や事柄を表す言葉」とあるので、こちらも「言葉」を集めているという点では変わりませんが、「物事」を解説しているところがポイントです。 つまり言葉の解釈ではなく、事物の説明をしているものが事典です。
要するに!
・「辞典」→言葉の説明をしているもの
・「事典」→物事の説明をしているもの
誰かの質問に答えたり、クイズや謎を解いたりするときに使う「回答」と「解答」という言葉。きちんと使い分けできていますか? この二つの「かいとう」の意味は、その漢字をよくみてみるとわかります。
回答とは
「聞かれたことに答える」という意味で、概ね質問者がいる時に用います。 アンケートに答える、聞かれた質問に「Yes、No」で答えるなど、相手の要求に応じた場合に使うのが「回答」です。
解答とは
字の通り、物事を「解いて答えを出す」という場合に用います。数学の問題の「解答」、クイズや謎の「解答」など、解が前提の場合に使います。
この二つの言葉は、必ずどちらかしか使えないという訳ではありません。 誰かに出題されたクイズに答えた場合は、「回答」であり「解答」という事になります。
要するに!
・「回答」→質問に応じる事
・「解答」→問題を解く事
「十分」と「充分」はどちらも満たされているという意味で用いられますが、 この二つの漢字には次のような違いがあります。
十分とは
10分の1の事を1分、半分の事を5分と言いますが、「十分」はそれらと同じで数字的に100%であるという意味があります。 満タン、フル、もしくはそれに近いぐらい満たされているという時に用います。
充分とは
「十分」のように数値化は出来ないが、満たされている時に用います。また心理的に満足を感じたときや主観的な表現には充分を使う事が出来ます。
現在では、満たされているという意味で使用すればどちらも間違いではありません。
要するに!
・「十分」→100%、満足されている。
・「充分」→心理的、主観的に満たされている。
「部屋の中があつい」、「あつい風呂に入る」「あつい食べ物をたべる」など、温度が高い事を表す「あつい」は「熱い」と書く場合と「暑い」と書く場合があります。 この2つの「あつい」は次のような違いがあります。
暑いとは
「猛暑」「残暑」「避暑地」など、気温に関わる熟語に用いられているとおり、気温が著しく高い場合に用います。 気温以外の「あつい」に用いることはできません。
熱いとは
温度が温度が著しく高く感じられる場合に用います。上記の通り「気温」は「暑い」を用いますので、気温以外の温度という事になります。 「鉄は熱いうちに打て」「熱い風呂に入る」。
また、感情の高ぶりなどを表現するために用いることがあります。「熱い視線を送る」「熱くなりやすい性格」。
要するに!
・「暑い」→気温が高い場合
・「熱い」→気温以外の温度が高い場合
「足」と「脚」はどちらも「あし」と読むことができる漢字です。人の「あし」や動物の「あし」、またはイスなどの「あし」にも用いることができる漢字です。 この2つの漢字は次のように使い分けることが出来ます。
脚とは
動物の胴体からわかれる、からだを支えたり歩行に使ったりする部分。足の付け根から足先まで全体の事を指すときは「脚」を用います。
足とは
足首から下の部分を指します。くるぶしから下、人間であれば靴を履く部分と考えれば分かりやすいでしょう。
イスの「あし」や、カメラの三脚等は、物の場合は「脚」「足」どちらを使っても間違いではありません。
要するに!
・「脚」→足の付け根から足先まで全体
・「足」→足首から下の部分
「とぶ」という字は、「飛ぶ」と「跳ぶ」二つの漢字があります。どちらを使うか、迷ったことはありませんか? この2つは同じような意味で用いられますが、厳密には次のような違いがあります。
飛ぶとは
まず、「鳥が空を飛ぶ」や「飛行機が飛ぶ」など空中を移動する場合に用います。また「家を飛び出す」「車を飛ばす」のように速く移動するという意味も持ちます。 さらに「うわさが飛ぶ」のように広まるという意味や、「飛び級」「飛び石」のように途中を飛ばして進むという意味も持ちます。
跳ぶとは
「走り高跳び」や「三段跳び」「縄跳び」「跳び箱」等に使われていることからわかる通り、「地面を蹴って高く上がる」という意味を持ちます。
要するに!
・「飛ぶ」→空中を移動する。
・「跳ぶ」→「地面を蹴って高く上がる。
「飛ぶ」の用例
【用例1】鳥が空を飛ぶ、飛行機が飛ぶ。【用例2】家を飛び出す、車を飛ばす。【用例3】うわさが飛ぶ、野次が飛ぶ。【用例4】飛び級、飛び石。
「跳ぶ」の用例
三段跳び、跳び上がる、跳び箱、縄跳び、走り高跳び。
「超える」と「越える」はどちらも「こえる」と読むことができる漢字です。 同じような意味で用いられますが、厳密には次のような違いがあります。
超えるとは
「超過」や「超常現象」等の熟語に使われいることからもわかるように、ある範囲から抜け出しているという意味で用います。 また、自然や常識からかけ離れているという意味も持ちます。「年収が500万円を超える」「自動車が停止線を超える」「タイムが目標を超える」
越えるとは
ある場所や時の境からでるという意味で用います。「大きな山を越える」「敷地の柵を越える」「困難を乗り越える」
要するに!
・「超える」→ある範囲から抜け出している。
・「越える」→ある場所や時の境から出る。
「きょうはく」という言葉の漢字には二つの書き方があります。「脅迫」と「強迫」どちらも同じような意味で用いることができますが、法律用語としては次のように使い分けられています。
脅迫とは
相手を脅しつけて、何かを要求する事です。「脅迫」は刑法上の言葉で刑法第222条により、「生命、身体、自由等に対し危害を加えることを告知して人を脅迫した者は」脅迫罪になります。
強迫とは
こちらは民法上の言葉で、相手に無理やり何かを強(し)いることを言います。「強迫」され行った意思表示は、民法では不法行為と見なされ取り消すことができます。
要するに!
・「脅迫」→刑法上の言葉
・「強迫」→民法上の言葉
「だんだん、なれてきた!」と漢字で書きたい。そんな時あれ?「慣れる」と「馴れる」どっちだったかな?と思ったことはありませんか?どちらも同じような意味で良く使われますが、この二つの漢字には明確な違いがあります。
慣れるとは
「慣れる」に使われる慣(カン)と言う漢字は、「習慣」などの漢字に用いられるように回数や、時間をかけてなじむといった意味を持ちます。 つまり経験を重ねることで、物事が上手にできるようになることを「慣れる」と表します。
馴れるとは
馴(ジュン)という漢字は、なつく、ならすと言う意味を持ちます。人に対して親しみを感じるようになる事や、警戒心を持たなくなることを「馴れる」と表します。 これは、動物が人間に対して警戒心を持たなくなる場合も含まれます。
要するに!
・「慣れる」→経験を重ねることで物事が上手にできるようなる
・「馴れる」→人に対して親しみを感じるようになる。警戒心を持たなくなる
「慣れる」の用例
都会での生活に慣れる。慣れた手つき。慣れない仕事で疲れる。待たされるのには慣れている。履き慣れた靴。
「馴れる」の用例
良く馴れた飼い犬。野良猫はがいつまでたっても馴れない。新しい上司に馴れる。
「思い」と「想い」どちらも「おもい」と読む事が出来ます。「おもいで」と書く場合も「思い出」「想い出」とどちらの漢字も使われている場面を見かけます。 この2つの漢字には次のような違いがります。
思いとは
「思考」や「意思」などの熟語にも使われる「思」という字で表す「思い」は、頭の中で思ってるものに対して用いられます。 具体的には、「私はそう思います」と自分の考えを述べる場合や、「思い出します」など頭の記憶をたどるような場合です。
しかし、極端な話すべての物事は頭の中で思ってるという事が出来ます。つまり「思い」はすべてのケースにおいて用いる事ができ、一部「想い」と表す事の出来る場合があると考えたほうが分かりやすいでしょう。
想いとは
「想像」や「発想」などの熟語にも使われる「想」とういう字で表す「想い」は、心の中で思ってるものに対して用いられます。心の中で思うと言っても、動物学的に言えば物事を考えたり思ったりできるのはその人の頭だけであり、心で思うというのはおよそ比喩的な表現です。 つまりある特定の「思いが」その人の考えや生き方に、強い影響を与えているような場合です。そのため、こちらの「想い」は小説や詩などの文学的なものに、よく用いられます。
「片想い」や「想いに浸る」など、ロマンチックな場面でも積極的に用いる事が出来るでしょう。
要するに!
・「思い」→頭の中で思ってるものに対して用いられる
・「想い」→心の中で思ってるものに対して用いられる
仕事の役割をかえたり、スポーツのポジションなどを入れかえる時に使う「こうたい」という漢字には、「交代」と「交替」という二つの書き方があります。 この二つの漢字には次のような違いがあります。
交代とは
物事や役割などを引き継いで行う事を言いますが、「交代」を使う時のポイントは、役割の引継ぎが一回限りの場合です。 「世代交代」や「役職の交代」など、前任者から後継者へと役割を引き継ぐような場合です。
交替とは
当番などを数人で「交替」して行う、いわゆる「代わり番こ」の意味で用いられます。 物事や役割をある一定の時間だけ代わり、また別の人に代わるという行為を繰り返して行うような場合です。
要するに!
・「交代」→前任者から後継者へと役割を引き継ぐ
・「交替」→当番などを数人で入れ替わって行う
鳥類や昆虫などが飛ぶための器官を「羽」と書きますが、「羽根」と根を付けて書く場合があります。 この二つの漢字には次のような違いがあります。
羽とは
鳥類などの翼部分、または翼状になっているものを「羽」と表します。 翼状になっているかがポイントで、蝶やトンボなどの昆虫が飛ぶための器官や飛行機の翼なども「羽」と表します。
羽根とは
鳥の体から抜けた羽の一本(一部分)に対して用います。「赤いはね募金」の羽根は1本になっているので、「羽根」と書きます。 または、ヘリコプターのプロペラなど翼状になっていないものも「羽根」と表します。
要するに!
・「羽」→鳥類などの翼部分、翼状になっているもの
・「羽根」→鳥の体から抜けた羽の一本、翼状でないもの
動物など皮膚や、果物の表面を覆ってる部分を「皮」と言います。鞄やベルト等には革製品というものがあり、この時には「革」という漢字が使われています。 この二つの漢字は次のように使い分けられています。
皮とは
動物の皮膚や果物の皮、餃子の皮など、主に表面を覆っている物の総称として用います。 「化けの皮」や「欲の皮」など物事の本質を覆っているという意味で比喩的に用いられる事もあります。
革とは
牛などの動物の皮から毛や脂肪などを取り除き、薬品で処理し製品化した物です。 製品としては「革」と表記しますが「革製品」はもともと動物の「皮」なので、「皮」と書いても間違いではなく、加工までのプロセスを両方の漢字を合わせて「皮革」と言います。
要するに!
・「皮」→主に表面を覆っている物の総称
・「革」→動物の皮から毛などを取り除き製品化した物
「保証」と「保障」と「補償」の三つの「ほしょう」。きちんと意味を理解して使い分けできますか? この三つの漢字には次のような違いがあります。
保証とは
「品質保証」や「保証期間」などに用いられるとおり、物事に対して一定の(期間)責任を持つ事を言います。 例えば、「連帯保証人」を引き受けた場合は当人と同じ責任を負うことになります。
保障とは
「社会保障」「安全保障」などに用いられるとおり、権利、自由、安全を保護することを指します。
補償とは
「償い」という漢字が使われている事からもわかるように、何かの理由により損害が出た場合にその損害の穴埋めをすることを指します。
要するに!
・「保証」→物事に対して一定の責任を持つ
・「保障」→権利、自由、安全を保護する
・「補償」→損害が出た場合の穴埋めをする
ワカメや、昆布、ヒジキ等の事を「かいそう」と言いますが、漢字では、「海草」と「海藻」の2通りの書き方があります。 この二つの漢字には次のような違いがあります。
海草とは
「草(くさ)」という漢字で表される通り、陸上の植物と同じで、根、茎、葉が分かれており、花を咲かせて種子によって繁殖するものを「海草」と書きます。 「海草」は食用としては適しておらず、「海藻(かいそう)」との誤認を避けるため「海草(うみくさ)」と読まれる事もあります。
海藻とは
「藻(も)」という漢字で表される通り、海藻は胞子によって繁殖する海の「藻」です。 食用とされるワカメ、コンブ、ヒジキ、モズク、アオサ、ノリなどは「海藻」にあたります。
要するに!
・「海草」→海の草、花を咲かせて種子によって繁殖する
・「海藻」→海の藻、胞子によって繁殖する
「話のしゅしを明確に!」等に使われる「しゅし」という熟語には、「趣旨」と「主旨」二つの漢字があります。 どちらも、同じような意味で使われるので、いざ自分が使おうとしたときに、迷ったことはありませんか? この二つの漢字は、それぞれ次のような意味を持っています。
趣旨とは
「事を行うにあたっての、もとにある考えや主なねらい」を意味します。つまり、物事の理由や目的に用いるのが正しい使い方です。
主旨とは
「考え・文章・話などの中心となる事柄」を意味します。文章の要点、話であれば、相手に伝えようとしている点という解釈が出来ます。 「趣旨」と似たような意味ですが、大きな違いは必ずしも理由や目的を含まないという事です。
要するに!
・「趣旨」→ある事柄のもとにある考えや主なねらい
・「主旨」→考え・文章・話などの要点
イセエビやクルマエビ等の「エビ」を漢字で書く場合「海老」と「蝦」二通りの書き方があります。 実はこの二つの「エビ」、日本では少し曖昧な扱いになっていますが、英語では明確に使い分けられていて次のような違いがあります。
海老とは
こちらの「海老」は英語でLobster(ロブスター)といい、歩行型のエビ対して用います。 歩行型のエビとして代表的な物は「伊勢海老」で、お店のメニューに「ロブスター」と書いてあるのを見かけたことがあるのではないでしょうか。 これは、料理の名前や調理方法やではなく、「歩行型」という意味を持っていたのですね。
蝦とは
本来は上記「歩行型」ではない、泳ぐタイプのエビを「蝦」と書きます。車エビ、アマエビ、サクラエビ、ボタンエビ等が泳ぐタイプに別けられます。 しかし、日本では「海老」という漢字の方が認知度が高く「蝦」と書くと読めない人がいるという事から、車エビ、アマエビ等も「海老」と書いてあるケースがあります。
要するに!
・「海老」→歩行型のエビ Lobster
・「蝦」→泳ぐタイプのエビ Shrimp
美味しい和食として、外国人にも人気の高い「お寿司(すし)」。この「すし」という漢字が、魚偏で「鮨」と書いてあるのを見かけたことは無いでしょうか? 「寿司」と「鮨」は全く同じもの、つまり「おすし」の事を指しており、どちらも同じ意味でが、使われてきた背景に次のような違いがあります。
鮨とは
「おすし」の歴史は古く、奈良時代頃からあったと言われています。 「すし」にはもう一つ「鮓」という漢字があり、塩や糟などに漬けた魚や、発酵させた飯に魚を漬け込んだ保存食を意味して古くから使われていました。 そして「鮨」という漢字は、握り鮨、押し鮨、棒鮨など、現在の「おすし」の形を表すものとして用います。
寿司とは
「寿司」という漢字は、江戸時代に作られた「鮨」の当て字です。祝い事などに「おすし」を用意したことから「寿を司る」→「寿司」となったと言われています。 現在では、魚偏の漢字表記が紛らわしいことや、すしネタが必ずしも魚でない事の理由から、「寿司」と書くのが一般的になっています。
要するに!
・「鮨」→握り鮨、押し鮨、棒鮨など「おすし」の総称
・「寿司」→鮨の当て字。「寿を司る」→「寿司」
姓を意味する「みょうじ」には、「名字」「苗字」と二つの漢字があります。実はこの二つの漢字、意味として違いはなく、どちらを使っても間違いではありません。 では何故、漢字が二つもあるのでしょう?実はこの二つの漢字には由来の違いがあります。
名字とは
由来は平安中期頃に遡ります。荘園公領制における支配、徴税の基礎単位の事を「名田(みょうでん)」と言い、その「名田」に因んだ「字(あざな)」を作るようになったことが「名字」のきっかけと言われています。 「名田の字」なので「名字」という訳です。
苗字とは
「名字」より歴史は浅く、江戸時代に生み出されました。「苗字」の苗は、「苗裔(びょうえい)」という言葉から取られたもので、遠い子孫、末孫を意味しています。 つまり、先祖代々から継がれた「字(あざな)」という意味を持っています。
要するに!
・「名字」→荘園公領制における所有地に由来する
・「苗字」→先祖、血統に重きを置いている
「ながい」を漢字で書くとするとまず「長い」が思い浮かぶことでしょう。しかし、「ながい」は「永い」と書く場合もあります。 この二つの漢字はどのような違いを持つのでしょう。
長いとは
物質や空間の端から端までの距離が多い、何かを成し遂げるまでの期間が多い、など一般的、常識的な観点から見て「多い」という意味で用いられるのが「長い」です。 相対的に用いられる場合が多く、比較対象と比べて「多い」なら「長い」と表現します。
永いとは
「永遠」「永久」などの言葉に使われれいる通り、「時間」が「ながい」場合にのみ用いることが出来ます。
また、「終わり」或は「始まり」の定めない、「永続的な」という意味を持ちます。
要するに!
・「長い」→一般的、常識的な観点から見て「多い」。比較対象と比べて「多い」
・「永い」→「終わり」或は「始まり」の定めがなく永続的
相手に対する気遣いや思いやりの事を「こうい」といいますが、漢字で書くと「好意」と「厚意」二つの書き方があります。 どのような時に「好意」や「厚意」を使うのでしょう。この二つには次のような違いがあります。
好意とは
その人にいだく親しみや好ましく思う気持ち。また、その人のためになりたいと思う気持ちです。 好きという感情を持っていることがポイントです。好きな相手、気に入った相手を思いやる気持ち、「助けになってあげたい」という感情が「好意」です。
厚意とは
人を思いやる心。他人の思いやりのある行動への敬意を「厚意」といいます。「思いやる心」という意味では「好意」と同じですが、好きという感情ではなく行動そのものにおもきを置いた表現と言えます。 他人の便宜やはからいに対しては「厚意」を用いるのが適切です。
要するに!
・「好意」→人にいだく親しみや好ましく思う気持ち。
・「厚意」→人を思いやる心。便宜やはからい。
相手に対する気遣いや思いやりの事を「こうい」といいますが、漢字で書くと「好意」と「厚意」二つの書き方があります。 どのような時に「好意」や「厚意」を使うのでしょう。この二つには次のような違いがあります。
好意とは
その人にいだく親しみや好ましく思う気持ち。また、その人のためになりたいと思う気持ちです。 好きという感情を持っていることがポイントです。好きな相手、気に入った相手を思いやる気持ち、「助けになってあげたい」という感情が「好意」です。
厚意とは
人を思いやる心。他人の思いやりのある行動への敬意を「厚意」といいます。「思いやる心」という意味では「好意」と同じですが、好きという感情ではなく行動そのものにおもきを置いた表現と言えます。 他人の便宜やはからいに対しては「厚意」を用いるのが適切です。
要するに!
・「好意」→人にいだく親しみや好ましく思う気持ち。
・「厚意」→人を思いやる心。便宜やはからい。
年齢を表す漢字には、「歳」と「才」の二つの書き方がありますが、あなたはどちらを使っていますか?また書類などに年齢を書く場合、どちらを使うのが正しいのでしょうか。 実は「歳」と「才」の使い分けには少しだけ注意が必要です。「歳」と「才」の違いについて解説します。
歳とは
本来、年齢を表す漢字として正しいのは「とし」という意味を持っている「歳」です。
公的な書類や、文章では「才」とせず「歳」を用いるほうが好ましいと言えます。
才とは
「才」は「歳」の略字として認められている漢字です。「歳」は、小学校で習う漢字ではない為、小学校では「歳」の代わりに「才」が用いられています。
また「歳」の字を小さく書くと潰れてしまって読みにくくなるため、テレビや読み物では「才」を用いることがあります。
しかし「才」の漢字は「略字」として使うことが認められているだけで、本来「とし」という意味はありません。正式には「歳」を用いるようにした方が良いと言えます。
要するに!
・「歳」→年齢を表す正式な漢字
・「才」→「歳」の略字として認められている漢字
出来上がった何かを手直しすることを、「修正」と言いますが、同じ読み方で「修整」と書く場合もあります。 どちらも同じ「しゅうせい」と読む事ができますが、この二つの漢字の違い、うまく説明できますか? この二つの漢字の意味には、次のような違いがあります。
修正とは
「正」という文字が使われていることからわかるように、間違っている部分を正す、と言った意味があります。
・計算間違い、書き間違いを修正する。
・野球などのスポーツでフォームを修正する。
・旅行のプランを修正する。
など「よくない点を改め」たり「より良いものに変更」する場合に用いられます。
修整とは
「整」という文字が使われていることからわかるように、見た目を整えると言った意味があります。
画像や写真をよりキレイな状態に手直しする画質修整など、「整えるための手直し」と言った意味で用いられます。
要するに!
・「修正」→間違っている部分を正す
・「修整」→手直しして見た目を整える
ポイント
「渇く」⇔潤う。「乾く」⇔湿る・濡れる。
「渇く」=水分が足りない。「乾く」=水分がなくなる。
「渇く」=欲しがる。「乾く」=欲しがらない。
「渇く」=Thirsty。「乾く」=Dry。
解説
「かわく」という言葉には「乾く」と「渇く」があり、意味も似ています。実は違いがよく分からなかったり、使い分けに困っていたりする方も多いのではないでしょうか?そこで、「乾く」と「渇く」の違いと使い分けのポイントをご紹介します。
まず、対義語で考えてみます。おおまかに分類すると、「渇く」の対義語は「潤う」、「乾く」の対義語は「湿る」「濡れる」となります。
補足すると、「渇く」は物理的量に関係なく水分が足りていない状態、「乾く」は物理的に水分がなくなることを指します。ですので、「喉がかわく」は水分が足りていませんので「喉が渇く」、「洗濯物がかわく」では水分が蒸発してなくなった状態ですので「洗濯物が乾く」となります。
英語に置き換えてみても分かりやすくなります。「渇く」はThirsty、「乾く」はDryとなり、全く違う単語を使うことになります。
また、水分以外で「かわく」が使われるケースもあります。この場合、欲しがっているかどうかで判断すると分かりやすくなります。欲しがる意味が含まれる場合には「渇く」、含まれない場合には「乾く」となります。
例えば、「愛に渇く」は愛に飢えているという様子で、愛を欲しがっていますので「渇く」が用いられます。逆に「舌の根も乾かぬうちに」は、舌が乾かないほど短時間にという意味ですので特に何かを欲している分けではありません。ですので「乾く」が用いられます。
ポイント
「皮」=表面を包むもの。「革」=動物の皮をなめしたもの。
「皮」=skin(スキン)。「革」=Leather(レザー)。
解説
日常でよく使われる「かわ」という言葉。「皮」なのか「革」なのか迷ってしまう場合も多いのではないでしょうか?そこで、「皮」と「革」の違いを整理してみます。
まず、「皮」は表面を包むもの全般に用いられます。動物の皮膚はもちろん「皮」ですし、植物の表面も「皮」になります。「皮が剥ける」などがこれにあたりますし、「リンゴの皮」「みかんの皮」など植物でも使われます。また、「餃子の皮」など、生き物ではなくても表面を包むものという意味でも「皮」になります。
一方、「革」は動物の表皮をなめした製品限定に用いられます。「革製品」「革靴」「牛革」などがこれにあたります。
日本語では同音でわかりにくいですが、英語にすると明確になります。「皮」はskin(スキン)となり、「革」はLeather(レザー)となります。
唯一の例外が「毛皮」です。上記の分類からすると「毛革」になりますが、この場合だけ「毛皮」です。「革」を作る際のなめし作業が通常の「革」と「毛皮」では工程が異なるようです。
ちなみに英語では、通常の革製品のなめし作業をタンニング (tanning) 、毛皮の場合ドレッシング (dressing) と言葉自体が異なるようです。これも毛皮に「皮」を使う由来かもしれません。
ポイント
「堅い」⇔もろい。「固い」⇔緩い。「硬い」⇔やわらかい。
「堅い」=手堅い。「硬い」=まじめ。
「堅い」=「固い」でもOK。
迷ったら「固い」。
解説
使い分けの難しい言葉の中に「かたい」があります。「堅い」と「固い」と「硬い」と3つも感じがありますし、違いや使い分けに疑問を抱くケースもすくなくありません。テレビや新聞で使用されている場合でも、本当にこれで合っているのか疑問に思うこともあるのではないでしょうか?そこで、「堅い」と「固い」と「硬い」の違いと使い分けのポイントを整理してみます。
まず、それぞれの対義語で考えてみると、違いが大まかに浮かび上がってきます。
「堅い」はもろい、「固い」は緩い、「硬い」はやわらかいが対義語になります。例えば、麺やパスタは「硬め」「やわらかめ」などの好みがある点からも分かるように、対義語は「やわらかい」になりますので、「硬い麺」「硬いパスタ」になります。
木材などを表す場合、「やわらかい木材」「緩い木材」というケースはありません。最適なのは「もろい木材」になるでしょう。ですので、この場合は「堅い木材」となります。
紐を結ぶ場合、ほどけることを「緩む」と言いますので、「固く紐を結ぶ」となります。
また、物質ではないものに対して「かたい」が用いられる場合があります。この場合、手堅いに置き換えられる場合は「堅い」、まじめに置き換えられる場合は「硬い」と覚えておくといいでしょう。「堅い商売」「堅く見積もって」などは、「手堅く」という意味を持ちますので「固い」になります。「頭が硬い」「硬い人」などは、良くも悪くもでも「まじめ」という意味を含んでいますので「硬い」になります。
これでもまだ納得いかないと思う方もいるかもしれません。その理由は、「かたい」の使い分けには許容があるからでしょう。ほとんどの場合、「固い」を用いることが許されていますし、特に「堅い」は全ての場合で「固い」の使用が許容されています。ですので、迷ったら「固い」を使えば問題ないでしょう。
ポイント
「影」=光が関係。「陰」=光以外も関係。
「影」=似ている、同じ動きをする。「陰」=見えない場所。当たらない場所。
「影」=見える。「陰」=見えない。
「影」=shadow。「陰」=shade、behind。
比喩的な意味で「影」を使う場合もあり。
解説
分かっているようで意外に使い分けに迷ってしまうのが「影」と「陰」です。特に日本語の「かげ」にはいくつかの意味があり、比喩的表現も多く、感じで書く場合に悩んでしまう場合もあります。そこで、「影」と「陰」の違いと使い分けのポイントをまとめてみます。
辞書などでは、「影」は光がもので遮られてできた暗い部分、「陰」は物に遮られて日光や風雨の当たらない所となっています。
まず、光の関係で考えてみます。「影」は必ず光が関係し光がない所では「影」はできませんが、「陰」は風雨など光にかかわらず何かに遮られた場所のことをさしています。ですので、「木の影」は太陽と反対側の地面に写し出される物理的な暗い部分を指しますが、「木陰」は日差し風雨を遮る場所を意味しています。言い換えると、「影」は現象で目に見えるもの、「陰」は何かが当たらない場所で見えない場合もあります。
また、英語で考えてみても分かり易いでしょう。「影」はshadowのみ、「陰」はshade、behindなどに置き換えることができます。
しかし、日本語では「影」を用いた慣用句やことわざが多いため、使い分けが難しくなっています。現象としての「影」は、その遮っているものと同じ形や動きをするという特徴があり、「似ている」「同じ動きをする」という意味にも使われます。
例えば、「面影」は影を映し出しているように似ているという意味がありますし、「影武者」は「影」と同じように裏で同じ働きをする様子から来ています。「影が薄い」も影が映らないほど存在感がないという意味ですし、逆に「影を潜める」は影が映らないように存在感を消すという意味になります。
一方、「陰で糸を引く」「陰口を言う」などは見えない所で何かをすることですので「陰」になります。「陰となり日向となり」は難しいところですが、表に立ったり裏方になったりという意味ですので「陰」となります。
ポイント
「架ける」=渡す。「賭ける」=賭け事。「懸ける」=ささげる・託す。「掛ける」=それ以外。
「架ける」=橋・虹。「賭ける」=博打。「懸ける」=命・心・懸賞。「掛ける」=それ以外。
迷ったら「掛ける」かひらがな。
解説
同じ言葉でたくさんの漢字がある言葉で「かける」があります。特に、「掛ける」と「懸ける」と「架ける」と「賭ける」の違いは難しい場合もあります。そこで、「掛ける」と「懸ける」と「架ける」と「賭ける」の違いや使い分けのポイントをご紹介します。
まず、意味で考えてみます。「懸ける」「架ける」「賭ける」は限定的に使われ、「掛ける」は広範囲で用いられます。「架ける」はモノとモノの間を渡す場合、「賭ける」は賭け事に関係する場合、「懸ける」はささげる・託すという意味がある場合、「掛ける」はそれ以外の場合に使います。
次に、かけるもので考えてみます。「架ける」は橋や虹、「賭ける」はお金など博打に関係するもの、「懸ける」は命・心・賞金や商品、それ以外は「掛ける」となります。虹は架けることはできませんので、「架ける」は橋限定と考えて問題ないでしょう。「賭ける」は博打やギャンブルなどの賭け事に関係する場合に限定されます。
「懸ける」は、命や心に関係する場合と、賞品や賞金など「懸賞」に関わる場合の2種類に限定できます。それ以外の「引っ掛ける」「腰掛ける」「電話を掛ける」などは全て「掛ける」になります。ですので、迷ったら「掛ける」か「かける」とひらがなで表記しても問題ないでしょう。
例外として「こころがけ」があります。こちらは一般的には「心掛け」となりますが「心懸け」でも間違いではないようです。注意するという意味では「心掛け」、より努力するという意味を持たせたい場合には「心懸け」という使い分けが実体化しているようです。
ポイント
「換える」=交換。「替える」=取替。「代える」=交代。
「換える」=等価で違うモノ。「替える」=価値に関係なく同じモノ。「代える」=役割。
「代える」=change。「換える」=exchange。「替える」=replace。
解説
同じ言葉でたくさんの漢字がある言葉で「かえる」があります。この中で、特に使い分けや違いの難しいのが「換える」と「替える」と「代える」です。この「換える」と「替える」と「代える」の違いを整理して使い分けのポイントをまとめてみます。
まず、それぞれを漢字の熟語に置き換えてみるとおおまかに違いが分かりやすくなります。「換える」は交換、「替える」は取替、「代える」は交代に置き換えることができます。
付け加えると、「換える」は価値が同じでも違うものにかえる場合、「替える」は価値は違っても同じものにかえる場合、「代える」はある役割を別の人やものにかえる場合となります。例えば、物々交換では、価値は同じでも全く違うものに交換しますので「換える」になります。古い洋服をリサイクルショップで売る場合も、査定して同じ価値のお金に交換しますので、「換える」となります。
一方、古くなったテレビや冷蔵庫を買い替える場合、お金の負担はありますが、同じものを買いますので「替える」となります。「両替」は、等価で交換しますが、どちらもお金ですので同じモノという意味で「替」が用いられているようです。
また、「ピッチャーを代える」は「社長を代える」などは、その役割の人がかわりますので「代える」となります。「代替品」や「代替機」などの言葉もありますが、この「代」は「代用」の意味ですので、替わりの代用ということになります。
ポイント
「顧みる」=回顧。「省みる」=反省。
「省みる」=自分限定。「顧みる」=全て。
「省みる」=過去限定。「顧みる」=過去とは限らない。
心配するに置き換え可能なら「顧みる」。
解説
「顧みる」と「省みる」は、同音で意味も似ているため、違いや使い分けの難しい言葉です。パソコンで変換する際に迷ってしまう場面も少なくないでしょう。そこで、この「顧みる」と「省みる」の違いをまとめてみます。
まず、熟語に置き換えてみると分かりやすくなります。「顧みる」は回顧、「省みる」は反省という熟語に置き換えることができます。迷った際には、この「回顧」と「反省」のどちらが当てはまるかを考えてみると分かりやすいです。
また、対象が何になるかという点でも区別することもできます。「省みる」は自分のことに限定して用いられますが、「顧みる」は全てが対象になります。「道を顧みる」「観客を顧みる」などは、対象が自分でなくても使われることがあります。
また、時系列で考えた場合にも違いがあります。「省みる」は過去に限定されますが、「顧みる」は過去とは限りません。
更に、心配するに置き換え可能なら「顧みる」というようにも考えることができます。「危険を顧みず進む」という場合、時間に関係なく過去でも現在でも使用できますし、危険を心配しないで進むという意味に置き換えられます。
特に使い分けが難しい例として、「部下の失敗をかえりみる」などがあります。この場合、どちらを使うかによって意味が変わってきます。「部下の失敗を顧みる」の場合、回顧するという意味ですので、失敗を客観的に検証するだけというニュアンスになります。「部下の失敗を省みる」の場合、まず、部下の失敗も自分の責任だという自覚が含まれる上、失敗を反省して次に生かすという意味が含まれます。
ポイント
「踊る」=ダンス・舞踊。「躍る」=跳ね上がる・わくわくする。
解説
読み方も同じで字も似ている「踊る」と「躍る」。意味の似ているようで使い分けに悩みます。この「踊る」と「躍る」の違いを整理してみます。
まず、「踊る」は、ずばりダンスのことです。正確には、音楽に合わせて踊ったり、決められた手順や振り付けで踊る場合に「踊る」を用います。「ダンスを踊る」「踊り子」「盆踊り」などが代表的な使い方です。
一方、「躍る」は、跳ね上がったり飛び上がったりする様子を表す際に用います。「身を躍らせる」「魚が躍る」「馬が躍り上がる」などはこの意味で用いられます。
また、精神的に高揚したり、わくわくするような場合にも「躍る」を使います。「胸が躍る」「心臓が躍る」という場合、見た目には分かりませんが、精神的な高揚を表現した用法です。
ちなみに、「踊り」は「躍り」が語源となって生まれた言葉だそうです。「踊り」として区別されるようになったのは中世末期だそうですが、当時の「踊り」は跳ね上がる動きが多いものだったようです。
また、日本では「舞い」と区別する意味で「踊り」が使われ始めたそうで、音楽に合わせるのが「舞い」、自らがリズムを刻むのが「踊り」だったそうです。
魚などを生きたまま食べる調理法を「踊り食い」と言います。こちらは本来、跳ね上がっている状態ですので「躍り食い」が正しいと思われますが、魚が踊っているという比喩的な意味で「踊り食い」が定着しているようです。
ポイント
「押さえる」=固定・確保。「抑える」=抑制・鎮圧。
「押さえる」=hold、book。「抑える」=save、lower、suppress。
「押さえる」は「押える」でもOK。
解説
「押さえる」と「抑える」は、違いが分かりにくく使い分けに悩む場合が多い言葉です。
特に店を予約するという場合に使う場合、どちらを使うべきか悩んでしまいます。
そこで、この「押さえる」と「抑える」の違いと使い分けのポイントを整理してみます。
まずは、この2つを別の熟語に置き換えてみると違いをイメージしやすくなります。
ます。「押さえる」は固定する、確保するという意味に置き換えられます。
ですので、物理的に動かないようにする場合は「押さえる」になりますし、店を予約する場合は確保することになりますので「押さえる」を用います。
一方、「抑える」は抑制する、鎮圧するという意味に置き換えられます。
食事やカロリーを減らす場合は抑制することになりますので「抑える」になりますし、相手の攻撃を鎮圧する場合にも「抑える」になります。
また、英語に置き換えてみても違いが分かりやすくなります。
「押さえる」はhold(固定する)やbook(予約する)などに置き換えられます。
「抑える」はsave(抑制する)、lower(低下する)、suppress(鎮圧する)に置き換えられます。
ちなみに、「押さえる」は「押える」と送り仮名を省略するケースがありますが、間違いではありません。
文部省の通達では、このように送り仮名を省略しても読み間違える恐れがない場合には送り仮名を省略することが認められています。
ポイント
立たせる=「起こす」
盛んにさせる=「興す」
会社・組織の立ち上げ=どちらでもOK
迷ったら「起こす」
「起こす」「起す」=どちらでも問題ない
解説
同音の漢字で使い方に迷ってしまうのが、「起こす」と「興す」です。特に、会社や組織を立ち上げる時に使うのは「起こす」か「興す」かで迷ってしまいます。この「起こす」と「興す」の違いをまとめてみます。
まず、「起こす」には「起きる」の他動詞としての意味があり、「興す」にはありません。ですので、寝ているものや横になっているものを立てるという意味の場合には、必ず「起こす」を用います。
「興す」には、盛んにするという意味があり、この場合には「起こす」は使われません。「村興し」「町興し」には、必ず「興し」が使われます。
迷ってしまいがちなのが、会社や組織を設立・結成する場合の「おこし」です。この場合にはどちらを使っても大丈夫です。「会社を起こす」でも「会社を興す」でも問題ありません。
迷ったら「起こす」と覚えておけば間違いないでしょう。
また、「起こす」は送り仮名の省略が許容されている言葉ですので、正しくは「起こす」ですが「起す」でも問題ないとされています。
ちなみに、火をおこす場合、「熾す」となり、どちらも当てはまりません。
ポイント
「送る」=気持ちがこもってない。「贈る」=気持ちがこもっている。
「送る」=物理的に届ける。「贈る」=プレゼントする。
「送る」=send。「贈る」=give/gift。
解説
「送る」と「贈る」という同音異義語がありますが、その違いや使い分けに悩む場面も多いものです。
彼氏や彼女へのプレゼントなら「贈る」だと想像できますが、お中元やお歳暮ではどちらがふさわしいのか悩んでしまうかたも多いのではないでしょうか。
まず、気持ちがこもっているかどうかで判断する方法があります。
気持ちがこもっていれば「贈る」、そうでなければ「送る」となります。
プレゼントなら「贈る」になりますし、お中元やお歳暮も表向きは日頃の感謝の気持ちですので「贈る」になります。
一方、郵便物や荷物の場合、そのような意味はあまりありませんので「送る」となります。
また、「贈る」はプレゼントするという意味に置き換えられますが、「送る」は物理的な行為を意味します。
ですので、プレゼントする場合は郵送しても手渡ししても手段にかかわらず「贈る」になります。
「送る」では、自分で届けられない場合の代替えの手段となります。
「荷物を送る」などは、距離が遠い場合や重くて持てない場合などの手段です。
英語に置き換えて考えてみるという方法もあります。
「送る」=send、「贈る」=give/giftと置き換えられます。
プレゼントを郵送する場合、プレゼントするという行為自体は「贈る」ですが、それを宅配便にお願いすることは「送る」となります。
ポイント
「産む」=子・卵。「生む」=それ以外。
「産む」=出産。「生む」=生死。
「産む」=は限定的。迷ったら「生む」。
解説
「生む」と「産む」も使い分けや違いに悩む漢字の1つです。
特に出産のお祝いやメッセージなど、間違えて失礼がないかなど心配な方も多いでしょう。
そこで、この2つの違いを整理してみます。
まず、「産む」は、人間なら子供、動物なら子や卵を産む場合にのみ使われます。
「赤ちゃんを産む」「卵を産む」のように使われます。
一方、「生む」は幅広く、新しいものを作るという場合にも使われます。
「利益を生む」「新製品を生み出す」なごがこのケースです。
また、「産む」は出産に関連した場面で使われますが、「生む」は生死に関連する意味合いで使われます。
母親から見ると、出産することは「産む」になりますが、子供から見るとこの世に生を受けた訳ですので「生まれる」になります。
このように、「産む」が使われる場面は限定的で「出産」という言葉に置き換えられる場合のみで使われ、それ以外では「生む」となります。
子供が母親に「うんでくれてありがとう」という場合、この世に生んでくれた事に感謝している意味合いが強いので「生む」が望ましいです。
出産のお祝いで使う場合も、「生む」を使えば間違いありませんし、よりお祝いの意味が強くなるかもしれません。
ポイント
「写す」=残る。「映す」=残らない。
「写す」=複製ができる。「映す」=複製はできない。
「写す」=コピーに置き換えられる。「映す」=コピーに置き換えられない。
「映す」ものを残すのが「写す」
解説
最も変換に悩む漢字の1つに「写す」と「映す」があります。
映写という熟語もあるので、余計に悩んでしまします。
そこで、この「写す」と「映す」の違いと使い分けのポイントをまとめてみました。
まず、うつした結果として何かが残るかどうかで判断できます。
具体的には複製ができるかどうかで判断できます。
ノートや書類を「写す」場合、その結果として書き写したメモやコピーした書類が残ります。
一方、鏡やモニターに映す場合、終わってしまったら何も残りません。
また、「コピー」という言葉に置き換えられるかどうかで判別する方法もあります。
「ノートを写す」「データを写す」は「ノートをコピーする」「データをコピーする」に置き換えられますが、鏡やモニターに映す場合「コピーする」とは言えません。
更に、「写す」ものを残すのが「写す」とも言えます。
「湖に富士山が映る姿を写真に写す」「テレビに映った自分の姿をビデオで写す」などがこの場合になります。
ポイント
「打つ」=たたく。「討つ」=倒す。「撃つ」=発射する。
「討つ」=敵がいる。「撃つ」=武器を使う。「打つ」=道具を使う。
「討つ」=目的。「撃つ」=手段。
解説
違いや使い分けに悩む漢字に「打つ」「討つ」「撃つ」があります。
ほとんどの場合「打つ」を使うとは思いますが、戦いに関係する場合「討つ」や「撃つ」とどう使い分けたらいいのか悩んでしまう事があります。
この「打つ」と「討つ」と「撃つ」の違いを整理してみました。
まず、別の動詞に置き換えてみると分かりやすくなります。
「打つ」=たたく、「討つ」=倒す、「撃つ」=発射すると置き換えてみて、一番しっくりくるものが該当する漢字になります。
また、うたれるものや使うもので判断する方法もあります。
「討つ」では必ず敵がいいますし、「撃つ」では必ず武器を使い、「打つ」は多くの場合それ以外の道具を使います。
ですので、「敵を討つ」「鉄砲を撃つ」「ボールを打つ」などになります。
「討つ」と「撃つ」の間で悩んでしまうこともありますが、この場合目的と手段で判断すると分かりやすいかもしれません。
「討つ」は目的、「撃つ」は手段となります。
「敵を討つための手段として鉄砲を撃つ」と考えると整理できます。
「鳥を撃つ」などの例外もありますが、これは鳥は敵ではありませんし、「撃つ」という表現自体が網や罠で捕まえるわけではないという手段を表現しています。
ポイント
「請ける」=請け負う。「受ける」=それ以外。
「請ける」=金銭がともなう。「受ける」=金銭は伴わない。
「請ける」=限定的。「受ける」=幅が広い。
解説
業者と発注主の間でのやり取りで悩む言葉に「受ける」と「請ける」があります。
この違いや使い分けに悩むケースの少なくないのではないでしょうか?
「受ける」と「請ける」の違いは意外にシンプルです。
「請ける」は請け負うという意味のみに使われ、「受ける」はそれ以外全般に用いられます。
別の言い方をすると、「請ける」には必ず対価として金銭が発生しますが、「受ける」には金銭が発生しません。
「仕事を請ける」「注文を請ける」のように金銭が発生する場合には「請ける」になりますが、その仕事や注文の中の詳細なことは「指示を受ける」などになります。
このように「請ける」は用いられる場面が限定的で、「受ける」は幅広く使われます。
ポイント
「痛む」=苦痛がある。「傷む」=苦痛がない。
「痛む」=主観的。「傷む」=客観的。
「痛む」=人。「傷む」=モノ。
解説
使い分けに悩む漢字の1つに「痛む」と「傷む」があります。
特にケガをした場合「損傷」「負傷」などという言葉があるため、どちらを使っていいのか悩む場合があります。
この「痛む」と「傷む」の違いと使い分けのポイントを整理してみます。
まず、1つ目のポイントは、苦痛があるかどうかという点です。
ケガや病気に伴う痛みや苦しみは当然「痛む」になりますが、食品は腐ったりモノは傷ついた場合はそれ自体には苦痛はありませんので「傷む」になります。
2つ目のポイントは、主観的か客観的かという点です。
ケガや病気でどこかが痛い場合、どの位痛いのか、本当に痛いのか、本人にしか分かりません。心が傷ついて「痛む」場合などは特に本人にしか分かりません。
一方、食品が傷んだり、建物が傷んだ場合、それは誰が見ても傷んでいると判断することができます。
3つ目のポイントは、人の身体かそれ以外のモノかどうかという点です。
最も悩むケースが「膝をいためる」「肩をいためる」という場合です。
この場合は人の身体ですので、仮に痛みがなくても「痛む」となるのが正しいようです。
整理するとこのようになります。
去年痛めた肩が痛む(人の身体なのでどちらも「痛む」)
食品を傷めてしまい心が痛む(食品はモノなので「傷む」、心は主観的なので「痛む」)
ポイント
「合わせる」=くっつける。揃える。「併せる」=1つにする。
「合併」「併合」=「併せる」。
「合う」に置き換えられれば「合わせる」。
解説
「合わせる」と「併せる」も違いが難しく使い分けに悩む漢字です。
特に「併せる」はどのような場合に使うのが正しいのか難しい場合があります。
まず、言葉の意味で考えると、「合わせる」は「くっつける」「揃える」という意味があり、「併せる」は1つにするという意味があります。
「答えを合わせる」「手を合わせる」は揃えたりくっつける意味があります。
「2つのクラスを併せる」などは、2つを1つのものにする意味があります。
また、「合併」「併合」という言葉もあり、余計難しく感じてしまうかもしれませんが、逆にこの言葉に置き換えられる場合は「併せる」と判断することができます。
会社を合併・併合する場合や市町村が合併する場合は「併せる」となります。
さらに、「合う」という言葉に置き換えできるかどうかで判断する方法もあります。
「答えを合わせる」「手を合わせる」は「答えが合う」「手が合う」と置き換えられますが、「2つのクラスがあう」とは置き換えられません。
ポイント
「荒い」=激しい。「粗い」=大きい。
「荒い」=動き。現象。「粗い」=大きさ。細かさ。
「荒い」=触れられない。「粗い」=触れられる。
「荒い」=穏やかの反対。「粗い」=細かいの反対。
解説
間違いやすい漢字の1つに「荒い」と「粗い」があります。
この2つの漢字の違いと使い分けのポイントを整理してみます。
まず、「荒い」は激しいこと、「粗い」は大きいことに置き換えられます。
言い換えると、「荒い」は動きや現象に対して用いられ、「粗い」は大きさや細かさに対して用いられます。
ですので、「荒い」は「性格が荒い」「動きが荒い」などの場合に使われ、「粗い」は「粒が粗い」「編目が粗い」「肌が粗い」という場合に使われます。
また、触れることができるかどうかという基準で判断することもできます。
触れられない場合には「荒い」、触れられる場合には「粗い」と考えると分かりやすくなります。
さらに、反対の言葉をイメージして判断することもできます。
反対が「穏やか」などにおきかえられる場合には「荒い」、「細かい」などに置き換えられる場合には「粗い」になります。
ポイント
「有る」=所有。「在る」=存在。
「有る」=他動詞。「在る」=自動詞。
迷った場合は「ある」
解説
漢字で最も使い分けが難しいものの1つが「有る」と「在る」です。
子供に聞かれて答えに悩んだり、パソコンで変換する際に迷ったりすることも多いのではないでしょうか?
まず、最初のポイントは他の言葉に置き換えるとどのようになるかで判断することができます。
「有る」は所有、「在る」は存在に置き換えることができます。
「彼には車が有る」→「彼は車を所有している」
「そこに山が在る」→「そこに山が存在している」
などと考えると分かりやすいです。
また、「有る」は他動詞、「在る」は自動詞です。
「彼には車が有る」の場合、主語の彼ではなく車にかかりますので他動詞で「有る」、「そこに山が在る」の場合、主語の山にかかりますので自動詞で「在る」となります。
ただ、それでも判断が難しい場合も多く、どちらにも解釈できるケースもよくあります。
その場合、ひらがなで「ある」としておけば問題ありませんし、間違いでもありません。
ポイント
「当てる」=ぶるける。触れさせる。「充てる」=振り向ける。割り当てる。
「充てる」=用途。目的。役割。「当てる」=それ以外。
「充てる」=お金。時間。人材。「当てる」=それ以外。
「充てる」=for、because。
解説
「当てる」と「充てる」は使い分けに悩む場面がよくあります。
「当てる」は分かりやすいものの「充てる」を使うべきかどうかで迷ってしまうことも多いでしょう。
この「当てる」と「充てる」の違いや使い分けの目安とポイントをまとめてみます。
おおまかに分類すると、「当てる」は「ぶるける」「触れさせる」といった場合に用いられ、「充てる」は「振り向ける」「割り当てる」のような場合に用います。
また、「当たる」は幅広い意味で使われますが、「充てる」は限定的です。
「充てる」は用途・目的・役割が関係する場合に使われ、「当てる」はそれ以外の場合と考えると分かりやすいかもしれません。
英語に置き換えてみると判別しやすい場合もあります。
forやbecauseに置き換えられるものは「充てる」、置き換えられない場合は「当てる」となります。
更に、主語になるもので判断する方法もあります。
「充てる」はお金・時間・人材に係わる場合に用いられますが、「当てる」はそれ以外のモノが主語になります。
お金の場合はどちらに使う場合もあります。
競馬や宝くじが的中した場合は「当たる」、そのお金の使い道は「充てる」となります。
ポイント
「価」=お金の価値。「値」=数量。
「価」は「値」の一部。
お金に換算できるもののみ「価」。
「~にあたいする」は「価」でも「値」でもOK。
解説
「価値」という言葉がありますが、「価」も「値」も「あたい」と読みます。
この「あたい」という読みで使う場合、「価」と「値」ではどのような違いがあるのでしょうか?
「あたい」は、物事を数量で表すことを言いますが、一般的には「値」が使われます。
しかし、お金に換算できるものの場合、「価」が使われることも多くあります。
つまり、「値」のなかの一部のみ「価」が使われるという事にもなります。
この場合も「値」でも間違いではありませんので、使い分けに悩んだ場合には「値」にしておけば問題ありません。
ちなみに、「~にあたいする」という表現は、「~に価する」でも「~に値する」でもどちらでもOKのようです。
ポイント
「足」=くるぶしから先。「脚」=足全体。
「足」=Foot。「脚」=Leg。
手で言うと、「足」=手。「脚」=腕。
支えるものに使う場合は「脚」。
解説
「あし」を漢字にすると「足」と「脚」の2種類がありますが、この2つは意味も似ていて使い分けに悩む場合があります。
この「足」と「脚」の違いがどのようなものなのでしょうか?
まず、身体の一部である「あし」を漢字で表す場合、「足」と「脚」の違いは明確です。
「足」はくるぶしより先の部分に使い、太ももを含む全体を指す場合には「脚」を使います。
英語で言えば、「足」はFoot、「脚」はLegということになります。
手に例えるともっと分かりやすくなります。
「足」は手、「脚」は腕となります。
また、「あし」には物を支える部分を指す場合にも使われます。
この場合、どちらを使っても間違いではありませんが、基本的には「脚」が使われます。
ポイント
「上げる」=上昇。「揚げる」=掲揚。「挙げる」=成果・成績。
「上げる」=下げるの反対。「揚げる」=掲げる。「挙げる」=成果を残す。
「上げる」=終了。「挙げる」=意思表示。
解説
「あげる」と言うと、「上げる」と「揚げる」と「挙げる」の3つの漢字がありますが、この違いが実は分からないという方も多いのではないでしょうか?
まず、大まかに分類すると、「上げる」は下げるの反対、「揚げる」は掲げる、「挙げる」は成果を残すという意味があります。
言い方を変えると、「上げる」=上昇、「揚げる」=掲揚、「挙げる」=成果・成績と言い換えることもできます。
まず、「上げる」は物を上にあげることですので、「荷物を上げる」「棚を上げる」という場合に使います。
次に、「揚げる」は特に高く上げる意味がありますので、「国旗を揚げる」「凧を揚げる」という場合に用いられます。
最後に「挙げる」は上下関係は関係なく成績や成果に対して使われます。
「犯人を挙げる」「得点を挙げる」などという場合に用いられます。
また、例外として「上がる」には終了するという意味もあります。
「仕事が上がる」などと表現されるのはそのためです。
「挙げる」に意思表示をするという意味もあります。
「手を挙げる」などと表現されるのはそのためです。
ポイント
「勧める」=「勧誘」。「薦める」=「推薦」。「奨める」=「奨励」。
「勧める」=誘う。「薦める」=促す。「奨める」=励ます。
「奨める」=常用漢字ではない。
解説
「すすめる」という言葉を漢字にすると「進める」「勧める」「薦める」「奨める」の4つがあります。
「進める」はともかく、「勧める」と「薦める」と「奨める」の違いはかなり紛らわしいものです。
まず、これらはこの漢字を含む熟語に置き換えると分かりやすくなります。
「勧める」=「勧誘」、「薦める」=「推薦」、「奨める」=「奨励」と置き換えることができます。
これらを踏まえると、「勧める」=誘う、「薦める」=促す、「奨める」=励ますという意味を含んでいると言えます。
「勧める」は「勧誘」で誘う意味がありますので、サークルや保険の勧誘には「勧める」が適しています。
「薦める」=「推薦」で促す意味がありますので、選挙や役職に誰かを推す場合は「薦める」が適しています。
「奨める」=「奨励」で励ますという意味が含まれています。
「奨励金」というのもこの励ます意味が含まれているためです。
ただし。「奨める」は常用漢字ではありませんので、使われるケースはほとんどありません。
「会社がおすすめする」という意味でしたら、「勧める」で問題ないでしょう。
ポイント
「円い」=円。「丸い」=球。
「円い」=平面。「丸い」=立体。
「円い」=2D。「丸い」=3D。
解説
「円い」と「丸い」の違いはご存知の方も多いでしょうが、実はよく分からないという方もかなりいるようです。
この違いはシンプルで、「円い」は円に対して、「丸い」は球に対して使われます。
言い方を変えると、「円い」は平面、「丸い」は立体ということにもなります。
また、「円い」は2D、「丸い」は3Dとする事もできます。
ですので、下記の例に例えるとこのようになります。
皿→円い
輪→円い
月→丸い
目→丸い
おぼん→円い
体→丸い
ポイント
「降りる」=「乗る」の反対。「下りる」=「上る」の反対。
「降りる」=外れる。「下りる」=下がる。
乗り物はどちらでもOK。
解説
「降りる」と「下りる」の違いもなかなか難しく、使い分けに悩む場面もあります。
まず、「降りる」と「下りる」は、反対の意味で使われる言葉で考えると分かりやすくなります。
「降りる」の対義語は「乗る」となりますので、「飛行機から降りる」「バスから降りる」という場合に使われます。
「下りる」の対義語は「上る」ですので、「階段から下りる」「幕が下りる」などといった場合に使われます。
また、どのように移動するのかによっても区別することができます。
「下りる」は物理的に上から下に下がる場合に用いられますが、「降りる」は「外れる」という意味で使われます。
「仕事から降りる」「役職を降りる」「勝負を降りる」などは「外れる」という意味に置き換えられます。
ただし、例外として乗り物があります。
電車やバスなどでは「降車」「下車」という言葉があるように、
「降りる」も「下りる」も使われます。
この場合、どちらを使っても間違いではありません。
ポイント
「犯す」=法律・規律。「侵す」=領域・権利。「冒す」=けがす。
「犯す」=犯罪。「侵す」=侵略・侵害。「冒す」=冒涜。
「侵す」=相手がいる。
「冒す」=困難を伴う。
解説
「犯す」と「侵す」と「冒す」は、どれもあまりいい意味で使われることはありませんが、意外にその違いや使い分けがわかりにくい言葉です。
まず、大まかに分類すると、「犯す」は法律や規律に関係、「侵す」は領域や権利に関係。「冒す」はけがすという意味で使われます。
これらはそれぞれの漢字を使った熟語に置き換えると分かり易いかもしれません。
「犯す」=犯罪、「侵す」=侵略・侵害、「冒す」=冒涜、となります。
「犯す」は法律や規律を犯す意味ですので、つまり犯罪となります。
「侵す」は領域・権利に関係しますので、「領土の侵略」「人権侵害」「プライバシー侵害」といった場合に使われます。
また、「侵す」は相手がいる場合に限定されるという特徴もあります。
「冒す」はけがすという意味がありますので、「神を冒涜する」などといった場合に使われます。
「冒す」には、困難を伴うという意味で使われることもあります。
この場合は「冒険」という意味合いがあります。
「危険を冒す」という場合はこのケースに当たります。
ポイント
「会う」「逢う」=相手が人。「遭う」「遇う」=人とは限らない。
「会う」=大勢。「逢う」=1体1。
「遭う」「遇う」=偶然。たまたま。
「遭う」=悪い意味。
迷った時は「会う」。
解説
最も同音異義語の多い言葉に「あう」があります。
「会う」「逢う」「遭う」「遇う」「合う」と実に5つの漢字で表すことができ、意味も似ています。
この中で特に意味が似ていて使い分けの難しい「会う」「逢う」「遭う」「遇う」の4つの違いを取り上げてみます。
まず、相手が人に限定されるかどうかでおおまかに分類することができます。
「会う」と「逢う」は相手が人に限定されて使われる傾向がありますが、。「遭う」と「遇う」は人とは限りません。
また、「会う」と「逢う」では相手の人数で使い分けされる傾向もあります。
「会う」は相手が大勢いる場合でも使われますが、「逢う」は相手が1人の場合に限定されます。
「遭う」と「遇う」は、人やモノに限らず使われますが、特に偶然あった場合や、たまたま、思いがけずあった場合に用いられます。
その中でも、「遭う」は悪い意味で使われることが多く、あいたくない事やあいたくない人にあった場合に使われる傾向があります。
このようにとても紛らわしく使い分けが難しい「会う」と「逢う」と「遭う」と「遇う」ですが、
もし迷った時は「会う」を使っておけば間違いではありません。
ポイント
「表れる」=表現する。表に出る。
「現れる」=隠れていたものが見えるようになる。
「表れる」と「現れる」は同意語。
解説
「表現」というように「表れる」と「現れる」の違いは難しいものです。
同義語としても扱われますが、漢字で書こうとすると、どちらが正しいか迷ってしまいます。
文化庁の”「異字同訓」の漢字の使い分け例(報告)”によると、
【表す・表れる】思いが外に出る。表現する。表に出る。
【現す・現れる】隠れていたものが見えるようになる。
となっています。
このことから「表れる」では、、思いが外に出る意味の「顔に表れる」「態度に表れる」、表現する意味の「言葉に表れる」、表に出る意味の「影響が表れる」と書くことができます。
一方、「現れる」は、隠れていたものが見えるようになる意味で、「姿を現す」「本性を現す」「太陽が現れる」「救世主が現れる」と書くことができます。
しかし、この2つは同意語としても扱われています。
また、「現れる」の「隠れていたものが見えるようになる」という意味と、「表れる」の「表に出る」は似ているうえ、表現する人の立場によっても異なってきます。
例えば、「治療の効果があらわれる」という場合、単に現象があらわれたという意味で「表れた」とも掛けますし、
期待していた効果がようやくあらわれたという意味を含める場合には「現れた」とすることもでき、どちらも間違いではありません。
同じように、「練習の成果が現れた」「練習の成果が表れた」とどちらも使うことができます。
ポイント
「付く」=付着・付加。「着く」=到着・密着。
「付く」=意識を働かせる。
「着く」=文学的・比喩的に使う場合も。
解説
日本語の中で最も使い分けが難しいとされるのが「付く」と「着く」です。
意味にそれほど違いはありませんが、いざ漢字で書こうとすると、どちらか迷ってしまうケースがよくあります。
「付着」という言葉もありますので、なおさら複雑になっていまいます。
文化庁の”「異字同訓」の漢字の使い分け例(報告)”によると、このように書かれています。
【付く・付ける】付着する。加わる。意識などを働かせる。
【着く・着ける】達する。ある場所を占める。着る。
「付く」=付着・付加、「着く」=到着・密着と覚えると分かりやすいかもしれません。
例えば、「墨が顔に付く」「足跡が付く」は付着ですので「付く」。
「利息が付く」「知識を身に付ける」は付加される意味で「付く」。
「手紙が着く」「東京に着く」は到着ですので「着く」。
「船を岸に着ける」「車を正面玄関に着ける」「席に着く」「衣服を身に着ける」は密着ですので「着く」となります。
また、「付く」で覚えておきたいポイントは「意識などを働かせる。」という点です。
「味方に付く」「気を付ける」「目に付く」などは、意識を働かせるため「付く」となります。
この意味から考えると「ついていく」は「付いて行く」となり、使い分けも簡単になります。
例外的に、文学的や比喩的な表現として「付く」を「着く」と書く場合もあります。
「知識を身に付ける」では、より自分のものにするという意味で「知識を身に着ける」と表現することもありますし、「付いて行く」では、寄り添うという意味で「着いて行く」と表現する場合もあります。
ポイント
「指す」=方向・場所・意味を指す。
「差す」=挟む・かざす・入れる・現れる。
「指す」=指・矢印を使うもの。「差す」=指・矢印を使わないもの。
「指す」→「差す」でもOK。
解説
最も紛らわしい日本語の1つが「指す」と「差す」です。この違いは何気にわかりにくいものです。
パソコンや携帯で変換すると、候補に両方が表示され、どちらを使っていいか分からない方も多いでしょう。
まず、本来の意味としては、
「指す」は、方向・場所・意味などを指し示す場合に用いられます。
「差す」は、挟む・かざす・入れる・現れるというような意味合いがある場合に使われます。
この場合の「差す」は、むしろ「挿す」「射す」「刺す」に近いと考えた方がいいでしょう。
1つの目安としては、指や矢印などを使う場合は「指す」、使わない場合には「差す」と覚えておけば分かりやすいかもしれません。
また、この2つの漢字の意味の違いはなくなってきています。
「指す」の意味で使う場合には「差す」でもどちらでも間違いではありません。
多くの辞書サイトでは「指す」と「差す」は同義語と扱っています。
人さし指も「人差し指」とは書きますが、「人指し指」と書くことはありません。
ゆびさしも「指差し」または「指さし」と書くのが一般的です。
ポイント
「意志」=強い。「意思」=弱い。
「意志」=積極的。「意思」=消極的。
「意志」=行動をともなう。「意思」=行動をともなわない。
「意志」=心理学用語。「意思」=法令用語。
解説
使い分けの難しい漢字の代表格に「意志」と「意思」があります。
この違いが実は分からないという方も多いのではないでしょうか?
まず、「意志」と「意思」ではその強さに違いがあると言えます。
「強い意志」「意思確認」というように、「意志」には強い意向がありますが、
「意思」ではどちらかと言えばよいうようなことも含まれます。
言い方を変えると、「意志」は積極的なもの、「意思」はどちらかというと消極的なものということにもなります。
また、行動をともなうものを「意志」、行動をともなわないものを「意思」ということにもなります。
なんとなくオリンピックに出てみたいというような漠然とした思いは「意思」、
オリンピックに出るために日々厳しい練習に取り組んでいる場合は強い「意志」が働いています。
喫煙者では、体のことを考えればできれば禁煙したいという人は禁煙の「意思」があり、
実際に禁煙に取り組んでいたり、禁煙に成功した人は、禁煙の「意志」があったと言えます。
別の分類では、「意志」は心理学用語、「意思」は法令用語となります。
そのため、法律や教育現場では「意思」が多く用いられています。
ポイント
「聞く」=受動的。「聴く」=積極的。
「聞く」=自然に耳に入る。「聴く」=耳をそばだてる。
「聞く」=耳だけできく。「聴く」=心できく。
「聞く」=hear。「聴く」=listen。
解説
「音を聞く」「音楽を聴く」というように、同じきくでも「聞く」と「聴く」と2種類の漢字で表現することがありますが、
この違いはどこにあるのでしょうか?
ざっくりいうと、きく側の受け取り方に違いがあるようです。
「聞く」は受動的、「聴く」は積極的ということになります。
言い方を変えると、「聞く」は自然に耳に入る場合、「聴く」は耳をそばだてる場合ということにもなります。
ですので、車や街の騒音など、聞きたくなくても聞こえるのもは「聞く」、好きな音楽など自分からききに行くものは「聴く」ということになります。
また、このようなことから耳だけできく場合は「聞く」、心できく場合は「聴く」ということにもなります。
川のせせらぎなど自然に聞こえるものは通常は「聞く」が使われますが、
この場合、文学的には「聴く」が使われることもあります。
また、先生や上司の話も、いやいやきくなら「聞く」、前向きにきくなら「聴く」ということにもなります。
英語で表現するなら、「聞く」=hear、「聴く」=listenが近い意味となります。
ポイント
「卵」=生物学的な意味。「玉子」=食材としての意味。
「卵」=生物のたまご。「玉子」=鶏のたまご。
「卵」=生まれたままの姿。「玉子」=調理したもの。
解説
たまごを漢字で書くと、「卵」と「玉子」の2種類があることに気が付きます。
この違いや使い分けをはっきり理解していない方は多いのではないでしょうか?
まず、大きなくくりとしては、その目的で分類することができます。
「卵」は生物学的な意味で、子孫を残すたものものの場合に使われ、
「玉子」は食材として使う目的の場合に使われます。
ですので、同じ鳥の卵でも、自然の中で巣に産んでいるものは「卵」、
スーパーに並んでいる鶏のたまごは「玉子」となります。
また、鶏のたまごのほとんどは食用に生産されています。
そのため、鶏のたまごは「玉子」、それ以外を「卵」というように分類することもあります。
さらに、同じ鶏のたまごでも、生まれたままの姿のものを「卵」、調理したものを「玉子」と区別する場合もあります。
「生卵」「玉子焼き」と書くのもそのためです。
この3つのルールを覚えておけば、ほとんどがどれかに当てはまります。
ポイント
「体」=肉体。「身体」=心身。
「体」=生物全般に使う。「身体」=人間のみに使う。
「体」=常用漢字。「身体」=常用漢字外。
「体」=一般的。「身体」=丁寧な言い方。
解説
「からだ」という言葉を漢字で書く際、「体」と「身体」という2種類の書き方がありますが、この違いや使い分けについて実はよく分かっていないという方が多いのではないでしょうか?
まず、一般的な意味の違いでは、「体」は物理的な肉体のことを指し、「身体」は心を含めた心身のことを指す傾向があります。
ですので、動物や昆虫の場合には「体」を使いますが。「身体」を使うことはありません。
「身体」は人間だけに使うと考えていいでしょう。
一方で、「身体」を「からだ」と読むのは常用漢字ではありません。
常用漢字では「身体」は「しんたい」と読みます。
そのため、新聞などのメディアでは基本的に「からだ」は「体」と表記し、「身体」は「しんたい」と読むことが一般的です。
また、「身体」は丁寧な言い方という意味合いもあります。
手紙などを書く際には「お身体にお気を付けください。」というように「身体」を使うのがマナーともされています。
ポイント
「お参り」=仏様。「お詣り」=神様。
「お参り」=お墓・お寺。「お詣り」=神社。
「お参り」=手を合わせる。「お詣り」=手をたたく。
解説
「お参り」と「お詣り」の違いは、相手が神様か仏様かによって使い分けられます。
「お参り」は仏様、「お詣り」は神様となります。
つまり、お寺やお墓に行く場合は「お参り」、神社に行く場合には「お詣り」となります。
このような違いがありますので、おまいりする際の作法としては、
「お参り」は手を合わせる、「お詣り」は手をたたくと覚えておいてもいいかもしれません。
ポイント
「匂い」=いいニオイ。「臭い」=いいニオイも悪いニオイも含まれる。
「臭い」=臭覚のみ。「匂い」=視覚的に使われる場合も。
「くさい」との読み間違えないため「匂い」が使われる場合も。
解説
「匂い」は、いいニオイの場合にのみ使われますが、「臭い」は、いいニオイにも悪いニオイにも使われます。
「匂い」は、古くは臭覚的・視覚的に好ましい意味の言葉として使われていました。
そのため、色彩が美しい場合などを表現する場合などにも「匂い」を使います。
「いろはにほへと(色は匂えど)」というのもそのためです。
また、「臭い」は「くさい」とも読めてしまうため、この読み間違いを防止するために「匂い」を使うこともあります。
ポイント
通常は「褒める」。「誉める」は常用漢字ではない。
「褒める」も「誉める」もほぼ同じ意味。
解説
漢字で書いたりパソコンで変換する際によく迷う漢字がありますが、
「褒める」と「誉める」もその中の1つです。
正しくはどちらをどのように使い分ければいいのでしょうか?
まず、意味としてはほとんど違いはありません。同義語ととらえていいでしょう。
ただし、「誉める」は常用漢字ではありません。
ですので、通常使う際には「褒める」としておけば間違いありません。
「誉める」は「栄誉や勝利をほめたたえる」という際に使われる傾向がありますが、
この際も「褒める」でも問題ありませんし、間違いではありません。
ポイント
「濫用」=「乱用」。
もともとは「濫用」。「乱用」は代替。
「濫」は当用漢字表から削除されたため、新聞・放送では「濫用」→「乱用」に置き換えた。
当用漢字表は廃止されたが、現在も新聞・放送では「乱用」が用いられている。
解説
「濫用」と「乱用」は、意味としては全く同じものです。
もともとは「乱用」が用いられていましたが、
昭和29年3月の国語審議会報告「当用漢字補正資料」で「濫」は当用漢字表から削除する候補28字に含まれていました。
そのため、日本新聞協会では翌4月1日からこの補正資料を採用し、「濫用」→「乱用」などの書き換えを行っています。
昭和56年に当用漢字表が廃止、常用漢字表が制定された際にも、新聞協会では当用漢字補正資料を30年近くも採用していた経緯から、取り決めはそのまま継続されています。
ポイント
「対応」=状況に対し処置・行動する。
「応対」=相手に応じて受け答えする。
「応対」=相手は人。「対応」=相手は人とは限らない。
解説
「対応」と「応対」の違いは、相手が人に限定されるかどうかという点です。
「対応」は、状況に応じて処置・対応する事を指し、相手が人であったりモノや現象であったりすることがあります。
一方、「応対」は相手に応じて受け答えするという意味になり、相手が必ず人となります。
特に、電話や接客に限定して使われます。
「応対がいい」というと、ほとんどの場合、電話や接客の際の受け答えがいいという意味になります。
ポイント
「保証」=約束する。「保障」=保護する。
「保証」=保証書・保証人・品質保証。「保障」=社会保障・安全保障。
解説
「保証」と「保障」は、混乱しやすい言葉ですが、その意味には大きな違いがあります。
「保証」は約束するという意味があり、「保障」には保護するという意味があります。
例えば、「保証書」は、その期間内に故障や異常が発生しないことを約束する証書となります。
「品質保証」も同様にその品質であることを約束するという意味に置き換えることができます。
「保証人」は、当人に何かあった際の代理となることを約束するという意味にもなります。
一方。「保障」には保護するという意味があります。
「社会保障」は、国民の最低限の生活を保護するという意味がありますし、
「安全保障」は、外部からの脅威から保護するという意味にも置き換えることができます。
ポイント
「規定」=個々の決まり。「規程」=規定全体。
「規定」=動詞になる。「規程」動詞にならない。
「規定」=「規定○○」と後に名詞がつく。「規程」=「○○規程」と前に名詞がつく。
解説
「規定」と「規程」は同義語として扱われ、違いが明確ではありませんが、
個々の細かい決まりを定めたものを「規定」、「規定」全体を取りまとめたものを「規程」というように使い分けられる傾向があります。
また、その他の大きな違いでは、動詞になるかどうかという違いです。
「規定」は「規定する」というように動詞として使えますが、「規程する」は間違いになります。
その他にも、名詞とセットで使われる場合に違いがあります。
「規定」は「規定○○」というように、前に「規定」が付くことが多いのですが、
「規程」は「○○規程」というように後に「規程」が付くことがほとんどです。
ポイント
「習得」=習って覚える。「修得」=学んで覚える。
「習得」=全般。「修得」=学業・学問など。
「習得」=実務・技術・操作方法など。「修得」=教科・科目・知識など。
解説
「習得」には、字の通り「習って覚える」という意味があり、幅広く用いられます。
一方、「修得」は、「学んで覚える」という意味になり、学業や学問などの分野に限定されて用いられます。
例えば、実務・技術・操作方法などには「習得」が使われ、教科・科目・知識などには「修得」が使われます。
大学や高校の単位数などには「修得」が用いられることが多くあります。
ポイント
「遵守」=「順守」。
もともとは「遵守」。「順守」は代替。
「遵」は当用漢字表から削除されたため、新聞・放送では「遵守」→「順守」に置き換えた。
当用漢字表は廃止されたが、現在も新聞・放送では「順守」が用いられている。
解説
「遵守」と「順守」は、意味としては全く同じものです。
もともとは「遵守」が用いられていましたが、
昭和29年3月の国語審議会報告「当用漢字補正資料」で「遵」は当用漢字表から削除する候補28字に含まれていました。
そのため、日本新聞協会では翌4月1日からこの補正資料を採用し、「遵守」→「順守」、「遵法」→「順法」などの書き換えを行っています。
昭和56年に当用漢字表が廃止、常用漢字表が制定された際にも、新聞協会では当用漢字補正資料を30年近くも採用していた経緯から、取り決めはそのまま継続されています。
ポイント
「該当」=条件にあてはまる。「当該」=関係がある。
「当該」=「その」「前述の」という意味もあり。
「該当」=動詞になる。「当該」=動詞にならない。
「当該」=後に名詞がくる。「該当」=後は名詞とは限らない。
解説
「該当」と「当該」を辞書サイトで調べると、
「該当」=条件にあてはまる、「当該」=関係がある、となっています。
意味としては近い部分もありますが、「当該」には「その」や「前述の」という意味もあります。
例えば、「当該○○」という言葉を「その○○」「前述の○○」というように置き換えることもできます。
また、「該当」は動詞になりますが、「当該」は動詞になりません。
更に、「当該」の後には必ず名詞が続きます。
「該当する」「該当しない」とは言いますが、「当該する」「当該しない」とは言いません。
「当該省庁」「当該事件」というように、当該は必ず後に続く名詞とセットで使われます。
ポイント
「制作」=(芸術)作品を作る。「製作」=物品を作る。
「制作」=絵画、工芸品、展覧会の出品作品など。「製作」=精密機械、器具など。
「制作」=作品を作る。「製作」=作品を作るための資金調達。
解説
「制作」と「製作」の違いは、まずは作るモノによって使い分けをすることができます。
「制作」は、主に芸術作品を作る際に用いられます。
絵画や映画、展覧会などに出品する作品を作る際には「制作」を使います。
一方、「製作」は、実用的なものを作る際によく用いられます。
工業製品・精密機械・各種器具などを作る際には「製作」を用います。
また、映画やテレビ番組などを作る際には、少々違った意味で使い分けをする場合があります。
この場合、映画やテレビ番組を実際に作る作業が「制作」、そのための資金調達などを行うことが「製作」というように使い分けれれることがあります。
例えば、ディズニー映画の場合、「制作」はピクサー・「製作」はディズニーといった具合に使い分けをすることができます。
テレビ番組の場合、「制作」は制作会社・「製作」はテレビ局というケースもよくあります。
ポイント
元々正しかったのは「ちょうふく」。
現在では「じゅうふく」と「ちょうふく」どちらでもよい。
解説
「重複」は元々「ちょうふく」が正しい読み方とされていました。
しかし、「じゅうふく」と読んでしまう人があまりに多かったため、後に「じゅうふく」でもよいということになりました。
辞書で調べると、「ちょうふく」となっているものと「ちょうふく」と「じゅうふく」が併記されているものが混在しています。
ちなみに、「重量」「体重」のように重さを表わす場合には「じゅう」と読むことが多く、
「丁重」のように重なることを表わす場合には「ちょう」を使う事が多いようです。
ポイント
「特徴」=特に目立つところ。「特長」=特に優れたところ。
「特徴」=欠点も含まれる。「特長」=欠点は含まれない。
解説
「特徴」は特に目立つところ、「特長」は特に優れたところという意味になります。
決定的な違いは、欠点や悪い意味がふくまれるかどうかという点です。
「特徴」には欠点も含まれ、「特長」には欠点は含まれません。
また、厳密には「特長」は、”他と比較して”優れているという意味もあります。
そのため、唯一でなくても相対的に優れていれば「特長」とする傾向があります。
逆に、「特徴」は、そのものを判別でき、他にはないものを指すことが多いようです。
ポイント
「不用品」=使えないもの。「不要品」=いらないもの。
「不用品」=壊れている。「不要品」=壊れていない。
粗大ごみの記載はどちらでも可。
解説
一般的には、「不用品」は使えないもの、「不要品」はいらないもの(必要ないもの)として用いられます。
つまり、「不用品」は壊れている、「不要品」は壊れていないという違いがあります。
「不用品」と「不要品」の違いについて検索している方の多くは、粗大ごみの記載が「不用品」と「不要品」のどちらが正しいかを調べているようです。
この場合、壊れていたら引き取ってもらえないという訳ではありませんので、「不用品」でも「不要品」でもどちらでもOKという事になります。
リサイクルショップに持ち込む場合は、当然使う事を前提にしていますので、引き取ってもらえるのは「不要品」です。
もし「不用品」を引き取ってもらえても、それはジャンク品として販売されることになります。
ポイント
「精算」=計算すること。「清算」=支払うこと。結末をつけること。
「精算」=お金が絡む。「清算」=お金が絡まない場合もある。
「精算」は概算の対義語。
解説
分かっているようで実は難しいのが「精算」と「清算」の違いです。
料金や運賃を支払う事が「精算」だと思われていますが、実は「精算」は「概算」の対義語で、細かく計算したり過不足を計算し直す事をさします。
逆に、「清算」には支払うという意味が含まれます。
「過去を清算する」という言葉に代表されるように、「清算」は”きまりをつける”、”結末をつける”という意味ですので、必ずしもお金に絡む場合だけではありません。
ですので、買い物などでの「精算する」とは確定した金額を計算したりしてもらったりする行為であり、支払う行為は含まれません。
ポイント
「用件」=用事。「要件」=条件。
「要件」=大切な「用件」。
解説
「用件」と「要件」は、辞書によるとそれぞれ下記のような意味になります。
「用件」:なすべき仕事。伝えるべき事柄。用事。
「要件」:必要な条件。大切な用事。
これらを解釈すると、まず、「用件」=用事、「要件」=条件と読み取ることができます。
ビジネスの場では、要件定義書(RFP)に代表されるようにシステム関連ではよく使われる言葉です。
これは、何かを製作依頼したりや購入したりする際、満たして欲しい条件という意味になります。
難しいのは「大切な用事」という意味での「要件」です。
「ようけんを手短にお伝えください」という場合は「要件」「用件」どちらも使うことがあるようです。
用事が関係する場合は「用件」と覚えておけばシンプルかもしれません。
ポイント
「篇」=ファイル。「編」=フォルダ
「篇」は常用漢字外
全て「篇」でもOK
編集を略した「編」と区別するため「篇」が用いられることも
解説
まず、「篇」は、紙が発明される以前、記録媒体が木簡(表面を平たく削った木や竹の札)だったことに由来するようです。
短歌などを「篇」とかぞえることがありますが、これが由来かもしれません。
また、この木簡は一番上に穴をあけて紐を通して束ねひとくくりにして保管していました。
この様子から、まとめられたものを「編」というようになったようです。
パソコンに例えると、「篇」=ファイル、「編」=フォルダとイメージすると分かりやすいかもしれません。
現代では、「篇」は常用漢字から外れています。
意味としても同義として扱われています。
ですので、基本的には全て「編」を使うのが正しいと言えます。
CMなどのバージョンを表す場合「篇」が用いられるケースがあるようです。
これは、人名+「編」とした場合、出演者なのか編集者なのかが区別できなくなるためだそうです。
ですので、文字の意味ではなく区別するための慣例になっているそうです。
ポイント
「分かる」=わかる全般。「解る」=理解する。「判る」=判明する。
「分かる」=know。「解る」=understand。「判る」=prove or judge。
「解る」「判る」は常用漢字外
全て「分かる」でもOK
解説
辞書サイトなどで調べてみると、「分かる」と「解る」と「判る」の意味の違いは区別されていません。
ただし、「解る」「判る」は常用漢字外とされています。
ですので、全て「分かる」としても間違いではありません。
意味によって使い分けされる場合、「解る」は理解する、「判る」は判明するという意味合いに特化して用いられます。
それ以外の場合、全般的に「分かる」が使われます。
また、英語に当てはめてみると、下記のようにも分類することができます。
「分かる」=know。
「解る」=understand。
「判る」=prove or judge。
判断に困った場合は「分かる」にしておけば無難かもしれません。
ポイント
もともとは「由布院」。
昭和30年、由布院町と湯平村が合併して「湯布院町」になった。
さらに、平成17年の合併で、「由布市」へ。
現在は、「湯布院」と「由布院」が混在
解説
もともとは「由布院」と書き、「湯布院」という言葉はありませんでした。
昭和30年、由布院町と湯平村が合併して湯布院町となりました。
これが「湯布院」という書き方の始まりになります。
そのため、町全体を言うときは「湯布院」、昔からある地名などは「由布院」と使い分けていたようです。
たとえば「由」は、由布院温泉・JR由布院駅・由布岳、「湯」は湯布院観光協会・湯布院映画祭りなどに使われてました。
しかし、平成17年に庄内町・挾間町 ・湯布院町が合併し、「由布市」になりました。
これにより、「湯布院」と「由布院」の区別は更に大変になってしまったようです。
例えば、旧湯布院町の住所は「由布市湯布院町」となっています。
また、「湯布院」が付いていた施設や団体では、そのまま「湯布院」としているもの、「由布院」に変更しているものが混在しています。
湯布院町商工会
由布院温泉観光協会
湯布院塚原高原観光協会
湯布院の温泉旅館「由布院 いよとみ」
混乱を避けるためか、最近できた新しい施設やイベント名には、どちらも使わず「ゆふいん」が付いているものも多いようです。
ポイント
「追求」=幸福・理想。「追及」=責任。「追究」=原因・真理。
「追求」=追い求める。「追及」=追い詰める。「追究」=研究する。
解説
「追求」と「追及」と「追究」は、国語辞典によるとそれぞれ下記のようになります。
「追求」:手に入れようとしてねばり強く追い求めること。
「追及」:責任・欠点などをどこまでも追いつめること。
「追究」:(学問的に)不確かなことや不明なことをどこまでも探究すること。深く考えきわめること。
「きゅう」の漢字からイメージすると区別しやすいかもしれません。
また、前に付く目的語によっても絞り込めます。
幸福・理想・利潤なら「追求」、責任・犯人なら「追及」、原因・真理なら「追究」となります。
ポイント
「暖める」=温度を上げる。「温める」=冷たさをやわらげる。
「暖める」=空気(気温・室温)。「温める」=それ以外。
「暖める」=寒いの反対。「温める」=冷たいの反対。
「暖める」=体全体で感じる。「温める」=体の一部で感じる。
解説
「暖める」と「温める」もよく混同されますが、ほとんどの辞書さいとでも同じものとして扱っています。
つまり、どちらを使っても間違いではないということになりますが、一般的には使い分けがなされています。
まず、元の温度で使い分ける方法です。
元が冷たければ「温める」、冷たくないもしくは関係ない場合「暖める」と区別します。
次に「あたためる」対象物で区別する方法です。
「暖める」は、気温・室温など、空気が関係する場合にのみ用い、それ以外は「温かい」を用います。
「心」や「友情」といった実態のないものや抽象的なものにも「温める」を使います。
また、NHKでは反対語である「寒い」「冷たい」のどちらが当てはまるかや、体の一部で感じる場合は「温かい」、体全体で感じる場合「暖かい」といった点を目安にしているようです。
ポイント
「絶対」=比較・対立が関係する。「絶体」危険・困難が関係する。
「絶対」=決して・・・。「絶体」ピンチ。
「絶体」は「絶体絶命」にしか使わない。
解説
基本的には、「絶対」と「絶体」は意味の異なる言葉です。
「絶対」は、他に並ぶものがないこと、比較や対立がない事を言います。
「相対」の反対語としてよく使われます。
対して、「絶体」は、命の危機が迫っていたり、危険や困難から逃げられない様子を指します。
しかし、「絶体」という単独の言葉で使われることはありません。
正式には「絶体絶命」という四字熟語の一部としてのみ使われます。
ですので、「絶体」という言葉は誤りという事になります。
一部の書籍タイトルやゲームタイトルでは「絶体」という言葉が含まれているものもありますが、これは固有名詞と解釈することができます。
ポイント
「生かす」=命をいかす。「活かす」=活用する。
「生かす」=消極的。「活かす」=積極的。
正式には「活かす」という言葉はない。
迷ったら「生かす」。
解説
まず、国語辞典によると、「活かす」という言葉はありません。
ですので、「いかす」=「生かす」と覚えても問題ないでしょう。
テスト問題などでは「活かす」と答えると間違いにされてしまうことがあります。
しかし、一般的には「生かす」も「活かす」もどちらもよく使われます。
「生かす」は特に生命に関係する場合に使用し、「活かす」は活用するという言葉に置き換えることができます。
「活用」という言葉をイメージすると使い分けがしやすくなるのではないでしょうか?
また、「生かす」は消極的、「活かす」は積極的というニュアンスでも使われます。
学校やビジネスの現場では、「この経験を生かして・・・」でも間違いではありませんが、「この経験を活かして」とした方が前向きに受け取られます。
このように考えると、難しいのが「死活問題」「活魚」といった言葉です。
「死活問題」の場合、死ぬか生きるかというほどの問題という例えであって、実際に生命の危機にある場合には使われません。
「活魚」の場合、魚にとっては生命の危機にありますが、積極的な意味合いがあるのと、「生(なま)」と区別する意味が含まれていると思われます。
ポイント
「叔父」=父母の弟。「伯父」=父母の兄。
解説
「叔父」と「伯父」の違いは明確です。
父または母の弟には「叔父」、兄には「伯父」を用います。
また、「小父」という言葉もあります。
「叔父」「伯父」が親戚関係の「おじ」を指すのに対し、「小父」は年配の男性を指します。
お年寄りの男性のことを「オジサン」というケースは「小父さん」と書くのが正しいようです。
ポイント
「充分」=満足。「十分」=100%(十割)。
「充分」=数値化・計測できない。「十分」=数値化・計測できる。
「充分」=主観的。「十分」=客観的。
基本的には「十分」で統一されている。
解説
本来、「充分」と「十分」は区別されており、別の言葉だったようです。
特に、「充分」は「職責を果たす」というような全く違った意味もあったようです。
現在では同じ意味の言葉として用いられますが、
「十分」は、数量が満たされた場合、「充分」は満足した場合に用いられます。
例えば、コップに水がいっぱいに入っている場合は「十分」ですし、
もう継ぎ足さなくていいことを伝えたい場合は「充分」というように使い分けられます。
言い換えると、「十分」は数値化・計測できて客観的なもの、「充分」は数値化・計測できず、主観的なものとも区別できます。
しかし、公式文書や学校教育では「十分」に統一されています。
恐らく学校で習ったもの「十分」ではないでしょうか?
それでも「充分」が使用され、混同されている要因の1つは「充実」「充足」といった言葉からのイメージがあると思われます。
また、日本国憲法でも、第37条に「充分」という言葉があり、公式には「充分」という認識があるのかもしれません。
使い分けをする方も多いようですが、迷った場合は「十分」としておけば間違いではありません。
ポイント
「寂しい」と「淋しい」は、どちらも「さびしい」「さみしい」と読む
どちらも間違いではない。
あえて言うなら「寂しい」は物静かなさびしさ。「淋しい」は肉体的なさびしさ。
解説
まず、読み方ですが「寂しい」=さびしい、「淋しい」=さみしいと勘違いしている事が多いようです。
正しくは、どちらも「さびしい」「さみしい」と読み、漢字による読み方の違いはありません。
「寂しい」と「淋しい」は、どちらも間違いではありませんが、「寂しい」を使うのが一般的とされています。
「淋しい」は、「医学用語の淋病の液体が淋(したた)る様子」から「肉体的な淋しさ」を表すとされています。
そのため、「淋しい」は品性が若干低く感じられたり、失礼にあたる場合もあるようなので、使い方に注意が必要です。
ポイント
「作る」=小さなもの。「造る」=大きなもの。
「作る」=無形なものも。「造る」=工業的寄り。
「創る」=初めてのもの。ただし、常用漢字ではない。
解説
まず、「作る」は小さなもの、「造る」は大きなものに使われます。
どこからが大きいものかという明確な区別はありませんが、船を造る(造船)・宅地を造る(造成する)というように、イメージとして比較的大きいものに分類されるものは「造る」が使われます。
次に、つくる物に着目すると、「造る」は必ず有形のものになりますが、「作る」には無形のものも含まれます。
例えば、詩を作る(作詞)・曲を作る(作曲)や、記録を作るという場合は「作る」を使いことになります。
また、「造る」は家を造る・橋を造るに代表されるように、工業的な意味合いが強くなります。
英語のbuildをイメージすると分かりやすいかもしれません。
なお、「創る」は初めてのものや前例のないものなどをつくる場合に使われます。
ただし、「創」の「つくる」という読み方は常用漢字にはありません。
「つくる」は「作る」か「造る」のどちらかを使うものと覚えておいて問題ないようです。
ポイント
「業社」=×。「業者」=○。
「業社」という言葉はない。
解説
「業社」と「業者」の違いはシンプルです。
正しくは「業者」で、「業社」という言葉は存在しません。
パソコンで変換してみてもお分かりになると思いますが、変換候補に「業者」は現れますが、「業社」は現れません。
「業社」と間違える方が意外に多いのですが、
仕事やビジネスの場で使う場合、相手が会社なので「御社」「貴社」「弊社」と言った言葉と混同して「社」としてしまう事が多いようです。
また、「者」は個人に使うものという思い込みや「者」だと失礼にあたるといったイメージも要因の1つです。
ポイント
「音読み」=中国読み。「訓読み」=日本読み。
「音読み」=読みだけで意味が通じない。「訓読み」=日本読みが通じる。
「音読み」=送り仮名はない。「訓読み」=送り仮名がつくことがある。
「音読み」=読みをカタカナで表す。「訓読み」=読みをひらがなで表す。
解説
まず、発祥から見た場合、中国からから伝来した通りに読むのが「音読み」で、その漢字や漢文に元々使っていた日本の読みをあてはめたのが「訓読み」と言うことになります。
伝わった発音通りに読むので「音読み」と覚えると、覚えやすいと思います。
次に、読みを言葉として考えた場合、それだけで日本語として成り立ち、意味が通じるものが「訓読み」、意味が通じないものが「音読み」となります。
例)”山”「やま」=意味が通じる→訓読み、「さん」=それだけでは意味が通じない→音読み
また、「音読み」には送り仮名が付きません。送り仮名が付いたら「訓読み」と覚えるのも1つの方法です。
漢和辞典や教科書では、「音読み」をカタカナ、「訓読み」をひらがなで表します。
お子様がどっちがどっちか分からなくなってしまう場合、カタカナ=「音読み」、ひらがな=「訓読み」と覚えるのもいいかもしれません。
数字「0」の読みには「ゼロ」と「れい」がある。
ゼロは、インドで生まれた概念がヨーロッパに伝わり、英語「zero」になったもの。
零(れい)は、それが中国に伝わって生まれたもので、一つ目の違いとして、英語と漢語の違いがある。
しかし、前後の言葉が英語なのか日本語(もしくは漢語)なのかで、前後を統一させるために「ゼロ」と「れい」が使い分けられている訳ではない。
天気予報の降水確率「0%」は、必ず「れいパーセント」と読まれる。
降水確率は0%から100%まで10%刻みの値で発表され、10%未満の値は四捨五入されるため、確率が5%未満の時は「0%」と発表される。
「ゼロ」も「れい」も共に「皆無」を意味するが、「零細企業」というように「零(れい)」には「わずか」「きわめて小さい」という意味もある。
降水確率「0%」は、雨の降る確率が限りなく皆無に近いという意味なので、「ゼロパーセント」ではなく「れいパーセント」と読まれるのである。
時刻の「0時」を「零時」、気温の「0度」を「零度」、点数の「0点」を「零点」というのも、それ自体が存在しない訳ではないからといわれる。
ただし、「時」や「度」「点」が日本語であるためともいわれ、正確なところは定かではない。
「ごみゼロ運動」や「自己ゼロ運動」のように、全く無い状態を目指す場合は「ゼロ」が使われる。
一般の会話で使用される「ゼロ」と「れい」の違いは、響きや言いやすさによって使い分けられる事が多く、必ずしも上記の通りではない。
居眠り」と「うたた寝」の違いは、体勢の違いである。
居眠りの「居」の字には、「座る」や「そこに居る」の意味がある。
「居眠り運転」や「授業中の居眠り」と言うように、居眠りは、椅子などに腰かけたまま眠ってしまったり、作業などをしている最中に眠ってしまうことをいう。
うたた寝は「転寝」と書き、「転」の字には「横たわる」という意味がある。
「テレビを見ながらうたた寝をしてしまった」と言うように、うたた寝は、寝るつもりはなく、床に入らず横になっているうちに寝てしまうことをいう。
浮気も不倫も、パートナーがありながら、他の異性にひかれ関係をもつことをいい、厳密な意味の違いはないが、一般的には次のような区別がされている。
不倫は結婚している場合のみ使い、浮気は婚姻の有無は問わず、恋人関係であっても使う。
不倫は肉体関係がある場合に使い、浮気は肉体関係がなくても使う。
不倫は継続的な関係のみ使い、浮気は一時的な関係であっても使う。
「軽い遊びのつもり」という意味で、「軽い浮気のつもり」とは言うが、「軽い不倫のつもり」とは言わない。
不倫の使われる範囲が限定的であるのに対し、浮気は広い意味で使われていることが分かる。
このような区別は、それぞれの言葉本来の意味が関係している。
不倫の「倫」は、倫理の「倫」と同じ「人の守るべき道」という意味で、不倫は「人の道にそむく」というのが本来の意味。
古くは、道徳に外れることを広く意味したが、戦前から「道徳的に許されない恋愛」の意味でも使われ始めた。
道徳に外れる行為は「重い罪をおかすこと」という認識があるため、不倫は婚姻関係にありながら、他の異性と継続的な肉体関係を続けるという、浮気よりも限定的な意味で使われる。
一方の浮気は、「心が浮ついて移りやすいこと」の意味で、「行為」よりも「気持ちの動き」が中心となる。
不倫のように道徳的な意味も含まないため、婚姻の有無や肉体関係の有無、関係をもった期間などは重視されず、気持ちが一瞬他へ移っただけでも使われる。
また、「他の店に浮気してた」といった表現もされるように、男女関係に限らず使われる言葉である。
住めば都」と「住まば都」は、響きは似ているが全く意味の違う言葉である。
住めば都は、どんな不便な田舎であっても住み慣れてしまえば、住みやすい都と同じように、住み心地が良い土地に感じるということ。
「住んでしまえば都」という意味。
住まば都は、どうせ住むなら不便な田舎よりも、便利で住みやすい都会のほうが良いということ。
「住むならば都」という意味。
「住まば都」はほとんど使われなくなった表現だが、「住めば都」のつもりで「住まば都」と言ってしまうと、正反対の意味になるので注意が必要である。
生誕と誕生は、どちらも「生まれること」を表す言葉であるが、使われる対象や場面に違いがある。
誕生は「生まれること」を表す最も一般的な言葉で、人に限らず動物にも用いられる。
人や動物が生まれた日を表す「誕生日」、「新会社誕生」「新商品誕生」といった組織や製品、「新校舎誕生」などの建物や場所、「カップルの誕生」といった状態など、「新しく生まれる(できる)」という意味で幅広く使われる。
生誕は動物や事物には用いられず、人に限って用いられる言葉。
特に、偉人に対して使用されることが多い。
一般的に偉人は亡くなっている人を指すため、誕生は生きている人に使い、生誕は既に亡くなっている人に使う、という区別をされることもある。
しかし、偉人の生まれを祝う祭りは、「誕生祭」とも「生誕祭」とも呼ばれるように、既に亡くなった人に対して「誕生」が使えない訳ではない。
また、生誕を用いる対象が偉人ではなければ、既に亡くなっている人でも不自然な印象を与える。
生誕や誕生の類義語には、「降誕」「出生」がある。
降誕は、神聖視される神仏・君主・聖人・高僧などが、この世に生まれ出る意味で用いられる。
出生は、人や動物が生まれることをいう。
「出世届」や「出生率」のように、出生は事務的な場面で用いられることが多く、生まれた土地や境遇・家柄などを表す際にも用いられる。
訛りは方言を特徴づける要素のひとつなので、「訛り」を「方言」と言っても間違いではいが、それ以外の方言の要素を「訛り」と言うと間違である。
方言は、共通語に対して、ある特定の地域だけで使用される言葉をさす。
訛りは、標準語に比べて、地域特有の発音をさす。
訛りは、標準語と異なるアクセントやイントネーション、発声法などのこと。
標準語で「雨(あめ)」は「高低」とアクセントを置き、関西弁では「低高」に置くといったアクセントの違いや、ズーズー弁のような東北特有の発声法は、訛りであり方言でもある。
異なる言い回しは、訛りではなく方言。
北海道の「なまら(非常に)」、沖縄の「めんそーれー(いらっしゃい)」などは、特定の地域で使用される独特の言い回しなので、「訛り」とは言わず「方言」と言う。
ひねる」と「ねじる」と「よじる」は、回すという点では同じだが、回す方向や強さ、回数などに違いがある。
ひねるは、指先でつまんで回す。一方向に回す。軽く回す。一度だけ回すという意味。
ねじるは、棒状や糸状のものの両端をつかんで、互いに逆の方向に回す。力強く回す。繰り返し回すという意味。
よじるには、ねじ曲げるという意味がある。
ガス栓や蛇口、スイッチなど、簡単に回転するように作られたものには「ひねる」が使われ、「針金をねじる」や「ねじり鉢巻き」など、一方向でなく両端から回したり、力強さが必要な場合には「ねじる」が使われる。
スイッチや瓶の蓋などが固くなってなかなか回らなず、力が必要な場合には「ねじる」を用いる。
「よじる」は「ねじる」と同義語だが、ねじったものを更に曲げるという、「ねじる」よりも更に複雑な回し方をする際に使われる。
「手首をひねる」と言った時には、通常動く方向に曲げることを表し、「手首をねじる」は通常の動作では曲げない方向に回してしまった時に用いる。
「手首をひねると痛い」という場合は、骨や筋などに何かしらの問題が考えられるが、「手首をねじると痛い」のは当然のことである。
ひねるは、「考えをめぐらす」「工夫する」という意味で「頭をひねる」や「首をひねる」、「簡単にやっつける」「負かす」という意味で「軽くひねってやる」や「ひねり潰してやる」といった使われ方もする。
「赤子の手をひねる」は「赤子の手をねじる」とも言うが、「簡単に」の意味から、本来は「赤子の手をひねる」が正しい。
「ひねった関係」と言わず「ねじれた関係」と言うように、ねじるは「二つの方向」「複雑さ」を表す。
大笑いする時に言う「腹がよじれる」は、「まるで腹がねじ曲がったよう」という、笑い過ぎるとお腹が痛くなる感覚からの表現で、「ひねる」や「ねじる」よりも複雑な状態が表されている。
おざなり」と「なおざり」は、「いい加減に対処する」という意味では同じであるが、使う場面が違ってくる。
おざなりは、江戸時代の幇間や芸者衆が、客によって扱いを変えたり、形ばかりの取り繕った言動をいった隠語。
そこから、その場しのぎで済ませることや、いい加減に物事を済ませることを表す。
なおざりは「気に留めない」が原義の言葉で、何もせずおろそかにしておくこと、成り行き任せにしておくことを表す。
おざなりは、物事に着手はしているが、その場だけの間に合わせの時に用いる言葉で、「いい加減」なのは「着手の仕方」である。
なおざりは、物事に着手もしないで放置しておいたり、真剣に取り組もうとしなさまに用いる言葉で、「いい加減」なのは「物事に対する姿勢」である。
バカ(馬鹿)とアホ・アホウ(阿呆)は、共に「愚かなこと」「愚かな人」を表す言葉で、主に、関東では「バカ」が常用され、関西では「アホ」が常用される。
常用される言葉は、軽いニュアンスで使われることも多いため、侮辱された印象も少ない。
常用されない言葉は、軽いニュアンスで使われる場面がないことから、侮辱された印象が強くなる。
そのため、関東では「アホ」の方が侮辱された印象が強く、関西では「バカ」の方が強く感じられる傾向にある。
アホは関西を中心に使われる言葉であるが、上方漫才の影響により全国的にも使われるようになってきた。
また、愛知や岐阜ではバカやアホのほか、「たわけ」も常用されている。
バカを強調語として使う場合は、「馬鹿高い」「馬鹿に暑い」などという。
アホも強調語として使われるが、「阿呆みたいに高い」「阿呆ほど暑い」というように、用法に違いがある。
バカには「馬鹿正直」「親馬鹿」「筋肉馬鹿」など、度が過ぎていることや、社会的常識に欠けていることをいう表現があるが、アホにそのような表現はない。
問題の答えを考える」とは言っても「問題の答えを思う」とは言わないように、考えるは筋道を立てて知的に分析するなど、客観的に判断することを示す。
対して、思うは主観的・感情的な心の動きや、瞬間的な判断を示すのに用いる。
「面白い」は、「思う」か「考える」か。
感情的・主観的な心の動きとして面白いを表すならば、「面白いと思う」と言う。
面白いが分析の対象であれば、「〇〇が面白いと考える」「面白いことを考える」「面白いとは何か考える」といった言い方になる。
「相手のことを思う」と「相手のことを考える」。
「相手のことを思う」と言った時は、相手を恋しく思ったり、心配したりする感情を表し、「相手のことを考える」は、より分析的で、その状況などについて思いめぐらすことを表す。
「私はこう思う」と「私はこう考える」。
「私はこう思う」と言った時は、主観的な希望や、漠然とした思いを表し、「私はこう考える」は、客観的な考えや、筋の通った考えを表す。
見るは、視覚によって認識することを広く意味する言葉で、前後の表現によって「見つめる」「眺める」の意味にもなる。
また、視覚から得た情報によって判断することから、「観察する」「調べる」「判断する」といった意味でも使う。
見つめるは、対象から視線をそらさず、その物をじっと見続けること、凝視することを意味し、多くは、意識や思考も対象に集中した状態を表す。
眺めるは、一点に集中せず、視野に入ってくるもの全体を広く見る意味で使われる。
そのため、一点に集中して見るのが「見つめる」、広く全体を見るのが「眺める」などともいわれるが、「しげしげと眺める」と言うように、一点に集中して見る意味でも「眺める」は使う。
ただし、眺めるの方が、ぼんやりとした印象を与えるため、視覚的には一点を見ているものの、意識や思考が他にある状態には「眺める」が多く使われる。
「空を見つめながら考える」といった場合、空のことを考えている訳ではないが、「空を眺めながら」が漠然とした考え、ぼんやりとした印象を与えるのに対し、「見つめながら」は、考えていることに対する集中や強い意志を持つ印象を与える。
わびとさびは、日本独特の美意識を表す言葉で、「わびさび」とひと言で言うことも多いが、本来は異なる概念の言葉で、わびは質素で寂しい趣、さびは古く枯れて渋みのある静かな趣のことである。
わび(侘び)は動詞「わぶ(侘ぶ)」の連用形で、本来は、劣った状態や不足すること、思い通りにならないことからの寂しさを表す言葉であったが、中世以降、肯定的に捉えられるようになり、簡素で閑寂な趣を楽しむ境地を意味するようになった。
俳諧や茶道などで重視され、特に、千利休が完成させたといわれる「わび茶」が有名である。
さび(寂び)は動詞「さぶ(寂ぶ)」の連用形で、時間の経過とともに劣化した様子の意味から、古びて味わいのあること、枯れた渋い趣、閑寂な趣を表すようになった。
特に、松尾芭蕉による俳諧の世界では、物静かで落ち着いた奥ゆかしい風情が、洗練されて自然と外に出るという感覚が重要な理念とされた。
寝るは眠りにつくことを意味し、寝るも眠るも「睡眠」を表す言葉であるが、「立ったまま寝てしまった」というのは間違いで、「立ったまま眠ってしまった」というのが正しい。
寝ると眠るの違いは何かといえば、重点の置かれるポイントで、対義語と合わせて考えるとわかりやすい。
寝たまま本を読んだり、テレビを見たりすることは出来るが、眠った状態では出来ないように、寝ているからといって睡眠状態にあるとは限らない。
寝るの重点は、体を横たえるという体勢にあり、対義語は「起きる」である。
死ぬことを「眠る」とは言っても「寝る」とは言わないように、眠るの重点は、目をつぶること、目を閉じて無意識の状態になること、活動が停止した状態にあるというところで、対義語は「覚める」である。
本来は、体を横たえることが「寝る」、睡眠状態にあることが「眠る」であるが、眠るためには体を横たえるわけであり、体を横にして休ませていれば眠ってしまうという関係にあるため、寝るも「睡眠」を表すようになった。
これは、最近の言葉の乱れではなく、平安時代から同義語として用いられているものである。
能率も効率も、できる仕事の割合を意味するが、比較する対象に違いがある。
能率は、一定時間内にできあがる仕事の割合、仕事のはかどり方のこと。
時間に対して、できる仕事量・達成度が比較される。
一定時間にできる出来高が多ければ「能率が良い」、低ければ「能率が悪い」となる。
効率は、使った労力や資金に対して得られる成果の割合のこと。多くは、機械などにいう。
エネルギーやコストに対して、できる量が比較される。
コストパフォーマンス(費用対効果)が高ければ「効率が良い」、低ければ「効率が悪い」となる。
それぞれの比較対象が異なるため、能率の良さと効率の良さが一致するとは限らず、能率が良くても効率が悪く、効率が良くても能率が悪いことがある。
臭いは「くさい」とも読むように、「ゴミの臭い」「下水の臭い」など、不快なものが対象。
「犯罪の臭いがする」など、いかにもそれらしい感じ、好ましくない雰囲気を感じるといった意味でも用いる。
匂いは、「花の匂い」「香水の匂い」など、好ましいものが対象。
臭いと同じく、いかにもそれらしいという意味で使うが、好ましく感じられるもの、趣があるものに対して用いる。
においを「ニオイ」とカタカナ表記する場合は、好ましくないにおい(臭い)を表すことが多い。
香りは匂いと同義語で、良いにおい、よい感じがする、美しいといった意味がある。
「はなのにおい」という場合は、「花の匂い」と「鼻の臭い」の二つの意味があり、悪臭を表すこともあるが、香りに悪臭の意味はなく、「はなのかおり」と言えば、花の良い匂いのことである。
また、「匂い」よりも「香り」とした方が、高級な印象を与えることが多い。
ふらふら」も「ぶらぶら」も「ぷらぷら」も、位置が定まらず揺れ動くさまをいうが、それぞれの使い方に違いがある。
ふらふらは、方向に関係なく不規則・不安定に動くさまに使う。
ふらふらの濁音「ぶらぶら」は、ふらふらよりもやや重い物が垂れ下がり、前後左右に揺れる様子で、垂直方向の揺れには使わない。
ふらふらの半濁音「ぷらぷら」は、ぶらぶらよりも軽い印象を与えたり、揺れ動いている物が接地面から離れ落ちそうなほどの状態になっている際に使う。
目的もなく歩く意味では、「ふらふら」は「ぶらぶら」よりも軽い印象を与え、「ぷらぷら」はだらしなく歩く印象を与える。
疲れや病気・薬の副作用などで歩けない状態や、誘惑に負ける、つい引き寄せられるといった意味では、「ふらふら」のみ使われる。
目的と目標は、目指すものという意味では同じだが、目的は、最終的に実現しよう、成し遂げよう、到達しようとして目指すもの。
目標は、さしあたって実現させたり、成し遂げたり、到達しようと目指すものをいう。
目標には「目印」の意味もあるように、目的を達成するために設けた目印が「目標」である。
道順を説明する際、「タバコ屋の角を右に曲がって」という時の「タバコ屋」は、「目標(目印)」であって「目的(地)」ではない。
最終的に辿り着きたい場所が「目的(地)」であり、目的地へ辿り着くために、まず行こうと目指す場所が「目標(目印)」である。
目的が最終的に目指すもの、目標がその過程で目指すものであるため、目的は抽象的で、目標は目的に比べて具体的になる。
「利益を上げたい」「会社を大きくしたい」という目的は、抽象的で漠然としたものである。
その目的のために、「今月の売り上げ目標」などと掲げられる目標は、具体的な数字である。
具体的な目標であっても、より具体的に目指すものがあれば、その目標は目的になる。
今月の売り上げ目標を達成するために、まず今週目指そうとするものは「今週の売上目標」で、今週の売上目標は「今月の売上目標を達成する」という「目的」のためにある。
今週の売上目標達成のため、「今週は〇〇件営業に行こう」とすれば、今週目指す営業件数は「目標」であり、今週の売上目標は「目的」となる。
目的を達成しようとするならば、まずは目の前にある具体的な目標を着実に達成していくことが必要である。
ドキドキ(どきどき)は、心臓の鼓動が激しくなる様子を形容した語。
運動・興奮・不安・恐怖・期待などを表す際に用いる。
ワクワク(わくわく)は、中から外へ激しく動いて現れる意味の「湧く(沸く)」から生まれた語。
期待・喜びなどで心が弾み、落ち着かないさまを表す際に用いる。
ドキドキとは違い、不安や恐怖、激しくなる鼓動を表す際には使用しない。
ハラハラ(はらはら)は、花びらや雪など小さくて軽いものが次々に落ちるさまの形容した語。
落ちていくものを見るように、失敗しないか、困ったことにならないかと気をもむさまを表す際に用いる。
ドキドキやワクワクは、自分の置かれた立場による心の動きや、他人を見ていて感じる心理状態など、広く用いられる言葉だが、ハラハラは、他人の身に起こっていることを見て、不安になったり、心配したりする心理状態にのみ使用する。
また、期待や喜びの意味でも使用しない。
ランク(rank)は、順位や等級、順位をつけること。
レベル(level)は、水準や段階。
グレード(grade)は、等級や段階。
クラス(class)は、階級・等級・層の意味。
クラスは、優劣などで区分した時のそれぞれの集まりのどこに属するかを表し、対象が個である場合には用いない。
ランクもクラスと同じように、区分された集まりの「等級」も表すが、外部からの評価によって区分された集まりに対して使われることが多い。
グレードも「等級」の意味で用いるが、ランクやクラスのように位置・地位の境界線がはっきりしたものではなく、品質や価値、難易度などが、どの程度の段階にあるかを表す。
レベルもグレードと同様に、どの程度の段階にあるかを意味するが、質的・数値的に見て、どの程度の高さにあるかという、高低度合・差の意味に重点を置いて用いられる。
制作は、美術作品、映画、テレビ番組など、芸術作品の創作活動に用いられることが多い。
製作は、実用的な物品、器具など、ものを作ることや、その作ったものの意味で用いられる。
作成は、書類・文章・計画などを作り上げること。
作製は、品物・機械・図面など、ものを作ることで、製作とほぼ同意。
製造は、品物を作ること。特に、原料を加工して製品にする意味で用いられる。
この中で、使い分けが難しいのは「制作」と「製作」で、芸術作品を作る場合でも、全て「制作」と表記する訳ではない点である。
映画やテレビ番組などでは、創作活動として作品そのものを作ることには「制作」を用いるが、資金調達や宣伝などのプロデュース全般を表す際には「製作」が用いられ、著作権法でも両者は区別されている。
ディズニー映画の場合であれば、作品を作る実作業を「制作:ピクサー」、制作に関わる出資や配給を「製作:ディズニー」と使い分けている。
この使い分けは、作品を何と捉えるかによる。
芸術作品を作ること自体は、創作活動なので「制作」となる。
資金調達や宣伝などのプロデュースは、作品が商品(物)として流通するために行われる行為で、作られた芸術作品も商品(物)にあたるので「製作」となる。
整理と整頓は、乱れたものを整えるという共通した意味をもち、ひとまとめに「整理整頓」と使われることが多いが、「整頓整理」とは言わない。
散らかったものを整える時の順序も、整理の後に整頓した方が良いことが、意味の違いからわかる。
整理は、乱れた状態にあるものを整えること、不要なものを取り除くことを意味する。
整理の「理」は、道理や理論などに使われる字で、「物事の筋道」という意味があり、筋道に沿うよう整えるのが「整理」である。
整頓も、整った状態にする、かたづけることを意味するが、整理のように不要なものを取り除くという意味はない。
整頓の「頓」も「整える」という意味で、とにかく整えること、正しい位置にきちんと置くのが「整頓」である。
無駄なものを捨てる「整理」をした後、正しい位置に置く「整頓」をするので、「整理整頓」の順となる。
交通整理の「整理」は、不要なものを捨てるという意味ではないが、混乱したものを整えることを表す。
人や車が秩序を持って行き交えるよう整えるため「交通整理」と言うのであり、秩序正しい位置に置くものではないため「交通整頓」とは言わないのである。
「机の上を…する」という際は、整理も整頓も使うが、整え方に違いがある。
「机の上を整理する」は、不要な物を捨て、使いやすいよう規則を考えて整えること。
「机の上を整頓する」は、配置の規則を決め、その配置規則に沿って整えることを意味する。
整理された机の上は、机の上を使いやすいように整えたものなので、必ずしも整頓された状態とは限らず、他人の目からは散らかっているように映ることもある。
また、整頓された机の上は、綺麗に配置されているが、使いやすいよう整えられているとは限らない。
整理整頓された状態であれば、使いやすく綺麗に配置された状態を表すことになる。
同居とは、同じ家に住むこと。
親族や恋人関係に限らず使う言葉だが、友達同士や他人同士が同じ家に住む場合は、「ルームシェア」と言って使い分けることもある。
同棲は同居と同じ意味で、同じ家に住むことを広く意味した言葉だが、現在では、主に婚姻関係にない男女が一緒に暮らすことをいう。
内縁は、事実上は夫婦関係にありながら、婚姻届を出していない男女の関係のこと。
一緒に暮らすことではなく、二人の関係を表す言葉である。
内縁関係と認められれば、法律上は、同居、協力、扶助義務、婚姻費用分担義務、日常家事債務の連帯責任、財産分与、貞操義務など、婚姻関係にある夫婦とほぼ同じ権利・義務がある。
ただし、氏の変更や、子の嫡出性の推定、配偶者としての相続権などは、内縁関係だけでは認められない。
また、婚姻関係にあれば、未成年であっても成年者として扱われる「成年擬制」があるが、内縁関係の場合は成年擬制の効果は生じない。
3年以上同棲(同居)をしていたら内縁関係が成立するといわれるが、3年はひとつの目安に過ぎない。
内縁関係が成立する要件は、当事者に婚姻の意思が認められることと、共同生活をしていることの2点。
3年以上同棲を続けていても、結婚する気がなければ内縁関係とは認められず、同棲期間が3年未満でも、当事者同士に婚姻の意志があり、第三者からも夫婦同然として扱われていれば、内縁関係と認められる。
単なる同棲や同居ではなく、内縁関係にあることを証明する方法としては、親族・友人・同僚などの証言があるが、一方が口裏を合わせていれば証明が難しい。
証明しやすい証拠としては、マンションの賃貸借契約書や住民票などの記載で、一緒に生活をしていることを残す方法である。
マンションの契約書であれば、「配偶者」や「内縁の妻」と記載すること。
住民票であれば、同一世帯として「同居人」と表記してもよいが、「妻(見届)」「夫(見届)」と表記すれば、更に認められやすくなる。
その他、結婚式を挙げるなど、誰の目から見ても夫婦同然といえる事実があれば、内縁関係にあるといえる。
冒険の「険」は、「けわしい」という意味。
冒険は、危険をおかすことや、危険を承知で行うこと、成功の確かでないことをあえてやってみることを意味する。
探検の「検」は、「調べる」という意味。
探検は、未知の地域などに入り、探り調べることで、未知の世界というのは危険が予想されることから、危険を冒して実地を探るという意味でも使う。
探検が「危険を冒す」の意味も含んで使うことから、「検」を「険」に置き換えたのが「探険」であるが、危険の有無など、微妙な意味の違いによって「探検」と「探険」が使い分けされることはなく、普通は「探検」と書く。
なお、危険を冒すことは調べることには繋がらないため、「冒険」を「冒検」と書くのは間違いである。
戦略も戦術も、軍事用語として使われていたものが、政治やビジネスなどでも使われるようになった言葉である。
軍事用語としては、戦略が、戦いに勝つために兵力を総合的・効果的に運用する方法で、大局的・長期的な視点で策定する計画手段。
戦術は、戦いに勝つための戦地で兵士の動かし方など、実行上の方策のことをいう。
現代では上記の意味から、戦略が、組織などが運営していくための将来を見通した方策や、目標を達成するためのシナリオ。
戦術は、目標を達成するための具体的な手段、実践的な計画といった意味で使われる。
つまり、目標を達成するための総合的・長期的な計画手段が戦略で、その戦略を行うための具体的・実践的な計画手段が戦術である。
恋は自分本位で、愛は相手本位。
恋は一時的で、愛は永遠。
恋はときめきで、愛は信頼。
恋は心配で、愛は安心。
恋愛とは言っても、愛恋とは言わないように、恋は先にあり愛へと変わる。
などなど、恋と愛の違いを挙げたら数え切れないほどあり、文学や哲学、芸術などのテーマにもされるものだが、どれも人それぞれの考えであって明確な定義ではない。
恋愛に長けていない人が「恋と愛の違いは」などと語り、どちらにも当てはまることまで違いとして挙げられることもあるが、多くの意見に共通するのは、恋よりも愛の方が深い情を表すということである。
このような違いが生じた理由は、言葉の歴史から見えてくる。
愛は中国から仏教用語として入った言葉で、元々は「強い欲望」を意味するが、日本では「おもひ(思い)」に相当する言葉としても用いられた。
明治時代には、英語の「love(ラブ)」やフランス語の「amour(アムール)」の概念に当てはめられ、現代ではこの意味が強くなった。
また、キリスト教でいう愛は、神が自らを犠牲にして人類を慈しみ、幸福を与えることである。
このようなことから、家族愛や人類愛、動物や自然に対する愛など、愛という言葉は対象が広く、恋よりも大きく包み込んだり、深いものという印象を持たれるようになった。
恋は古くからある和語で、愛が日本に入る以前は、恋が「おもひ」に当たる言葉であった。
ただし、恋が意味した「おもひ」は、植物や季節などに寄せる思いも表したが、主に、男女間の情の交わりをいうものであった。
昔から現代まで、恋は、異性に強く惹かれること、男女間の思慕の情のみを表すことが多く、慈しみや与えるものといった意味で使わないため、男女間の恋愛においても、恋は愛に比べて深くないものという印象になったのである。
知識は、ある物事について知っていること。また、その内容。
学習や実験から得られた、誰もが事実として共有できるデータの集合体である。
知恵は、物事の道理を判断し、適切に処理する能力。
知識や経験を、必要な場面に応じて活用できる力で、知識よりも価値が高いものといわれることもあるが、知識のない知恵は役に立たず、多くの情報から必要な知識を得るには、取捨選択する知恵が必要になるため、どちらに価値があるというものではない。
見識は、物事の本質を深く見通す、すぐれた判断力。ある物事に対する確かな考えや意見、見方のこと。
知恵が知識などの情報を選んで判断するものとすれば、見識は知識などの情報の中から本質を捉えて判断することで、機転を利かせた判断には知恵が必要であり、人々を納得させるような判断をするには見識が必要である。
避ける」には、「さける」と「よける」の読み方がある。
「さける」も「よける」も、好ましくない対象と関わったり接触したりしないよう離れて位置することをいう。
両語とも使える場合もあるが、一方しか使えない場合もある。
離れよう、差し控えようという、意識の部分に重点が置かれる場合や、対象物が抽象的な場合は、「さける」を用いる。
「彼は私をさけている」「人目をさけて暮らす」「渋滞をさける」などは、「よける」に置き換えることはできない。
身をかわす、脇へ寄るなど、対象物との物理的な接触を回避するための動作に重点が置かれる場合は、「よける」を用いる。
「刀をよける」「落石をよける」などは、「さける」に置き換えることはできない。
さけるは「意識」、よけるは「動作」に重点が置かれるため、「車をさける(よける)」「水たまりをさける(よける)」のように、対象物が具体的で両方の語が使える場面でも、ニュアンスには違いが出てくる。
「車をさける」といった場合は、対象物(止まっている車など)の存在をあらかじめ知っていて、接触しないようにしている印象が強い。
「車をよける」といった場合は、対象物(走ってくる車など)を瞬間的に判断して接触を回避している姿や、脇へ寄ったり身をかわすなどの動作を表している印象が強くなる。
よけるには「別にしておく」「除外する」という意味もあり、この場合は「除ける」と書くのが一般的である。
さけるにはこの意味がないため、「嫌いな食べ物を皿の隅へよける」や「不良品をよける」を、「さける」に置き換えることはできない。
「不良品をさける」という表現が使われない訳ではないが、その場合は「別にしておく」「除外する」という意味ではなく、「回避する」という意味になる。
怪しい・疑わしい・訝しい(いぶかしい)・いかがわしいは、正体がよくわからず何か変だと感じるようすを表すが、その感情にも違いがある。
怪しいの本来の意味は、不思議な力があるもの、神秘的なものに対して感じる、不可解な気持ちである。
「怪しい物音」「雲行きが怪しい」など、その原因・正体・真相が不明であるため警戒心を抱く場合に、怪しいが用いられる。
疑わしいは、真実かどうかわからないもの、不確かであること、不審であることに対する気持ちを表す。
AかBか確かでないという、疑いの気持ちを表すだけで、怪しいのように神秘的なもの対する不可解な気持ちや、「好ましくない」「避けたい」といった感情は含んでいない。
訝しいは、物事の状況が不明で気にかかるさまを表す。
「なぜだろう」「知りたい」といった感情が強くある場合は、訝しいが用いられる。
いかがわしいは、正体がはっきりせず疑わしい、怪しいといった感情を表すが、特に、「信用できない」といった感情を強く表す際に用いられる。
また、風紀上好ましくない、道徳的によくないさまにも、いかがわしいは用いられる。
煩わしい・面倒・厄介は、手間がかかったり神経を使ったりして、気が重くなる様子を意味する点では共通し、「煩わしい手続き」「面倒な手続き」「厄介な手続き」のように、複雑さを伴い、客観的な面が強い場合には、いずれの語も使える。
「話をするのも煩わしい」や「話をするのも面倒」とは言うが、「話をするのも厄介」とは言わないように、厄介は嫌だと感じる対象が複雑さを伴わず、主観的な面が強い場合には使われない。
複雑さを伴わず主観的であっても、「疲れていて面倒」のように、手間がかかるように感じ、出来ればしたくないという場合には「面倒」が多く使われる。
嫌だと感じる人間関係ついて表す際は、煩わしい・面倒・厄介のいずれも使うが、「煩わしい人間関係」と言った場合、嫌と感じる事柄や、対象となる人物が明確ではなく、人間関係という漠然としたものに対して使われる。
「面倒な(面倒くさい)人間関係」と言った場合は、人間関係で嫌と感じる事柄がはっきりしていたり、特定の人物についての人間関係に対して使われる。
「厄介な人間関係」と言った場合は、嫌と感じる事柄も対象となる人物も、はっきりとした人間関係に使われる。
留意も注意も用心も、気をつけることを意味するが、使える場面と使えない場面、ニュアンス、気をつける程度などに違いがある。
留意は、心に留めておくという意味で、気をつける程度が弱く、悪い事態にならないように「警戒する」といった意味では使われない。
「服装に留意する」「健康に留意する」など、気をつける対象の物事が抽象的な場合や、ある程度の時間継続する場合に使われることが多い。
「細心の注意を払う」というように、注意は、対象となる物事に対して神経を集中させ、事に当たるという意味で、留意に比べて気をつける程度が強い表現となる。
「警戒する」の意味でも使われ、「足下に注意する」「子供の飛び出し注意」など、瞬間的・具体的なことに対しては注意が使われる。
相手に向かって気をつけるように「忠告する」という意味でも使われる。
用心は、悪いこと困ったことにならないよう、注意・警戒すること。
注意よりも使用範囲は狭く、「火の用心」や「空き巣にご用心」など、万一に備えてあらかじめ気をつける場合に使い、警戒しなければならいない事柄が瞬間的な場合には使われない。
帰省は、お盆や年末年始などの休暇を利用し、一時的に故郷へ帰る意味で使われることが多い。
帰省の「省」の字には、「親の安否をよく確かめてみる」という意味があり、帰省の本来の意味は、故郷に帰って両親の安否を問うことである。
そのため、故郷へ帰って住むのではなく、多くは、短期間の場合に「帰省」が用いられる。
帰郷は、故郷へ帰ること全般を表す言葉で、一時的に故郷へ帰る意味でも使われた。
現在では、帰省と同じ意味で使われることは少なく、故郷に帰って安住する場合に「帰郷」が多く用いられる。
里帰りは、婚礼後の3日後か5日後に、初めて新婦が実家に帰ることを意味したが、現在では、結婚している女性が実家へ帰ることをいう。
基本的に、男性が実家に帰ることを「里帰り」とは言わないが、外国へ移住した人が故国に帰る際には、性別や婚姻の有無に関係なく「里帰り」が使われる。
また、人に限らず、一時的に海外へ持ち出されていた美術品などが戻ってくる際にも、「里帰り」は用いられる。
昔は、奉公人が実家に帰る場合にも「里帰り」と言ったが、今は奉公人自体がいないため、この意味で使われることはない。
可愛い」と「可愛らしい」は、顔や声、物などに対して、愛すべきである、大事にしたいといった感情を表し、ほぼ同じ意味の言葉であるが、両方とも使える場合と一方しか使えない場合がある。
「可愛い」と「可愛らしい」の両方が使える場合でも、表す感情は微妙に異なる。
可愛らしいの「らしい」は、「…と感じさせられる」「…のように見える」という意味があり、可愛らしいは「可愛いく見える」の意味で使われる。
「可愛い女の子」と言った場合は、容姿・外見に心がひかれる感情を表し、「可愛らしい女の子」と言った場合は、性格なども含めた全体的な雰囲気に対して心がひかれる感情を表す。
主観的な感情を表す場合は「可愛らしい」が使えず、客観的な属性を表す場合は「可愛い」も「可愛らしい」も使える。
「私は息子が可愛い」のように特定の誰かにとって感じられる主観的な感情を表す場合は、「可愛らしい」に置き換えることができず、「私は息子が可愛らしい」という表現は成立しない。
「私の息子は可愛い」と言った場合は、私の息子は「可愛い」という枠に属しているという客観的な属性であるため、「可愛らしい」という属性に置き換え、「私の息子は可愛らしい」と表現することができる。
平和と和平の意味は似ているが、使い分けは明確で、平和は、戦争や紛争・災害などがなく、世の中や暮らしが穏やかな状態にあること。
和平は、争っていた国同士が仲直りするなど、平和な状態になること。
つまり、おだやかな「状態」を表すのが「平和」、平和な状態になるという「状態の変化」を表すのが「和平」である。
そのため、「平和を維持する」とは言うが、「和平を維持する」とは言わない。
「平和主義」とは言うが、「和平主義」とは言わない。
「和平交渉」とは言うが、「平和交渉」とは言わない。
「平和会議」と「和平会議」は共に使われる言葉だが、「平和会議」は平和を議題とした会議のこと、「和平会議」は争いの解決に向けた会議のことで意味が異なる。
また、「平和な家庭を築く」「平和な国づくり」など、平和は形容動詞の連体形「~な」の形を作れるが、和平は状態の変化を表すため、「和平な家庭」や「和平な国」という表現はできない。
事実は、本当にあった事柄、現実に存在する事柄。
真実は、嘘偽りのないこと、本当のことを意味する。
意味は似ているが、事実はひとつで、真実は複数あると言われるように、事実と真実は異なり、一致しないことの方が多いくらいである。
上の写真から言える事実は、男性が女性の足を触っていることだけで、これが恋人同士の行為なのか、セクハラ行為なのかといった事まではわからない。
性別も見る側の勝手な想像であるため、厳密に言えば「男性らしき人が女性らしき人の足を触っている」というのが事実となる。
しかし、「歴史的事実」と言われることでも、本当にあったこととは限らないように、多くの人が事実と信じているものは事実となるため、「男性が女性の……」でも事実といえる。
つまり、事実は「実際にあった」と多くの人が認められる事柄、客観的に認められる事柄のことである。
足を触っているのが男性として、それは恋人に対する行為なのか、セクハラ行為なのかといった真実は、男性の心の中にあるものである。
男性の真実としては、恋人とのスキンシップであったとしても、女性からすれば付き合った覚えもなく、セクハラをされたと思っていれば、女性の真実としてはセクハラ行為となる。
つまり、真実は人それぞれが考える本当のこと(事実)で、客観的なものではなく、主観的なものである。
問題と課題の違いは、「解答を求める問い」か「課する(課せられる)テーマ」かの違い。
試験問題や数学の問題などは、解答を求める問いであるが、課題図書やレポートの課題は、課せられたテーマである。
先生から生徒に答えを求めるのは、「問題」である。
授業中に解答が出せず、翌日の授業に持ち越された場合、「この問題は明日までの課題にしよう」などという。
これは、「問題」が「課題」に変わったのではなく、問いそのものは「問題」のままで、「明日までに答えを出しましょう」と課せられた問題(テーマ)という意味で「課題」というのである。
少子化・高齢化・地球温暖化・格差など、社会や経済で使われる「問題」と「課題」の違いは、解決すべき事柄か、問題解決のために取り組むべき事柄として掲げられるものの違いである。
ここでの問題(解決すべき事柄)は、トラブルに限らず、目標に達していないなど、あるべき姿と現状とのギャップをいう。
たとえば、会社の売上が減っていれば、会社として解決しなければならない事柄なので「問題」である。
売上減少の原因が、質の低下による客離れであったとすれば、質の改善をしていくことが「課題」となる。
質を改善するためには、「コスト」という新たな「問題」も出てくる。
この場合は、売上減少が「問題」、その対策として取り組む質の改善が「課題」、質の改善という課題の中にコストという「問題」があり、コスト問題の対策として取り組むコスト削減が「課題」である。
常に「問題」が先にあり、その問題に対して取り組んでいこうと掲げられることが「課題」となる。
Q&Aは「question and answer」の略で、「質問と回答」「一問一答」の意味。
企業のWEBサイトなどでは、実際の質問に対する回答を載せていることもあるが、多くの場合は、尋ねられそうな質問を想定し載せている。
FAQは「frequently asked questions」の略で、「頻繁に尋ねられる質問」「よくある質問」の意味。
質問のみではなく、質問に対する回答も含まれる。
Q&Aの中から、よくある質問を厳選して、まとめたものがFAQであり、Q&Aの一種である。
Q&Aと同様に、企業のWEBサイトなどでは、頻繁に尋ねられそうな質問を想定し、よくある質問として載せているケースが多い。
「FAQ(よくある質問)」「Q&A(一問一答)」が本来の形だが、「よくある質問(Q&A)」や「FAQ(一問一答)」としているサイトも多く存在する。
一見、間違いのように思えるが、カッコ内に訳が入るとは限らず、前の言葉を補う目的でも使用される。
そのため、「よくある質問(Q&A)」も「FAQ(一問一答)」も、よくある質問を一問一答形式で掲載していると解釈できる。
全ての質問と回答を載せることは難しいため、「Q&A」や「一問一答」とだけ記載されていても、実際は、よくある質問を一問一答形式で載せていることがほとんどである。
コンサートやスポーツ大会、美術展、学会などのイベントのポスターなどに明記されている、主催・協賛・協力・後援。
主催以外の協賛・協力・後援に明確な定義はないが、多くの場合、援助の仕方によって使い分けられている。
主催は、イベント開催の中心となって企画・運営を行う人物や団体・機関のことで、協賛・協力・後援などの援助者とは大きく異なる。
主催が複数になる場合は、共催や共同主催という。
また、主催に運営を委託され管理を行う者は、主管と呼ばれる。
主催はイベントの中心となることから、事故の発生時などにはその責任が問われる。
協賛は、催し物の趣旨に賛同し、協力することで、興行においての協賛は、いわゆるスポンサーのことをいう。
金銭的援助を中心に、人的・物的・サービス等の提供も行われる。
協賛の中でも、ほとんどの費用を拠出する者は「特別協賛」と呼ばれ、企業名や商品名などを冠した冠イベントとなることもある。
協力は、目的に向けて力を合わせること。
興行においての協力は、資金の拠出をすることもあるが、あってもそれほど多額ではなく、資金面よりも、物品や場所の提供など、イベントを進行する上で特定の役割を受け持つ。
協賛と同じく、中でも一番の協力者を「特別協力」と呼ぶことがある。
後援は、物事が円滑に進むよう、後ろ盾となる個人や団体のこと。
興行においての後援は、公共機関や新聞社など、公共性の高い団体が主で、そのイベントに箔を付けたり、社会的信用を得るための単なる名義貸しである。
金銭的な援助をすることは少なく、公的資金を援助している場合は「助成」とされる。
報道機関が後援の場合は、広報活動の援助も行われる。
協賛や協力と同じく、中でも一番援助を行う者を「特別後援」と呼ぶことがある。
朝令暮改は、朝出した命令が夕方には改められるという意味で、命令や法律・方針が一貫せず、頻繁に変更されること。
朝三暮四は、中国の春秋時代、猿を飼っていた狙公が貧しくなり、餌代を節約するため、猿に「朝に3つ、夕方に4つトチの実をやる」と言ったところ、猿たちが起こったので、「それなら、朝に4つ、夕方に3つやる」と言ったら、猿たちは大喜びして承諾したという故事から、目先の利にとらわれ、実際は結果が同じであることに気づかないことや、言葉巧みに人を騙すことをいう。
国会で鳩山由紀夫元首相が、朝三暮四を朝令暮改の意味と間違え、「あっさり物事を変えてしまうこと」と説明して話題になったことがあるように、方針などが一貫せずにコロコロ変わるという意味として「朝三暮四」を使うのは誤りで、「朝令暮改」というのが正しい。
ただし、これは日本語として使った場合の話。
現代の中国では、猿の反応によって餌の与え方を変えた狙公のように、すぐに方針を変えてしまうという解釈があり、朝三暮四が朝令暮改と似た意味でも使われている。
コスプレは、コスチュームプレイを略した和製英語で、漫画・アニメ・ゲームのキャラクターや、ビジュアル系バンドのメンバーなどの衣装や髪型を真似てなりきること。
近年は、扮してなりきるという意味が拡大し、メイドや学生、警察官などの制服、更に、動物の着ぐるみなどもコスプレ衣装に含まれるようになっているが、本来は、特定のキャラクターや人物に扮することであり、仮装・変装・扮装とは異なる。
コスプレは和製英語ではあるが、英語で「cosplay」と表記し、世界で通用する言葉になっている。
仮装は、普段の服装とは異なる服装をすること。
仮装の対象には、特定のキャラクター・人物に限らず、動物や制服、更に、ボウリングのピンや缶などの物も含まれる。
ハロウィン・仮装パーティー・仮面舞踏会・仮装行列・宴会の余興など、集団的に行う際に多く使われる言葉である。
偽装(擬装)の同義語で、仮装売買など実際の出来事とは異なるように見せかける意味や、仮装空母など相手を欺くために、ある物に見せかけるという意味でも用いられる。
変装は、別人に見せかけるために、風貌や服装を変えること。
余興向けの変装グッズなども売られているが、本来は、正体が他人にばれないよう隠すための行為で、指名手配の犯人やスパイ、尾行する刑事が姿を変えること表す場合に多く用いられる。
変装は他人に見られるためにするものではないため、コスプレのように派手な衣装ではなく、帽子・カツラ(ウイッグ)・眼鏡(サングラス)・化粧(付けヒゲ・付けボクロ)・マスク・制服などが使われる。
扮装は、衣装や顔かたちを装うこと。
一般には仮装と同じ意味で、ある人物などに似た格好をすることをいうが、特に、俳優がその役柄らしく装う意味で用いられる言葉であるため、服装を変えることよりも、演じることが中心にある。
変装と同じく、他人を欺くために姿を変えることをいう際にも、扮装は用いられる。
大漁も豊漁も、魚が大量に捕れることを意味するが、どの時点での漁獲量かによって使い分けがある。
大漁は、一回の漁で魚がたくさん捕れること。
「今日は大漁だ」や「今年一番の大漁だ」とは言うが、「今日は豊漁だ」や「今年一番の豊漁だ」とは言わない。
豊漁は、シーズンや特定の期間中に魚がたくさん捕れること。
「今年は豊漁だ」とは言うが、「今年は大漁だ」とは言わない。
ただし、年に一度の釣りイベントなどの場合、年と一回の漁が同じであり、一年間に捕れた量の合計ではないため、「今年は大漁だ」と言うのが正しい。
修正と訂正は、共に改め直すことを意味するが、使える範囲や印象に違いがある。
修正は、間違いや不十分と思われる箇所を改め直すことで、直す対象に必ずしも間違いがあるとは限らない。
訂正は、誤りを正しく直すことで、対象に必ず間違いがある。
自分が誤っていた場合は、「修正いたします」と言っても「訂正いたします」と言っても、意味は同じである。
相手が誤っていた場合も、「修正してください」「訂正してください」のどちらを使っても、意味は同じである。
しかし、訂正は誤りがあることが前提の言葉であるため、自分が誤っていた場合は、「修正いたします」よりも「訂正いたします」と言ったほうが、誤りを素直に認めている印象を与え、謝罪の意思も感じられる表現となる。
相手が誤っていた場合は、「修正してください」よりも「訂正してください」と言ったほうが、「間違っているから直しなさい」という上から目線の印象を与える表現となる。
また、「軌道修正」とは言うが「軌道訂正」とは言わないように、修正は文章や誤字のほか、意見・考え・方向などを直すことにも用いられるが、訂正は特に文章・誤字・発言などの誤りを正しくすることに用いられる言葉である。
参加」「参画」「加入」「加盟」「仲間入り」は、いずれも、ある集まりに加わることをいう。
一員として加わる意味で幅広く使われるのが「参加」で、加わることのくだけた表現が「仲間入り」。
「参画」「加入」「加盟」は、「参加」や「仲間入り」に比べて表現の幅が狭くなる。
「参画」は、事業や政策などの計画に加わることで、ただ仲間に加わるだけではなく、計画段階から関わる場合に用いる。
「参加」との違いは、既にあるものに加わる「参加」と、計画段階から関わる「参画」といわれることもある。
しかし、「参画」が計画段階からというのは正しいが、「計画立案に参加する」という言い回しもされるように、「参加」は既にあるものに限った表現ではない。
「参加」に比べ、団体や組織などへ入ることを強く意識された表現となるのが「加入」と「加盟」で、何らかの義務を負ったり、恩恵を受けたりする場合に用いる。
「参加」「参画」「加入」「仲間入り」は、加わる対象が一個人でも団体でも用いられるが、「加盟」は団体や国が加わる場合にのみ用い、一個人が加わる場合には用いられない。
コラムとは、新聞や雑誌などの短評欄。また、囲み記事のこと。
コラムは「円柱」を意味するラテン語に由来し、円柱状のものや縦の列(カラム)を意味するようになり、新聞などの「縦の欄」の意味も持つようになった。
更に、そこに書かれる記事も意味するようになり、コラムは短い評論の意味でも使われるようになった。
エッセイ(エッセー)とは、自由な形式で書かれた散文。随筆。随想のこと。
エッセイは「試み」を意味するフランス語に由来し、モンテーニュが「判断力の試み」として書いた散文形式の文学「エセー(Les Essais)」から、日本でいう「随筆」や「随想」の意味となったものである。
エッセイとコラムは、結果として内容的に同じになることはあるが、基本的な違いとして、コラムは新聞や雑誌などの特定部分に発表されることを前提に書かれており、多くの人が知っていることをテーマに、分析したり、個人的な感想を述べたりした文章。
エッセイは、発表する場が決まっているとは限らないもので、体験や見聞、日ごろ感じていることなどを自由な形式で書き記した文章である。
手紙を書く際、冒頭の挨拶として「拝啓」「謹啓」「前略」などの頭語を用い、頭語に対応した「敬具」「敬白」「草々」などの結語を用いて締めの言葉とする。
最も一般的な頭語は「拝啓」で、「つつしんで申し上げます」という意味。
「拝啓」に対応する結語は、「敬具」である。
その他、一般的の手紙に用いる頭語には「拝呈」「啓上」「啓白」、結語には「拝具」「敬白」がある。
「謹啓」も「つつしんで申し上げます」の意味であるが、「拝啓」よりも敬意が高く、目上の人に送る丁寧な手紙、改まった手紙に用いる。
「謹啓」に対応する結語は、「謹言」「謹白」「敬白」である。
その他、丁寧な手紙に用いる頭語には「謹呈」「粛啓」「謹白」、結語には「粛言」「頓首」がある。
「前略」は「拝啓」や「謹啓」と使い方が異なり、前文を省略する場合に用いる頭語である。
そのため、目上の人に送る際に「前略」使うのは失礼にあたる。
また、「前略」と書いた後に、時候の挨拶などの前文が続くのは不自然である。
「前略」に対応する結語は「草々(早々・匆々)」で、十分に意を尽くしていないことを表す。
その他、前文を省略した手紙に用いる頭語には「冠省」「略啓」、結語には「不一」「不二」「不備」「不尽」がある。
「拝啓」「謹啓」「前略」などの他に、返信や緊急、再信の手紙に使う頭語もある。
一般的な返信では、頭語に「拝復」「復啓」「敬復」、結語に「敬具」「拝答」「敬答」。
丁寧な返信では、頭語に「謹復」、結語に「謹言」 「謹答」。
急ぎの手紙では、頭語に「急啓」「急呈」「急白」、結語に「草々(早々・匆々)」「不一」「不尽」「敬具」。
相手の返事が届かないうちに出す再信の手紙では、頭語に「再啓」「再呈」「追啓」、結語に「敬具」「拝具」「再拝」などを用いる。
また、女性が用いる結語には、「かしこ」「あらあらかしこ」「めでたくかしこ」「あなかしこ」などがある。
積極的は、物事を進んでしようとするさま。
自分から進んで行う場合にも、他からの働きかけに賛同して行動する場合にも、他へ働きかける場合にも用い、使われる場面によって「自発的」や「能動的」の意味も表す。
積極的の対義語は「消極的」で、自ら進んで物事をしないさまや、引っ込みがちなさまをいう。
自発的は、他からの働きかけがなくても、自分から進んで行うさま。
積極的に比べ、自分から進んで行う意味合いが強くなる。
自発的に対義語らしい対義語はなく、「他発的」という言葉もない。
「強制的」が挙げられることもあるが、「強制」の対義語は「任意」であり、自発的の対義語として適当とは言いがたい。
能動的は、自分から他へ働きかけるさま。
自分から進んでという点では「自発的」と同じだが、他への働きかけがあるのが「能動的」である。
能動的の対義語は「受動的」で、自ら進んで行うのではなく、他からの働きかけによって行動するさまをいう。
幻覚は、対象となるものが実際はないのに、あるように知覚すること。
多くの場合、「幻覚が見える」などと、実際にないものが見える「幻視」のことをいうが、幻覚は視覚によるものだけでなく、感覚器官に感じる全てに対応する幻覚があり、「幻聴」「幻視」「幻触」「幻臭(幻嗅)」「幻味」「体感幻覚」などに分けられる。
幻覚は、麻薬やアルコール、精神障害などが原因となって起こるが、正常であっても、夜間に高速道路を運転し続けるなど、感覚刺激を遮断した状態が続いた場合には、幻覚が起こることもある。
錯覚は、対象となるものに対し、客観的事実と違った知覚をすること。
多くの場合、形・大きさ・長さ・色・方向などが違った見え方をする「錯視」、いわゆる「目の錯覚」をいうが、幻視が幻覚の一種であるように、錯覚にも「錯聴」「錯視」「錯触」などの種類がある。
また、錯覚は思い違いや勘違いの意味でも用いる。
誤認は、違うものをそうだと思って認めることや、見間違えること。
真犯人でない人を誤って逮捕する「誤認逮捕」や、見ず知らずの人に声を掛けた理由が、知人と似ていたからという場合が「誤認」である。
幻覚と錯覚と誤認の違いは、感覚器官が正常であるか否か、知覚する対象の有無、得た情報の整理で分けられる。
幻覚は、感覚器官に異常があり、知覚する対象が実在しない場合に起こるもの。
錯覚は、感覚器官が正常であるにも関わらず、実際とは異なる情報として感覚を得るもの。
誤認は、感覚器官も正常で、得た情報も確かであるが、思い込みや勘違いによって、得た情報の整理が不十分となり起こるものである。
苦情は「苦しい事情」と書くように、元々は「難儀な事情」を意味した言葉。
転じて、害を受けていることに対する不平不満の気持ち。また、その気持ちを相手に伝えることや、その言葉をいう。
対象となる事象が、本来あるべき姿と異なることを伝えるというよりは、その事象に対して腹が立つ感情を伝えることを表す。
クレーム(claim)は「苦情」の意味で使うこともあるが、苦情には「complaint」が相当する。
本来は、商取引で違約があった場合、相手に対して損害賠償請求を行うことで、苦情は不平不満の感情を表す部分が強いが、クレームは権利を主張すること、損害に対する請求の意味が強い。
企業に対して、不当・理不尽な強迫要求する消費者を「モンスタークレーマー」と呼ぶため、言いがかりの意味で使われることもあるが、クレームは正当な権利があり請求するものである。
文句は、相手や物事が気に入らずに何かを言うこと。
苦情は害を受けていることに対する感情を伝えることだが、文句は言いがかりや難癖をつける意味に近く、単なる不平不満の意味でも用いる。
抗議は、相手の行為・発言・決定などに対して、反対の意見を主張し、善処を求めること。
苦情や文句のように不満の感情を表したり、クレームのように損害に対して請求するのではなく、抗議は不当である旨を表明することである。
「抗議集会」や「政府に抗議する」とは言うが、「苦情集会」や「政府にクレームする」などと言わないように、社会に訴えるような場合に「苦情」「クレーム」「文句」は使わない。
発見は、今まで世の中に知られていなかったものを見つけ出すこと。
発明は、今まで世の中になかったものを新たに作り出したり、考え出したりすることである。
特許法では、発見者ではなく、発明者に特許を受ける権利があり、発明の定義は「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」としている。
自然科学や数学の法則は、それまで知られていなかっただけで、自然界には元々存在していたものなので「発見」になる。
発明は、新たに発見された理論や、既に知られている事実を元に工夫したり、改善することで作り出されるものということである。
現代では意味が異なる「発見」と「発明」だが、明治初期までは「発見」という言葉が一般化しておらず、「発見」と「発明」は同義語として用いられていた。
福沢諭吉の『世界国尽』では、「コロンブスがアメリカ大陸を発見する以前」の意味で「古論武子が亜米利加を発明せし以前」と書かれている。
進呈・贈呈・謹呈・献上は、いずれも、人に物を差し上げることを意味する。
進呈と贈呈の使い分け方に、はっきりとしたルールはないが、強いて違いを挙げるとすれば、使われる場面である。
進呈は「粗品進呈」など、軽い気持ちでの受け渡し、形式ばっていない場面で使われ、贈呈は「感謝状の贈呈」など、晴れがましさを伴ったり、形式ばった場面で使われる。
このように、進呈と贈呈は使われやすい場面が異なるため、進呈は「つまらないもので恐縮です」という意味を含み、目下の人から目上の人にに対して使う言葉。
贈呈は「よく頑張ったことを表彰してあげる」という意味を含み、目上の人から目下の人、もしくは同格間で使う言葉といわれることもある。
しかし、結婚披露宴で新郎新婦から両親に贈る花束は、目下から目上であるが、「花束進呈」ではなく「花束贈呈」というように、関係の上下で使い分けられている訳ではない。
進呈も贈呈も、地位・階級・年齢の上下に関係なく、相手を敬って用いる言葉である。
謹呈は、「謹」の字が含まれている通り、つつしんで差し上げることを意味する。
相手に敬意を表すだけでなく、礼儀正しく、かしこまっているさまも表した言葉である。
献上は、自分より上位の相手に物品を差し上げること。
上位といっても、上司や親など身近な相手ではなく、天皇陛下や皇族などの皇室、総理大臣や大統領など、自分よりはるかに上位の相手に物品を差し上げる際に用いる。
以下の「以」は「~より」の意味で、以下は「~より下」を表す。
数学や法律では、基準となる数量を含んで下の範囲のことで、1万円以下は1万円を含んでそれより低い金額、平均以下は平均値を含んでそれより下の数値をいう。
未満は「いまだ満たず」の意味で、その数に達していないことを表す。
基準となる数量を含めず、それより少ない数のことで、18歳未満は18歳を含めず、それより下をいうため17歳以下をいう。
未満と対になる言葉は、以下の対義語の「以上」で、以下と同様に基準の数を含むため、18歳未満立入禁止であれば、18歳以上(18歳を含む)は立ち入りできることを表す。
以下と対になる言葉は決まっておらず、「より上」「を超えて」「超」などが使われる。
上記のような説明や、算数で習ったことが残っているため、以下と未満の違いは、含むのが「以下」、含まないのが「未満」と覚えていることも多いが、必ずしもそれが正しいとは言えない。
未満がその数を含めないことに変わりないが、以下の意味は「~より下」であり、「~を含んで下」という意味ではない。
「以下」の解説で「数学や法律では」と書いたように、数学や法律では正確に表すことが必要であるため、「基準を含む」と定義したもので、他の場面では基準を含まない「以下」も存在する。
「あいつの能力は小学生以下だ」といった場合、「小学生と同程度かそれより下の能力」という意味ではなく、「小学生ほどの能力もない」「小学生の能力にも達していない」という意味で使われている。
「以上」も同様で、「想像以上だった」といえば、「想像していたものを超えていた」という意味で、想像という基準を含んでいない表現である。
「以」を基準にする言葉には、他にも「以外」や「以内」、「以前」「以後」「以降」「以来」などがあり、これらの「以」も「~より」を表す。
「関係者以外立入禁止」で、関係者も含めて立入禁止になったら、誰も入れないことになるのである。
計ると測ると量るは、いずれも「はかる」と読み、「計測」「計量」「測量」という熟語もあるように、計器などを用いて数値を知ることを表すが、はかる対象によって使い分けられる。
計るは、「時間を計る」「タイミングを計る」「損失を計る」など、数や時間を数える際に使う。
「計」を使う熟語には、「時計」「計算」「会計」「累計」などがある。
測るは、「距離を測る」「身長を測る」「面積を測る」など、長さ・高さ・広さ・深さ・速さなどを調べる際に使う。
「測」を使う熟語には、「測定」「観測」「目測」などがある。
量るは、「体重を量る」「容積を量る」など、重さ・かさ・量などを調べる際に使う。「量」を使う熟語には、「重量」「容量」などがある。
次のような場合は、使い分けを間違えやすいため、注意が必要である。
「体温をはかる」の「はかる」は、「体温計」から考えると「計る」と書いてしまうが、「体温測定」という言葉もあるように「測る」を用いる。
温度・熱などは、高低を表すため「測る」である。
「100mのタイムをはかる」の「はかる」は、距離と時間から「スピード(速度)」を連想し、「測る」と書いてしまうこともあるが、この場合は、その距離を走るのにかかった「時間」をいうため、「タイムを計る」と書くのが正しい。
横とは、水平方向、左右の方向のこと。
位置関係を表した言葉で、縦や斜めではないことを表す。
「横に座る」といった場合、必ずしも近い距離とは限らず、左右の方向であれば何人隔てていても「横」である。
隣とは、並んだもののうち、最も近くにあるもの。
横並びで最も近くを意味することも多いが、「隣の町」や「隣の駅」というように、位置に関係なく、最も近いことを表す。
「隣の国」という場合は、距離も遠く、海を隔てることもあるが、「国」という括りでいえば最も近くにある。
つまり、同じ種類の中で最も近くにあるものが「隣」である。
そば(側・傍)とは、あまり間を置かないで近くのところ。
距離がさほど遠くにないことを表す言葉で、重点が置かれているのは距離である。
横のような位置や、隣のような同種のものが間に存在しないといったことは関係なく、縦でも間に入っているものがあっても、近くであれば「そば」である。
署名と記名とサインは、自分の氏名を書くという意味ではどれも同じだが、区別して用いる場合は、全く同じ意味ではなくなり、法的な証拠能力の高さも変わってくる。
署名とは、本人が自分の氏名を自筆で書くこと。また、その書き記したもののことで、法令では「自署」ともいう。
記名とは、氏名を書き記すこと。
書き記す方法は自筆である必要はなく、署名と区別していう場合は、本人に代わって他人が代筆したり、ゴム印を押したり、印刷したりして氏名を記すことをいう。
つまり、「署名欄」と書かれていれば必ず自筆で書く必要があり、「記名欄」と書かれていれば、自筆のほか、代筆・ゴム印・印刷などでも問題ないということである。
日本では印鑑に対する信用度が高いため、署名捺印が最も証拠能力が高く、次いで署名のみ、記名押印でも有効だが、記名のみでは認められない。
サインとは署名のことで、必ず自筆である。
クレジットカードの支払いなどの時に「ここにサインをお願いいたします」と言って署名を求めるように、日常会話の中では署名よりもサインの方が多く使われ、「署名をお願いいたします」と言うのは、署名活動の時や重要な契約時ぐらいである。
書類に署名する以外では、有名人がファンのために書くものや、符号・信号・合図といった意味でもサインは用いられるが、これらの意味で「署名」を用いることはない。
延期と順延と延長は、予定を先に延ばすことだが、延期は、期日や期限を先に延ばすこと。
順延は、予定していた期日を順繰りに延ばすこと。
延長は、予定の期間を延ばすことや延びることを意味する。
順延は期日を延ばすことなので、広義にいえば「延期」だが、予定を1日ずつ順にずらしていくのであれば「延期」よりも「順延」を使った方が、簡潔で分かりやすい。
例えば、6日7日8日のそれぞれに予定があり、6日の予定を順繰りに延ばす場合、「6日の予定を順延しました」といえば、6日の予定が7日、7日の予定が8日、8日の予定が9日に延期となったことが分かるのである。
順延以外の方法で予定を延期する場合、別の予定が入っている日に延期をすると、その予定も延期する必要が出てくるため、ふつう、「延期」という場合は予定の入っていない別の日にする。
延長は、その期間中の予定が中止になって別の日に変更するのではなく、「会期を延長する」というように、予定していた期間を延ばすことである。
期間を6日から8日までとしていた場合であれば、6日から8日は予定通り行い、更に9日以降も行うことを表す。
また、日数や時間に限らず、物や物事の続きという意味でも、延長は使われる。
延期や延長の類語には、「日延べ」という言葉もある。
日延べは、期日を先に延ばす「延期」と、期間を延ばす「延長」の両方の意味で使われる。
「延長」は延ばす期間が長くても短くても使うが、「日延べ」は比較的短い期間に使われる。
性格とは、人や犬・猫などの高等動物にみられる特有の感情や意思の傾向のこと。
また、事物にきわだってみられる特有な傾向の意味でも使われる。
性格は、主に人に対して使われる言葉だが、事物に対して使われる場合も、「性格が異なる問題」や「性格が異なる組織」など、人為的に生じた事柄。また、人為的に変わる可能性のある事柄が対象である。
性質とは、もって生まれた気質のこと。
事物に本来備わっている特色の意味でも使われる。
性質は、「水に溶けやすい性質」など人以外の物事にも多く使われる言葉で、その物事がもともと持っている特性をいう。
性格は、先天的にもっている資質と、環境などの後天的な要因が混じり合い形成されるものの意味が強いが、性質は、もともと備わっている特徴のことで、先天的なものの意味が強い。
性格は後天的な要因も含まれるため、今後変わる可能性もあるが、性質はもともと備わっているものなので、変わる可能性はない。
そのため、「性格が悪い」と「性質が悪い」といった場合、より批判的なのは「性質が悪い」の方である。
校正と校閲は、文章などの誤りを直し正すことだが、それぞれ作業のポイントとなる点は異なる。
校正とは、誤字や脱字など文字の誤りを正すこと。
また、印刷物の仮刷りと原稿を比べ合わせ、誤植や体裁の誤りを正すことをいう。
「謝りを正す」を「誤りを正す」に修正したり、「柿」を「姉」に修正する作業や、各媒体で決められた表記ルールに従っているかといったチェックを行うのが、校正の仕事である。
校閲とは、文書や原稿などを読み、内容の正誤や適否を確認する作業のこと。
内容の矛盾や表現の誤り、事実関係の誤りなど、原稿の内容に間違いがないか確かめるのが、校閲の仕事である。
体制と態勢と体勢と大勢は、いずれも「たいせい」と読めるが、まったくの同音異義語である。
体制とは、社会・政治・組織などの継続的な仕組み・構造・様式のことで、「経営体制」「社会体制」「資本主義体制」「新体制」などと使う。
また、「反体制運動」「ベルサイユ体制」など、権力を握っている側も意味する。
態勢とは、ある物事に対する身構えや態度のことで、「受け入れ態勢」「万全の態勢」「警備態勢」などと使う。
「24時間たいせい」や「5人たいせい」という時の「たいせい」は、場面によって使い分けられ、恒久的な仕組みとして行われるのであれば「24時間体制」「5人体制」と書き、緊急事態などに対する一時的な対応であれば「24時間態勢」「5人態勢」と書く。
つまり、長期的・継続的なことには「体制」、短期的・部分的なことには「態勢」を使うというのが、体制と態勢の使い分けのポイントである。
体勢とは、体全体の構えや姿勢のことで、「体勢を崩す」「不利な体勢」「着陸体勢」「射撃体勢」などと使う。
大勢とは、物事の成り行きや傾向のことで、「選挙の大勢が決まる」「大勢に影響はない」「世間の大勢に従う」などと使う。
大勢は「おおぜい」や「たいぜい」とも読むが、この場合は人数が多いことを表し、成り行きの意味では用いられない。
俳句と川柳は、共に五・七・五の十七音を定型とした短詩で、江戸時代に連歌から分岐し、娯楽性・遊戯性を高めた俳諧連歌から生まれたものである。
俳句と川柳の違いとして、季語、切れ字、文語・口語といった形式の違いが挙げられる。
俳句には季語が必要だが、川柳に季語は必要ない。
俳句には「や」「かな」「けり」などの切れ字が必要だが、川柳に切れ字は必要ない。
俳句は主に文語表現を用い、川柳は主に口語表現が用いられる。
ただし、上記は基本的な形式の違いで、俳句の中には定型や季題にとらわれず、切れ字や文語で表現しない自由律俳句・無季俳句もある。
俳句と川柳では内容も異なり、俳句は四季や自然の描写を通し、心象などを表現する。
川柳は世相や風俗、歴史、人事などを面白おかしく指摘したり、風刺的に描写するのが特徴である。
そのため、同じ情景から生まれた作品でも、表現される内容に違いが出てくる。
このような違いは、俳句と川柳の成り立ちの違いによるものである。
俳句は、俳諧の発句(第一句)が独立したものであるため、発句に必要な季語や切れ字が重要となる。
川柳は、俳諧連歌の付け句が独立したものである。
付け句は、下の句(七・七)をお題にし、それに合う気の利いた付け句(五・七・五)を考えるという遊びだが、下の句がなくても面白おかしく作れることに気づき生まれのが川柳であるため、社会風刺などが題材とされる。
本来の目的、特定の目的で使う際に用いる。
利用とは、物・システム・施設・設備などの持つ機能や特性を活かし、役に立つよう用いること。
また、便宜的に使うこと、方便に用いること。
「クーポンを使用する」といった場合は、単に「使う」という意味になるが、「クーポンを利用する」といった場合は、「安く済ませるために使う」「利益になるよう用いる」など、使うことで役に立つという意味が含まれる。
本来の目的や特定の目的で使う場合は「使用」、本来の目的以外で使う場合は「利用」を用いるという違いもある。
水を入れる容器にペットボトルを使うことは、本来の目的に沿った用途なので「使用」だが、使用したペットボトルを廃棄せずに鉢として使ったり、PET原料に戻して再びペットボトルを作ることは、本来の目的と異なる用途なので「利用」となる。
対象が人の場合、使用は「仕事をさせる」という意味なのに対し、利用は「都合の良いように人の力を使う」「だしに使う」という意味になる。
このように、使用と利用の違いは場面によっていくつかあるが、共通していえることは、使用は「使う」という意味が中心にあり、利用は「利益のために使う」ということである。
昨年」「去年」「前年」「旧年」は、いずれも今年の前の年を表す言葉だが、場面に応じた使い分けが必要である。
昨年は「去年」に比べて改まった表現であるため、目上の人との会話や、文章で表す際は「昨年」と書くことが多い。
去年は話し言葉として多く使われ、目上の人以外との会話や、友人とのメールなど会話に近い文章、文章中の日常会話を表現する時などに用いられる。
前年は「前年の売り上げ」「前年比〇〇%」など、比較する際に多く用いられる。
また、前年は基準となる年の前の年を表す言葉であり、必ずしも今年の前の年とは限らないところが、「昨年」「去年」「旧年」などと異なる点である。
「結婚した年の前年」といった場合、結婚した年が昨年(去年)であれば、基準となる年は昨年で、結婚した年の前年は一昨年(おととし)となる。
旧年は、新しい年を迎えた際に前の年を表す新年の季語である。
そのため、「旧年中はお世話になりました」と新年の挨拶に使われる。
「昨年」「去年」「前年」「旧年」は、反対語にも違いがある。
昨年に対し、今年の次の年は「明年」。
去年に対し、今年の次の年は「来年」。
前年の反対語は「翌年」で、基準となる年の次の年のこと。
旧年に対するのは「新年」で、新しく迎えた年、つまり今年が反対語となる。
許可は願いを許すこと、認可は認めて許可することで、意味として大きな違いはないが、行政が与える許可や認可では意味に大きな違いがある。
許可とは、法令で一般に禁止されている行為について、特定の条件の場合に行政庁がそれを解除し、適法にその行為を行えるようにすること。
風俗営業の許可や飲食店営業の許可、自動車運転免許の取得などがある。
認可とは、ある人が行う行為に対して、行政庁の同意を得なければ成立しない場合に、行政庁の同意によって法律上の効力を完成させること。
学校法人や保育園の設立、電気・ガスなどの料金や鉄道・バスなどの運賃を決定・変更する行為、銀行の合併などがそれにあたる。
許可は、得ていなければ禁止されている行為であるため、許可を得ていない場合は処罰の対象となる。
一方の認可は、禁止されている行為を許すものではないため、原則として処罰の対象とならないが、法律上の効力を完成させるものであるため、認可を受けずに行われた行為は無効になる。
押印」と「捺印」と「押捺」は、いずれも印判を押すことをいうが、意味に異なる部分があり、一般的な社会習慣としては微妙な使い分けもされている。
押印は、当用漢字の制定により、当用漢字外であった「捺印」に代わって用いられるようになった語で、印判を押すことを意味する。
捺印は、印判を押すことのほか、押した印影についてもいう。
押捺は、印判を押すことのほか、指紋を押すことについてもいう。
一般的に指紋を押すことは少ないため、押印や捺印ほど押捺は使われない。
「署名捺印」「記名押印」という組み合わせで用いられるように、一般的には、本人が自筆で氏名を書いたもの(署名)に印を押す際は「捺印」といい、本人の自筆ではなく、代筆やゴム印などで氏名を記したもの(記名)に印を押す際は「押印」ということが多い。
「署名」と「記名」には証拠能力の違いがあるが、「押印」と「捺印」は印を押すという行為に変わりないため、印を押してもらう際にどちらの言葉を使ったとしても、証拠能力に違いが出てくる訳ではない。
変わる」「代わる」「替わる」「換わる」の使い分け方は、熟語に置き換えて考えると分かりやすい。
変わる(変える)は、「色が変わる」「形が変わる」など、物事の状態や様子が、それまでと違った状態になること。
「住所が変わる」「風向きが変わる」など、他の場所・方向へ動く・移動するという意味や、「季節が変わる」「時代が変わる」など、年月が改まる意味も、今までと違った状態になることである。
「変」の字を使う熟語には、「変化」「変更」「変色」「変身」などがある。
代わる(代える)は、「ピッチャーが代わる」「石油に代わる燃料」など、地位・役割・立場などを別のものに移すこと。
「代」の字を使う熟語は、「代理」「交代」「代用」「代返」など。
替わる(替える)は、「入れ替わる」「着替える」「替え歌」など、それまであった物を新しく別の物にすること。
「替」の字を使う熟語は、「両替」「交替」「替玉」など。
換わる(換える)は、「古本をお金に換える」「配置を換える」「言い換える」など、同等の価値のものに取り換えること。
「換」の字を使う熟語には、「交換」「換金」「転換」「換気」などがある。
ただし、同じ価値のものでも、「両替」は「替」の字が使われたり、一般的に「組みかえ」は「組み替え」と書くが、「遺伝子組み換え」には「換」の字が使われるように、「替わる」と「換わる」を厳密に使い分けることは難しい。
どちらか迷う場合は、一般的な「替わる」を使うか、平仮名表記にするとよい。
進歩とは、物事が次第によい方、望ましい方へ進んで行くことで、以前よりも悪い方へ進むことは「退歩」。
進歩には、決まった目標がある訳ではなく、技術開発など、どこまでもより良い方へ進められるものである。
進捗とは、物事が進み捗る(はかどる)こと、決まった目標に対して進むことである。
「進捗状況」や「進捗具合」と言えば、物事が目標に対してどの程度進んでいるかを表す。
進度とは、進み方の程度のこと。
「進捗報告」といえば「進み具合を報告」という意味になり、「物事の進み具合」の意味でも進捗が使われるため、混同されることもあるが、本来、進捗は「進みはかどる」という意味である。
対して、進度は「進行具合」「はかどり具合」の意味で、既に「具合」を含んでいるため、「進度具合」というのは重言になる。
また、進歩は望ましい方、進捗は目標に対して進むことで、いずれも良い方向に向かうことだが、進度は進行具合をいっているだけで、「病状の進行」が「悪化」を意味するように、必ずしも良い方向へ向かっているとは限らない。
怒るは、「起こる」と同源で、「感情が高まる」の意味から、腹を立てること。
叱るは、目下の者の言動に対し、欠点を強くとがめ戒めること。
よく、「子供を怒るのではなく、子供を叱るように」と言われるのは、怒るは自身の感情を抑えられず表に出すことで、叱るは子供のことを思い指導することをいうためである。
国語辞典には、「怒る」に「叱る」の意味あるが、不満を表す態度と、強くとがめている姿は似ているため、「怒る」に「叱る」の意味が含まれるようになったもの。
一方、「叱る」は教育的な指導を表す言葉であるため、「叱る」に「怒る(腹を立てる)」の意味はない。
対象が異なる点も、怒ると叱るの違いである。
怒るは、感情の赴くまま、不満を爆発させることなので、目上の人に対しても使われ、世間の風潮など、抽象的なことに対しても使われる。
叱るには、「良い方向へ導こう」という指導の意味があり、指導する人と指導される人という関係がなくては成り立たない言葉であるため、「子供を叱る」「部下を叱る」のように、必ず目下の者に対して使われる。
青田買いと青田刈りは、企業が優秀な人材確保のため、新入社員採用期間よりも早く、卒業見込みの学生や生徒の採用を内定することをいうが、本来、「青田刈り」をこの意味で使うのは間違いである。
青田とは、まだ稲が実っていない青々としている田のこと。
青田買いは、稲が実る前に収穫量を見積もり、米を先買いすることをいう。
そこから、まだ卒業前の学生を実る前の稲、学生の能力を見積もった収穫量にたとえ、優秀な人材確保のために早期内定することを「青田買い」というようになった。
青田刈りは、稲が熟していない青々としたうちに刈り取ることをいう。
たとえにしても就職と結びつかない言葉であるが、青田買いとの誤用から、早期内定の意味でも使われるようになった。
誤用が広く普及したため、「青田買い」と「青田刈り」を同義語として扱う辞書も少なくない。
しかし、青田買いは早期に確保するだけで、実際に刈り取るのは成熟した稲(卒業後)だが、青田刈りが刈り取るのは未成熟の稲(卒業前)であるため、誤用であることに変わりはない。
意図的と恣意的は、類語ではなく、全く意味の異なる言葉なので、誤用に注意が必要である。
意図は何かを行おうと考えている事柄や、思惑、もくろみのことで、意図的は目的や考えを持ってわざとするさまを表す。
一方、恣意は気ままな考えや、自分勝手な考えのことで、恣意的は論理性がなく、思いつきで行動するさまや、自分勝手なさまを表す。
「意図的に編集する」といった場合、何かしらの目的や思惑を持って編集することを意味するが、「恣意的に編集する」といった場合は、自分勝手に編集する、思いつきで編集するという意味になる。
また、意図的の類語に「作為的」があるが、意図的は良かれと思ってする場合にも、悪意を持ってする場合にも用いるのに対し、作為的は良かれと思ってする場合には用いられないため、必ずしも、意図的を作為的に置き換えられるとは限らない。
年賀状の冒頭に用いられる賀詞には、「賀正」「迎春」「謹賀新年」「恭賀新年」などがある。
その他にも、一文字の賀詞に「寿」「福」「賀」「春」「禧」、二文字には「新春」「初春」「賀春」「頌春」「慶春」「寿春」、四文字に「謹賀新春」「恭賀新春」「敬頌新禧」、文章の賀詞に「明けましておめでとうございます」「新年おめでとうございます」「新春のお慶びを申し上げます」「謹んで初春のお慶びを申し上げます」「謹んで新春のご祝詞を申し上げます」、英語の「Happy New Year」など多くある。
これらのうち、「寿」「福」などの一文字の賀詞、「賀正」「迎春」などの二文字の賀詞は、友人や同僚など親しい間柄や目下の相手には使えるが、目上の相手に対してはふさわしくない。
その理由は、「寿」であれば「めでたい」「福」は「幸せ」、「賀正」は「新年を祝う」、「迎春」は「新年を迎える」と言っているに過ぎず、相手に対する敬意や丁寧さに欠けるからである。
いっぽう四文字の賀詞は、「謹賀新年(つつしんで新年の喜びを申し上げます)」「恭賀新年(うやうやしく新年をお祝い申し上げます)」「敬頌新禧(うやうやしく新年の喜びをおたたえ申し上げます)」というように、丁寧さもあり、敬意も表されているため、目上の相手に使うことができる。
四文字の賀詞は、目上の相手に限らず、友人や目下の相手にも使える。
また、文章や英語の「Happy New Year」も相手を問わず使えるため、相手によって賀詞を使い分けることが難しい場合は、四文字・文章・英語の賀詞を使うのが無難である。
案外」も「意外」も「存外」も「思いの外(ほか)」も、予想していたことと実情が違っていた様子を表す言葉だが、ニュアンスや文法に違いがある。
「案外寒かった」といった場合、「思っていたより寒かった」という軽い意味合いで使われ、想像や常識を少し超えた程度であったことを表す。
「存外寒かった」も、ほぼ同じニュアンスになるが、「案外」よりも「存外」の方が使われる頻度が少ないため、人によってやや硬い印象を与える。
「思いの外寒かった」の場合は、「案外」や「存外」よりも、予想を超えていた度合が強い感じになり、使う場面によっては大げさ過ぎて使えないこともある。
「案外」「存外」「思いの外」の三語と少し異なるのが「意外」である。
「案外」「存外」「思いの外」は、そのままの形で副詞として使われることが多いが、「意外」は、「意外に(と)寒い」というように、「意外に」「意外と」の形にしないと不自然になる。
「意外な所で会った」や「それは意外だ」など、「意外」は「―な」「―だ」の形でも使えるが、「案外」「存外」を当てはめると不自然になり、「思いの外」は文章語的になるため会話では使いにくい。
また、「意外」は予想と違っていただけでなく、予想もしていなかった事態であることを表したり、驚きの感情も込めた表現になる。
節約も倹約も、無駄を省いて切り詰めることを意味するが、対象範囲は異なり、「経費の節約」「電気の節約」「時間の節約」など、節約はお金以外の場合にも用いるのに対し、「電気の倹約」や「時間の倹約」とは言わないように、倹約はお金に関することのみ用いられる。
節約と倹約では、ニュアンスにも違いがあり、節約は合理的に無駄を省き切り詰めることで、プラスの印象を与えるが、倹約は無駄を省いて出費をできる限り少なくすることで、けち臭い印象を与える。
このような節約と倹約の違いは、使われる漢字の違いに通じる。
節約と倹約に使われる「約」には「引き締める」、節約の「節」には「区切り」、倹約の「倹」には「無駄や贅沢をしない」といった意味がある。
節約は、制限のもと切り詰めることに重点があるため、金銭に限らず用い、プラスの評価となるが、倹約は、贅沢な生活をせず切り詰めることに重点があるため、金銭に関することにのみ用い、出し惜しみをするケチな人というマイナスの評価になるのである。
経験も体験も、実際に見聞きしたり、やったりするなど、何事かに直接ぶつかることをいう。
経験は、体験に比べて使われる範囲が広く、「人生経験」や「経験を生かす」というように、行為によって得た知識や技能なども指す。
体験は、「戦争体験」や「心霊体験」というように、自分が身をもって感じるところに重点があり、行為の内容よりも、印象的な事柄について用いることが多い。
また、経験はそれによって得られた知識や技能も指すのに対し、体験は身をもって感じるところに重点があるように、経験によって物事の本質を見極めることが可能だが、体験では物事の本質を見極めることはできない。
そのため、「体験入学」や「疑似体験」とは言っても、「経験入学」や「疑似経験」とは言わない。
言い訳と申し訳と弁解と弁明と釈明は、いずれも失敗や過失の事情を説明し、謝罪や責任の回避・軽減をしようとすることで、最も一般的で日常会話に使われるのは、「言い訳」である。
言い訳の本来の意味は、物事の筋道を説明することで、転じて、過ちなどを謝罪するため、事情を説明する意味となった。
言い訳には、事情説明や謝罪の意味も含まれているが、「言い訳をするな」と言うように、口実を作って責任や罪を免れようとする意味の「言い逃れ」に近いニュアンスで使われることが多い。
申し訳は、「言い訳」の謙譲語であるため、「申し訳がない」とは言うが「申し訳するな」という言い方はしない。
硬く改まった表現であるため、言い訳よりも謝罪の意思が強く感じられる。
また、「ほんの申し訳程度の謝礼」というように、実質を伴わず、体裁だけであることも表す。
弁解は、「言い訳」の漢語的表現。
「弁解の余地がない」と、正当性の有無を問題にする際に用いるように、言い訳に比べて、弁解は正当な理由があることを説明する意味が強い。
弁明も正当な理由を説明する意味で用いるが、自分の立場や事情を明らかにするため説明することで、誤解を解いて理解を求めたり、相手に納得してもらうところに重点がある。
釈明と弁明は、ほぼ同じ意味で使われるが、釈明は誤解や非難を招く行為をしたことに対し、事情を客観的に説明し、理解を求めたり、謝罪の意思を表すことを表す。
指示と指図は、物事のやり方、仕事の段取りなどを言いつけ、人を動かすことで、意味としては同じだが、ニュアンスに違いがある。
指示は「上司の指示を仰ぐ」「的確な指示を与える」など、物事のやり方を指し示すといった事務的な事柄に関して使われる。
一方の指図は、命令的な印象があり、反発を伴う言葉で、「お前に指図されたくない」とは言っても、「的確な指図をしてください」とは言わない。
また、指図は目の前であれこれやらせるというニュアンスが強く、「一週間前に出された指図」というようなことはない。
指導は、ある目的や方向に向かって教え導くことで、指示や指図のように、言いつけてやらせるものではない。
また、上司が部下に「今日中にこの仕事をしなさい」と出すのは指示で、今日中に終わらせることができて当然の内容である。
これが、部下の力量を考えて、今日中に終わらせられそうもない内容であった場合、どうすれば効率よくできるか教え導く必要があり、それが指導となる。
つまり、できることが前提としてあるのが指示や指図、できないことが前提としてあるのが指導である。
記入とは、所定の場所などに文字や数字を書き入れること。
記載とは、書類・書物などに記し載せること。
記述とは、文章にして書き記すこと。
記入が記載や記述と異なる点は、書き入れるという行為のみを表すところにある。
また、記入は必ずしも文字を書くとは限らず、数学の問題に対する解答や電話番号であれば数字を記入し、マークシートであれば塗りつぶすことが記入、アンケート用紙の回答であれば、丸をつけたり、レ点(チェックマーク)をつけることが記入となる。
記載も文字とは限らず、数字なども含まれるが、記入と異なる点は、書かれたものが書類や書物として残るところにある。
履歴書に「書く」という行為自体は、「記入」とも「記載」とも言える。
しかし、履歴書に嘘の職歴が書かれていれば、「虚偽記入」ではなく「虚偽記載」というように、書類や書物に書かれたものについては「記載」となる。
問題の解答やアンケートの回答などで書き間違いがあった場合は、「記入ミス」や「記入漏れ」と言うのに対し、新聞や書物で書き間違いがあった場合には、「記載ミス」や「記載漏れ」と言うのも、単に「書く」という行為を表すか、「書類などに記し載せる」ことを表すかの違いである。
記述が記入や記載と異なる点は、「述べ記す」と書くように、言葉を連ねて記すこと。つまり、必ず文章で書き記すという点である。
ただし、試験問題の「記述式」は、マークシート方式の「選択する」という解答方法との比較として、「書き入れる」という方法を表したもので、記述式問題が文章で記す問題とは限らない。
なお、考えなどを文章で求める問題については、記述式の一部として「論述式」と呼ばれる。
薬の効果が現れる」と「薬の効能が現れる」のように、「効き目」という意味では効果と効能のどちらも使うが、「効き目」の何に重点が置かれるかによって、使い分けが必要となることもある。
効果とは、ある行為や作用によって得られる、望ましい結果のこと。
効能とは、ある結果をもたらす働きのこと。
効果は「結果」に重点が置かれた言葉で、効能は「働き」に重点が置かれた言葉である。
便秘薬を例に「効果が期待できる」と「効能が期待できる」の違いをいうならば、効果で期待できるのは、「便秘が治る」という結果。
効能で期待できるのは、「便を柔らかくする」「腸の動きを活発にする」といった働きである。
便秘の原因が別のところにあれば、このような効能の薬を使用しても結果は便秘のままなので、「効能はあったが効果はなかった」ということもある。
さらに、便秘を治す目的がダイエットであった場合、望んでいる結果は痩せることなので、便秘が治ることは「効能」、痩せることが「効果」となる。
また、効果は「経済効果」や「ドップラー効果」など、「影響」「現象」といった意味でも使われ、対象範囲が広い。
一方の効能は、物質の作用がもたらす働きについていうことが多いため、薬・サプリメント・温泉などの医療・健康に関することに使われ、効果のように対象範囲は広くない。
「何度注意しても効果がない」という場合は、影響・結果に重点が置かれており、働きかけている「注意」も薬などの物質ではないため、「効果」を「効能」に置き換えて、「何度注意しても効能がない」とは使えない。
その他、効果は「音響効果」や「舞台効果」のように、映画や演劇などで、場面にふさわしい情趣を作る意味でも使われる。
応対と対応の違いは、人に対して応じるか、人以外の事柄に応じるかの違いである。
「電話応対」と「電話対応」はどちらも使う言葉で、対応も人に応じる意味の言葉のようだが、電話応対がかけてきた相手に応じるのに対し、電話対応は電話がかかってくるという状況や、かけてきた相手の用件に応じているのである。
クレーム電話がかかってきた場合、受付は電話を受けるが、そのクレームに応じた処理をする訳ではないので「応対」。
受付が担当者に引き継ぐことは「対応」で、引き継がれた担当者が、クレームに応じて適切な判断をし処理するのは「対応」である。
「応対が良い」といった場合は、言葉使いや態度など、相手とのコミュニケーションの取り方が良いことを表し、「対応が良い」といった場合は、状況に応じた処理の仕方、解決の仕方が良いという意味になる。
根本的の「根本」は、物事を成り立たせている大本や、基礎になるもののことで、根本的は、そのようなさまをいう。
そのため、「根本的な解決」「根本的改革」「根本的な見直し」「根本的な誤り」「根本的な問題」など、物事が成り立つ基礎的なことに広く使える。
抜本的の「抜本」は、「抜く」という字が入っているように、根本の原因を抜き去ることで、抜本的は、物事の根本に立ち戻って是正することをいう。
改めることについてのみ使える言葉なので、「抜本的な解決」「抜本的改革」「抜本的な見直し」などとはいうが、「抜本的な誤り」や「抜本的な問題」とは使えない。
抜本的は改めることが前提にある言葉なので、根本的よりも使用範囲は狭くなるが、改めることをいう場合は、「大本の原因を抜き去って必ず変える」という強い意志を表すことができる。
宿命の「宿」は「宿る」ではなく、「前世からの」という意味で、前世から定まっている運命のこと。
運命の「運」は「運ぶ」ではなく、「巡り合わせ」という意味で、人間の意志に関係なく巡ってくる幸、不幸のことである。
宿命は生まれる前から決まっているものなので、変えることのできないもの。
運命は人間の意志によって幸、不幸を左右することはできないが、巡り合わせによるものなので、日頃の行いや選択の積み重ねにより、結果として変わるものである。
「宿命のライバル」というのは、まるで前世から決まっていたような、絶対に避けられないライバルという意味で使われる。
「運命の出会い」や「運命の人」の場合は、偶然が重なって巡り合った相手である。
また、宿命の意味に「運命」とあるように、運命には宿命も含まれている。
そのため、「これも運命だ仕方がない」といった場合は、自分の選択が間違っていたから仕方ないという意味と、「これも宿命だ仕方がない」と同じ、前世から決まっていたことなので仕方ないという、両方の意味が考えられる。
生い立ちは、「壮絶な生い立ち」「不幸な生い立ち」「生い立ちムービー」など、どのように育ったかという、成長の過程そのもの、経歴を表す。
育ちは、「田舎育ち」「温室育ち」「育ちが悪い」など、どのような環境で育ったかという過程だけでなく、成長する過程での環境、教育、しつけ、経済状態、場所などが、人間性や性格、能力などにどう影響するかといった、成長後との関係や評価を含んだ表現になる。
また、「この町の生い立ち」といえば、町の歴史を表すように、生い立ちは成長の過程そのものであるため、生物以外の成長や歴史についてもいうが、「この町の育ち」といった場合は、人間が育った場所を表すように、育ちは生物以外のものに対して用いられない。
屁」も「おなら」も、飲み込んだ空気や腸の内容物の発酵によって生じたガスが、肛門から排出されるものをいうが、厳密には「屁」と「おなら」に違いがある。
おならは、「お鳴らし」が略されてできた女房言葉。
音の鳴る放屁が「おなら」であり、音のしない屁は「おなら」ではないのである。
元々は、音の鳴るものも鳴らないものも「屁」であったが、「おなら」という言葉が広まっていくと、音の鳴らないものを「屁」、音の鳴るものを「おなら」と区別されるようになった。
その違いを表現した古川柳に、「屁をひったより気の毒は おならなり」というものがある。
やがて、「屁」と「おなら」が同じ意味で用いられるようになったことから、音のするものとしないものを分けるため、音のしない屁を「すかしっ屁」と呼ぶようになった。
屁(すかしっ屁)のほうが、音が出る「おなら」よりも臭い理由は、屁に含まれるガスと空気の混合割合によるもの。
大きな音の出るおならは、ガスよりも空気の割合が多く、空気圧が高くなるため、音が出る代わりに臭くなりにくい。
音のしない、もしくは、音の小さい屁は、ガスの濃度が濃いため臭いにおいがするが、空気圧が低いため音がしないのである。
基準・標準・水準の意味は、物事の判断・評価・比較のよりどころとなるものという点では共通するが、置き換えて使えるとは限らない。
基準は物事の基礎となるよりどころのことで、「建築基準」「設置基準」のように、守るべきもの、満たさなければならないものという意味を含む場合は、「基準」が使われる。
「標準的な生活」「標準サイズ」のように、「平均的」「一般的」「代表的」といった意味を含む場合は、「標準」が使われる。
水準は物事の価値や質、機能などの一定の標準のこと。
「生活水準」「世界一の水準」というように、どのレベルに位置するかを評価する場合には、「水準」が使われる。
死体と遺体の違いは、死者の体を物体として表現するか、人格を認めた表現にするかの違いである。
死体は「死んだ体」という、ひとつの物体として扱った客観的表現であるのに対し、遺体は「魂が去って遺された体」という、一個人の人格を含めた主観的表現であるため、「死体」よりも丁寧で、死者や遺族への哀悼の意を込めた言い方となる。
報道では、身元不明な場合に「死体」、身元が判明している場合に「遺体」といった使い分けもされていたが、「死体」では物として扱う印象を与えるため、現在は基本的に「遺体」を使い、「死体」を使うのは、対象が動物、「死体遺棄罪」「死体損壊罪」などの法律用語、生死の情報が内容の中心となる場合に限って使うことが多くなっている。
一般の会話であれば、「死体」は人や人以外の動物にも使い、「遺体」は人に対してのみという使い分けもできる。
ただし、地質学や生態学などの学術用語では、動植物全般に「遺体」が使われる。
「死体」や「遺体」以外にも、死んだものの体を表す言葉には、「死骸(しがい)」「亡骸(なきがら)」「遺骸(いがい)」「屍(しかばね・かばね)」「死屍(しし)」「骸・躯(むくろ)」など多くある。
死骸は動物に対して使うことが多いため、人に対して使う場合は、「野外に放置された野ざらしの死体」という印象を与える。
亡骸や遺骸は、遺体と同様に敬意を込めた表現である。
亡骸は会話の中でも使われるが、文学的な表現となる。
遺骸は文章語で、会話で使われるのは特に改まった場合に限られる。
しかばね、かばね、死屍、むくろは、死者に対する敬意は含まれない表現。
日常会話で使われることは少なく、主に文学で使われる。
秘密は、三語の中で最も一般的な表現で、使われる範囲は広い。
内緒は、話し言葉として用いられ、やや砕けた表現であるため、公的な場では使われない。
内密は、文章語的で、やや硬い表現となる。
「成功の秘密」というように、秘密は隠している事柄そのものを表す場合にも使えるが、内緒や内密は使えない。
ただし、「内緒事」という形であれば、事柄そのものを表すことは可能である。
「夫に内緒でランチに出かけた」というように、私的かつそれほど重大ではないことには内緒が適当で、内密は使えない。
秘密も使えないわけではないが、ちょっとした隠し事の割に重い印象となってしまう。
また、「夫に秘密で」という形はやや不自然で、「夫には秘密で」という形になる。
「内密に調査をする」というように、部外者に知られないようにする意味では内密が適当で、内緒は仲間内の私的な行動に使うため適当ではない。
秘密も使えるが、世間や社会と関わりのある事柄や、重大な事柄には内密の方が適当である。
物事をする前に、あらかじめ整えておくという意味では、準備と用意と支度の三語とも使うが、整えておく範囲や、時間の幅に違いがある。
準備は、必要なものを揃えるだけでなく、態勢や環境といったことまでを含み、大まかな計画をする意味でも使うため、用意や支度に比べて長期的である。
また、「心の準備」というように、覚悟を決める意味でも使う。
用意は、前もって必要なものを揃えることに重点があり、準備よりも具体的になる。
態勢を整える意味で使ったり、「心の用意をする」という使い方もしないではないが、ふつうは「準備」を使う。
準備に比べ、用意は短い期間になる。
支度は、主に食事や服装、持ち物などにいい、具体的な行動にすぐに取り掛かれるようしておくことである。
準備や用意のように、態勢や心構えの意味では使わず、時間的にもより短くなる。
また、支度はくだけた話し言葉的表現である。
来客者への食事の提供を例にするならば、「食事の支度をする」の場合は、材料は既に揃っており、料理を作る段階にある。
「食事の用意をする」といった場合は、必要な材料を揃えるための買い物から、料理を作るところまで。
「食事の準備をする」は、用意で表せる範囲に加え、メニューを考えることや、来客者を招き入れるために掃除をするなど、食事を提供する場を整えるといったことにも使えるようになる。
会話とは、二人以上の人が集まって互いに話すこと。また、その内容のこと。
日常生活における話のやり取りや、「英会話」など外国語で話すことを表す際には「会話」が適切で、「談話」や「対話」は不自然である。
談話とは、話をすること。
会話は、話のやり取りに重点が置かれる言葉で、特定の相手を意識したものだが、談話は、盛んに喋る、打ち解けて語り合うといった意味を含む言葉で、話のやり取りよりも、くつろいで話すことに重点が置かれる。
また、「首相の談話」というように、ある事柄についての意見などを述べることや、その内容の意味でも「談話」は用いる。
対話とは、二人が向かい合って話し合うこと。
「親子の会話」という場合は、ごく普通の日常生活での話のやり取りを表すが、「親子の対話」といった場合は、親と子がきちんと向き合って話をすることを表す。
多数の話し合いにも「対話」は使えるが、その場合は、主張や立場に違いがあり、対する関係になっている必要がある。
元の場所や方向へ移動することを「帰る」「戻る」「引き返す」という。
帰るは、人・動物・乗り物が、元いた場所や、所属・本拠としているところへ移動する意味で、物が元々あった場所へ移される場合は「返る」と書く。
戻るは、人・動物・物・乗り物が、元あったところへ移動すること。元の状態や性質になること。
引き返すは、人・動物・乗り物が、進行方向とは逆の方向へ移動することをいい、物には使わない。
帰る・戻る・引き返すを使い分ける際は、元の場所以外の意味の違いに注目すると使い分けしやすい。
帰るは本拠や所属へ移ることの意味があるため、外国生まれで初めて祖国へ行く場合にも使えるが、「戻る」や「引き返す」は使えない。
また、来客者にとって今いる場所は拠点とする場所ではないため、来客者が去るという意味でも「帰る」は使う。
この場合、実際に拠点へ向かうかどうかは関係ないが、「戻る」や「引き返す」を使う場合は、必ず拠点に向かう必要がある。
戻るには状態や性質が元のようになることの意味があるため、「実家に戻る」といった場合は、その人の体が移動しただけでなく、生活環境や人間関係の変化も含めた意味となる。
単に位置の移動を表したり、本来住まなければならない場所を表す場合は、「実家へ帰る」である。
「実家へ引き返す」といった場合は、実家を出て別の場所へ向かったものの、また実家へ向かうことをいうように、引き返すは、移動の途中や目的地へ到達してから、支障などが生じたために、元の場所へ向かうことを表す。
ある事を行った後に、なくならないで存在するものがあることを「残る」や「余る」、その存在するものを「残り」や「余り」という。
これらの違い・使い分け方は、どこに重点を置くかである。
残る(残り)は、「会社に残る」「傷が残る」というように、「なくならないで存在する」「まだある」ところに重点が置かれる。
余る(余り)は、「人手が余る」というように、「一定の基準を超えてもある」「余分である」ところに重点が置かれる。
「料理が残る」と「料理が余る」はどちらも使うが、この場合も重点が置かれるところによって使い分けをする。
3人で食事をするので3人分の料理を作ったが、全ては食べきれなかったという場合は、まだ存在することをいうため「料理が残る」。
3人で食事をするのに4人分の料理を作ってしまい、多くて食べきれなかったという場合は、余分であることをいうため「料理が余る」となる。
大笑いとは、大声で笑うこと。
また、他人の言動をあざけり笑う「物笑い」と似た意味で、ひどい物笑いの種や、物笑いになるさまの意味でも使う。
爆笑とは、大勢がどっと大声で笑うこと。
爆笑は大勢でなければならないため、「一人で爆笑した」というのは誤用で、一人で大声を出して笑ったのであれば「大笑いした」というのが正しい。
しかし、言葉の意味は変化するものである。
一人や数名であっても、大声で笑うことに「爆笑」を使われることが非常に多くなっているため、いずれ誤用ではなくなり、一般的な使用法となる可能性もある。
一人や数名でもいう場合の「爆笑」と「大笑い」の違いは、大笑いが大声で笑うことであるのに対し、爆笑は弾けるような大きな笑い声である。
哄笑(こうしょう)は、大口をあけて声高く笑うこと。
「哄」の字は、どっと一斉に大声を出すという意味なので、漢字の意味からすれば、哄笑は大勢がどっと大声で笑うことだが、大口をあけて大きな声で笑っていれば、一人でも大勢でも関係ないと解釈されている。
バカ笑い(馬鹿笑い)とは、馬鹿のようにみだりに笑うこと。
周囲への配慮もなく、はしたないというニュアンスを含んだ表現である。
高笑いとは、あたり構わず大きな声で笑うこと。
バカ笑いと似ているが、高笑いは得意げになって大笑いしている場合に多く使われる。
空想も夢想も妄想も幻想も、すべて想像の一種だが、これらには次のような違いがある。
想像とは、実際に体験したり、見たりしていない事柄を思い描くこと。
「想像通りの結果となった」というように、その内容が、現実的に起こり得ることや、存在し得ることに使う場合が多く、空想・夢想・妄想・幻想のように、非現実的な事柄には使われにくい。
空想と夢想は、どちらも現実からかけ離れた事柄や場面を思い描くことをいうが、空想は自ら意識的に思い描く場合に用い、夢想は夢のように当てもない内容で、将来の夢や希望といった憧れを含む場合に用いる。
古くは、夢の中に神仏が現れ、お告げをすることを「夢想」といった。
妄想とは、根拠もなくあれこれと想像すること。
空想や夢想も非現実的な想像であるが、妄想は不道徳・不健全な欲求で想像することや、「誇大妄想」や「被害妄想」など、根拠のない想像であるにもかかわらず、事実であるかのように確信してしまうことにいう。
後者の事実と確信してしまう妄想は、精神疾患や薬物中毒などによって生じるもので、空想や夢想の想像とは大きく異なる。
幻想とは、現実にないことをあるかのように思い浮かべること。
無意識的に思い浮かべ、現実との区別がつかなくなる点では妄想と似ているが、「幻想を抱く」「女性に対する幻想」というように、幻想は「期待」の意味を含んで使われる。
ビジネスマナーとして、目上の人や同僚に対しては「お疲れ様」を使い、「ご苦労様」は目下の相手にしか使ってはいけないことが、正しいこととして広まっている。
お疲れ様もご苦労様も、相手の労をねぎらう言葉で大差ないのだが、次のようなことから、このような使い分けが正しいといわれるようになった。
ご苦労様は、他人の苦労に対し敬意をもっていう語で、本来、目上の人に対して使う言葉であったが、「貴様」や「御前」などと同じで、時代とともに同輩か目下の相手に対して使う言葉となった。
また、ご苦労様は相手の無駄な骨折りを嘲って言うようにもなったため、目上の人に対して使うことは、大変失礼なことと思われるようになった。
ご苦労様が相手の労をねぎらう意味で目上の人に使えなくなったため、お疲れ様はそれに代わる言葉として使われるようになったもので、使用は比較的新しい。
「お疲れ様です」というのは、嘲っていう訳でもなく、職場で先に帰る人に対して使う挨拶語としても定着しているため、目上の相手には「ご苦労様です」ではなく、「お疲れ様です」を使うことが正しいといわれるのである。
ただし、現代では相手の労をねぎらうこと自体、同輩以下の相手にする行為となっており、お疲れ様でもご苦労様でも、目下の者に言われると、馬鹿にされた気分になる、違和感を感じるという人もいるため、相手によっては、どちらも使わないほうが良いこともある。
凸凹と凹凸は、出っ張りを表す漢字「凸」と、へこみを表す漢字「凹」で、物の表面に起伏があって平らでないことを表す。
凸凹は「でこぼこ」と読むのが一般的だが、「だくぼこ」「とつおう」などとも読む。
一方、凹凸は「おうとつ」のみで、「ぼこでこ」とは読まない。
凸凹は「でこぼこ」「デコボコ」と仮名表記し、主に話し言葉として用いられるのに対し、「凹凸」は漢字表記されることがほとんどで、文章語的である。
「でこぼこコンビ」や「給料にでこぼこがある」というように、凸凹は不揃いな意味でも多く用いられる。
凹凸にも不揃いの意味がない訳ではないが、使用されることは少ない。
「地面のでこぼこをならす」「でこぼこになる」「でこぼこな道」のように、凸凹は名詞のほか、副詞や形容動詞としても使えるが、凹凸は「凹凸がある」「凹凸のある道」というように、使えるのは名詞のみである。
ちょくちょく」「しばしば」「度々(たびたび)」は、同じ事・同類の事が何度も繰り返されるさまをいう。
繰り返しの間隔・頻度は、使う人によって差があるが、「しばしば」よりも「ちょくちょく」の方が間隔が短く、高い頻度で繰り返される印象を与える。
「度々」は、二度三度繰り返されるという、回数に重点が置かれた言葉で、間隔・頻度については様々である。
「度々のご連絡申し訳ございません」というように、何度も・重ね重ねの意味では「度々」が適当で、「ちょくちょく」や「しばしば」では不自然になる。
「ちょくちょく」はやや口語的でくだけた言い方、「しばしば」と「度々」はやや文語的であるため、「ちょくちょく遊びにおいでよ」というような軽い表現に、「しばしば」や「度々」を使うと不自然になる。
手のひらなど表面に当てて動かす動作を「なでる(撫でる)」「さする(摩る・擦る)」「こする(擦る)」という。
一般に、「なでる」「さする」「こする」の順で力の入れ具合が強くなる。
なでるとは、指や手のひらなどを表面に軽く当て、対象をいとおしむようにゆっくり動かすことで、愛情表現や触感を確かめる目的で行われることが多い。
「風が頬をなでる」というように、軽く触れることの比喩的表現にも用いる。
さするとは、指や手のひらなどを表面に当てたまま、強い刺激を与えない程度に軽く摩擦することで、人間や動物などの痛みや苦痛、こわばりなどを和らげるために行われることが多い。
こするとは、表面に強く押し当てて動かす動作のことで、何かの刺激を伴う。
「タオルでごしごしこする」というように、当てるものが指や手とは限らず、物の場合もある。
さするは必ず動作が繰り返されるが、なでるは一回きりのこともある。
こするも繰り返しの動作に用いることが多いが、「車が外壁をこする」というように一回きりの場合もある。
雑学は、多方面にわたる雑多な知識、系統立っていない学問のこと。
豆知識は、ちょっとした知識。役に立つ知識のこと。
雑学と豆知識の違いでよくいわれるのが、雑学は知っていても役に立たないもの、豆知識は役に立つものといったものだが、役に立つ雑学もあれば、役に立たない豆知識もあり、この区別の仕方は間違いである。
「生活の知恵」のように、豆知識が役に立つ知識の意味を持つようになったのは、本筋となるものがあり、その本筋から少し外れたちょっとした知識をいったことから。
同じ話題であっても、使う場面によって「雑学」が適切な場合と、「豆知識」が適切な場合がある。
たとえば、天気予報の最中に「腐った卵の見分け方」を話し始めた場合、本筋から大きく外れているため、役に立つ情報でも「豆知識」ではなく「雑学」という。
てっちりの語源は、何の役にも立たない雑学だが、てっちりを作っている最中に話した場合、本筋から少し外れているだけなので「てっちりに関する豆知識」ともいえる。
本やWebサイトなどで、複数の情報がまとめられているものについては、雑多な知識なので、ふつうは「雑学」を使うが、特定分野に限った知識のまとめであったり、あるテーマに沿った役に立つ情報を集めたものについては「豆知識」が使われる。
この「違いがわかる事典」の場合、「違い」というテーマはあるが、その中で言葉や事物など様々なジャンルを扱っているため、仮に役に立つ情報ばかりであったとしても、「違いの豆知識」とはいわず「違いの雑学」という。
文と文章は同じ意味で使われることもあるが、文法上の言語単位としてみた場合、文は一語以上の語からなり、まとまった内容を表す一続きの言葉のことで、文の終わりは「句点(。)」で示される。
文章は、文を連ねて、あるまとまった感情や思想、話題を表したもの。
一文だけでも、まとまった感情や思想が表されていれば文章といえるが、通常は複数の文から構成される。
「雪が降っているが、家の中は暖かい。」は、一続きの言葉で、終わりに句点があるため文である。
この文を二つに分け、「雪が降っている。しかし、家の中は暖かい。」とした場合は、文の連なりによって表されているため、文章となる。
文書とは、書籍・書類・書状・証文など、文字で書き記したものの総称。
紙に文字を書き記したものに限らず、コンピュータなどの電子媒体を使って記録したもののように、文字で書くという形式であれば媒体は問わない。
また、文書には必ず文章が含まれるといわれることもあるが、文章の形となっていないものでも、意思が伝わるよう文字で記されたものであれば文書であり、必ず文章が含まれるとは限らない。
欲張りとは、欲が深いこと。また、そのような人のことで、貪欲や強欲よりも日常的に使われる。
貪欲と強欲は、非常に欲が深いことで、欲張りよりも、自分のものにしようとする欲心が非常に強い。
また、欲張りのように、そのような人を表す名詞としての使い方はない。
欲張りも貪欲も強欲も、多くは悪い意味で使われるが、貪欲は「貪欲に知識を吸収する」というように、良い意味でも使われる。
「強欲な借金の取り立て」とは言うが、「欲張りな借金の取り立て」「貪欲な借金の取り立て」とは言わないように、非常に悪い意味では「強欲」が最も適している。
復讐・報復・仕返しは、害を与えた相手に対し、同じような行為をすることをいう。
喧嘩や意地悪など、個人間の日常的な事柄、些細な事柄には「仕返し」が適当で、「復讐」や「報復」では大げさな表現となってしうまう。
反対に、与えられた害が大きい場合には「復讐」や「報復」は使えるが、「仕返し」では表現が弱くなる。
また、「復讐の念に燃える」「報復の念を抱く」といった硬い表現にも、「仕返し」は使いにくい。
復讐は、与えられた害に対する行為というよりも、害を与えられたことによる深い恨みを晴らすという、感情的な部分に重みを置いた印象となる。
報復は、感情的なことよりも、与えられた害に対しての行為で、復讐に比べ、計画的で冷静沈着な印象となる。
個人の関係に限らず、互いが集団の場合にも使えるのが「報復」で、「報復措置」というように、国家間で、ある国の不当な行為に対し、他国が同様に不当な行為で報いたり、制裁することには「報復」が使われる。
謝罪の意味は、罪や過ちを詫びることで、「記者会見で謝罪する」「謝罪広告」など、謝る行為を広く表す言葉。
陳謝の「陳」は、「陳述」「陳情」「開陳」などの熟語で用いられるように、「述べる」という意味があり、陳謝は事情を述べて謝ることである。
事情や経緯などを語らず、ただ頭を下げたり土下座をして謝るだけの場合、「謝罪」は使えるが「陳謝」は使えない。
また、陳謝には、礼を言うことの意味もある。
深謝は文字通り、深く謝ること。心から詫びることを意味し、話し言葉では用いず、手紙などの文章で用いられる語である。
お詫びの品の表書きには、「謝罪」や「陳謝」は使わないが、「深謝」は使われる。
ただし、深謝は深く詫びることを表すため、迷惑をかけた度合いが強い場合にのみ使い、通常のちょっとしたお詫び程度であれば、表書きには「お詫び」を使う。
また、陳謝に礼を言うことの意味があったように、深謝にも深く感謝することの意味があり、深謝は謝罪よりも感謝の意味で使われることの方が多い。
問いかけに対して答えることを、「返事」「返答」「応答」「回答」などという。
この中で最も幅広く使われる言葉は「返事」である。
返事は、呼びかけに対する「はい」や「いいえ」などの短い答えから、手紙・質問・依頼・招待の答えもいい、口頭の場合にも文字の場合にも使われる。
返答は、具体的な内容のある依頼や問いに対して、具体的な内容のある言葉を返すことで、主に口頭によるものである。
応答は、問いや呼びかけなどに対する答えのこと。
反応して答えるもので、口頭のほか、言葉以外の合図・信号の場合にもいう。
回答は、具体的な内容のある質問や要求に対する、具体的な内容のある答えのことで、口頭の場合も文字の場合もある。
返答と回答は、具体的な内容であることのほか、公的な改まった発言で使われることが多いという共通点もある。
しかし、回答は文書にも使え、返答よりも公的な改まった印象になるため、「誠意ある返答」と言わず「誠意ある回答」と言う。
呼びかけに対する答えの意味では、返事か応答が使われるが、管制塔からの呼びかけに対する答えなど、反応して答えることをいう場合には「応答」が使われる。
了解・了承・承知・承諾は、相手の言うことや事情を理解して、受け入れたり、許したりすることをいうが、ニュアンスが異なる。
了解の「了」と「解」は、いずれも「よく分かる」「悟る」という意味。
了解は物事の内容や事情をはっきり理解することを意味し、単に言葉の意味が分かるという意味でも使う。
そのため、相手の事情などを理解し認める意味で用いる場合も、「理解」に重点が置かれる。
了承は了解と同じく事情を理解して認めることだが、「承」は「承る(うけたまわる)」「受け入れる」という意味で、了解よりも「受け入れる」「認める」という意味に重点が置かれる。
「何卒ご了承ください」「上司の了承を得る」のように、相手に理解を求め受け入れてもらうことには、「了承」を使うのが正しく、「了解」では不自然になる。
承知は相手の依頼や要件を聞き入れることを意味する。
「事前に承知しておきたい」「百も承知」と使うように、事情などを知ることや、知っていることが原義であるため、「知る」「聞く」に重点が置かれる。
承諾と同じ意味で承知を使うこともあるが、承知は聞き入れることで、承諾は承知して引き受けることである。
聞き入れるは、発言を聞き、そのようにする意味。
引き受けるは、自分が責任をもつことや、保証する意味。
つまり、承諾は認めるだけでなく、承知した人が責任を持ったり、保証することを意味する。
順序は、ある一定の基準による配列。また、物事を行う手順や仕事の段取りなどを意味する。
順番は、順序を追って代わる代わるその事に当たることである。
一列に並ぶ際、並び方のルールが「順序」で、配列の全体を表す。
その順序に従って並んだ時に、並んだ位置や回ってくるのが「順番」で、配列を構成する中のひとつひとつを表す。
例えば、早いもの順、整理番号順、身長順、五十音順などの並び方(ルール)は「順序」、その順序に従って並んだ際の一番前や一番後ろ、10番目といった、それぞれの位置が「順番」になる。
「順序よく並ぶ」と「順番通りに並ぶ」は似た意味に感じるが、言っている意味には違いがある。
「順序よく並ぶ」の場合は、配列全体の秩序を乱さないようにすること意味する。
「順番通りに並ぶ」といった場合は、1番の次に2番が並ぶという、それぞれがどのような行動をとるべきかを表した言葉になる。
寒いは「寒い朝」「寒い冬」など、不快に感じる気温の低さを表す言葉で、「暑い」の対義語。
冷たいは「冷たい雪」「冷たい水」など、体の一部が触れた時に感じる温度の低さを表す言葉で、「熱い」の対義語である。
基本的に気温が低いことを表す時には「寒い」を使うが、「空気が冷たい」「風が冷たい」のように、体(肌)に触れた感触として温度が低いことを表す場合には、「冷たい」が使われる。
また、所持金が少ないことをいう「懐が寒い」の対義語は「懐が暖かい」。
思いやりがない人や、冷淡な人のことをいう「冷たい人」の対義語は「温かい人」で、温度(気温)以外の意味で使う時には、「寒い」の対義語が「暖かい」。「冷たい」の対義語が「温かい」になることもある。
儲けると稼ぐは、利益や収入を得るという意味では共通するが、儲けるよりも稼ぐ方が地道に働くことを表す。
儲けるは、地道に働いて収入を得るというよりも、予想外の利益を得たり、うまく利益を得たりする意味で使う。
稼ぐは、精を出して働くことや、その働きによってお金を得ること、努力して手に入れることの意味で使われる。
「楽して稼ぐ」などと使うこともあるが、本来は「楽して儲ける」が正しい。
ただし、株やギャンブルで利益を得ることでも、継続的に利益を得ている場合には、地道に利益を得ることになるため、「稼ぐ」でも間違いにはならない。
なお、「儲ける」の漢字は「信」と「者」から成り立ち、顧客を信者にしてお金を得ることが儲けることと言われたりするが、「儲」は「人」と「諸」から成る漢字で、儲けることと信者に関連性はない。
燃やすと焼くと焚くは、火をつけて炎を上げるという点では共通するが、それぞれ重点が置かれるところに違いがあり、燃やすは、火をつけて炎を上げることや、灰にするという意味。
焼くは、熱の作用によって、元の状態とは違う状態になる意味。
焚くは、熱の作用を利用する目的で、火をつけたり、火の中に入れる意味に重点が置かれる。
「ゴミを燃やす」と「ゴミを焼く」は、ゴミを燃焼させて灰にするという意味でどちらも使えるが、「ゴミを焚く」は、ゴミを何かの燃料として使う場合以外には適当ではない。
「魚を焼く」や「陶器を焼く」は、火の熱によって、食べられる状態にしたり、陶器を作り上げるという意味になる。
これを「魚を燃やす」や「陶器を燃やす」に変えると、灰にするという意味になる。
魚や陶器は燃料にするものではないため、「魚を焚く」や「陶器を焚く」という言い方はしない。
「薪を燃やす」や「石炭を燃やす」といえば、火をつけて炎を上げる意味になり、「薪を焚く」や「石炭を焚く」では、燃料とするため火をくべる意味になる。
違う状態にするために火をつけるわけではないため、「薪を焼く」や「石炭を焼く」とは言わない。
「情熱を燃やす」というように、燃やすには感情や意欲、気力などを高ぶらせる意味でも使うが、「焼く」や「焚く」にそのような意味はない。
「燃やす」や「焚く」は使わず、「焼く」のみ使われる意味としては、「やきもちを焼く(「妬く」とも書く)」のように、嫉妬の意味。
「恋に身を焼く」のように、心を悩ませ苦しい思いをする意味。
「世話を焼く」のように、気を配ったり、世話をするという意味がある。
足りない」と「足らない」は意味に違いはなく、どちらを使っても誤りではないが、「足りない」の方が現代語的で、「足らない」の方が古語的な表現となる。
そのような違いがあるのは、元になっている言葉が違うためである。
「足りない」は、「足りる」を否定形にした言葉。
「足らない」は、「足る」を否定形にした言葉である。
「足る」は古くから使われている言葉で、「足りる」は江戸時代以降に一般的になった言葉であるため、「足らない」よりも「足りない」の方が新しい言い方になる。
なお、「足る」が一般的であった時代の否定形は、「足らず」や「足らぬ」なので、「足らない」も新しい言い方ではある。
「足りる」は「足る」が変化した言葉であるように、「借りる」は「借る」、「飽きる」は「飽く」と言っていた。
しかし、「借りない」を「借らない」、「飽きない」を「飽かない」とは、あまり言わないことを踏まえると、今以上に「足らない」の使用が減り、「足りない」のみ使うようになる可能性もある。
物事の成り行きや結果が気になり、心が落ち着かないことを「心配」「不安」「気がかり」といい、「子供の将来が―だ」という場合は、いずれの語も使える。
「不安に襲われる」「不安な一夜を過ごす」というように、何か悪いことが起こるのではないかと漠然と気になる場合には、「不安」が多く使われる。
「天候が心配だ」「天候が気がかりだ」、「夫の体調が心配だ」「夫の体調が気がかりだ」のように、気になることが明確な場合や、具体的な兆候があって気になる場合には、「心配」「気がかり」が多く使われる。
「将来を心配する」「住居の心配をする」など「―(を)する」の形では、「不安」や「気がかり」は使えない。
「心配」は、気にかけて面倒を見たり、世話をするという意味でも使われる。
とくちょう」の漢字には「特徴」と「特長」があり、どちらも他と比べて目立った点を意味するが、特徴と特長の違いは、良い点・悪い点に関係なくいうか、良い点のみをいうかの違いである。
特徴の「徴」の漢字は「しるし」と読み、他と区別する印となるものが「特徴」で、類語は「特色」である。
他と比べて目立つところが良いか悪いかは関係なく、他の人とは違って目立つところをいい、「特徴のある顔」や「犯人の特徴」などと使う。
特長の「長」は「長ける」「優れた」という意味で、類語には「長所」があり、他よりも特に優れた点を意味する。
特徴の中でも良い点だけをいうため、「新商品の特長」「個人個人の特長を活かす」のように使う。
「とくちょう的」という場合、ふつう「特徴的」のみで「特長的」は使われない。
「特徴的な声」は他の人と区別できるような独特の声という意味で、問題なく使える。
しかし、美しい声であることを表すために「特長的な声」といってしまうと、他の人よりも優れたような声という意味になり、優れているとは限らないニュアンスになってしまう。
そのため、「特長的」という言い方はしないのである。
改定と改訂は、いずれも「かいてい」と読み、改めることを意味する点では共通するが、改めて何をするかとうい点で意味に違いがある。
一般的には「改定」が多く使われる。
改定には「定」の字が含まれているように「改めて定める」ことで、従来の制度や規則などを改めて定めることを意味する。
「価格を改定する」や「時刻表を改定する」などと使う。
一方の「改訂」は限定的に使われる。
「訂正」の「訂」の字が含まれているように、改訂は「(文字や文章を)改めて正す」ことで、書物や文書などの内容や表現の仕方などを改め直すことを意味する。
「改訂版」や「旧版を改訂する」などと使う。
「改定」と「改訂」の使い分けを間違いやすいのは法律用語として用いる場合で、法律の改正などによって法令文を改めることは「改定」と表記する。
改正には「正す」という字が含まれており、法令文は「文」であるため「改訂」を使いそうになる。
しかし、改正は法律・制度を改めて変えることをいい、法令文を改めることは「文」を改めることを表すのではなく、法律という規則が変更することを表すので「改定」と書くのである。
ただし、新版の法令集を出版する場合は、改定された法令文に沿うよう文書を改めて正すことを意味するため「改訂」と表記する。
ゆっくりとのんびりは、「ゆっくり歩く」と「のんびり歩く」のように急がないさまや、「ゆっくり過ごす」と「のんびり過ごす」のように気楽なさまの意味では共通して使える。
しかし、ゆっくりは何かしら基準となるものがあり、それに対して急がないさまや気楽なさまを表すが、のんびりは基準とは関係ないところで、急がないさまや気楽なさまを表すため、共通して使えないこともある。
ゆっくりは、時間をかけて動作・運動が行われるさまや、時間・空間・気持ちにゆとりがあるさまをいい、基準に対して遅いことや余裕があることをいう。
のんびりは、心身がゆったりと落ち着いてるさま、制約を受けずに心の向くまま行動するさまをいう。
「ゆっくり腰を上げる」のように動作が遅いさまや、「ゆっくり座れる」のように空間に余裕があるさまを表す場合、基準となる時間や空間に対して、遅かったり、余裕があることをいうため「のんびり」は使えない。
こせこせしていないことをいう「のんびりとした性格」や、のどかなさまを表す「のんびりした風景」などを、「ゆっくり」に言い換えることはできない。
これは何かの基準に対してどうあるかではなく、「落ち着き」という精神的なことに重点が置かれているためである。
発達・発展・進展・進歩・向上は、物事が進むという意味で共通し、進展以外の四語は、技術・学問・社会などが前よりも上の段階に進むことに使われるという点でも共通する。
発達は、成長して完全な形に近づくことや、規模が大きくなることを意味する。
そのため、発達は心身に関することや、台風などの自然現象についても使われる。
発展は、物事の勢いや力などが伸び広がることを意味する。
海外へ発展する、話が発展するのように、規模や領域が広がることに重点を置いた表現には、発展が使われる。
進展は、物事が先の方に進んで、新たな局面を迎えることを意味する。
その進む方向が良いか悪いかということは問題にせず、進んで変わるというところに重点が置かれるのが進展である。
進歩は、物事が次第に良い方向や望ましい方向へ進むこと。
向上も、より良い方向や前よりすぐれた状態に向かうことを意味する。
進歩は悪いところを改め、良いところを伸ばしたり取り入れることであるが、向上は全体的にレベルが上がることを意味し、数値的なレベルが上がることに進歩は使えず、向上を使う。
また、学力などの能力的なことには、進歩・向上のほかに発達も使われるが、発達は先天的な部分、進歩・向上は後天的な部分についていう。
忖度は斟酌と同じような意味で使われることが多いが、忖度の本来の意味は斟酌と同じではない。
忖度の本来の意味は、他人の心中を推し量ること。つまり、相手の気持ちを考えることを表す。
忖度の「忖」も「度」も「はかる」という意味で、特に「忖」には「心(立心偏)」が使われているように、人の心をはかる(推測する)という意味である。
斟酌の意味は、相手の心情を考慮することや、考慮して取り計らったり手加減すること。あれこれ照らし合わせて取捨すること。控えめにすることなどの意味があり、忖度と類似するのは、はじめの意味である。
忖度は相手の心中を察するところまでで、斟酌のように取り計らったり手加減するといった、行動に移すという意味は含まれないため、使い分けのポイントとしては、行動が伴うか伴わないかになる。
しかし、2000年代に入ってから、忖度は目上の人の心中を推し量る、目上の人の意向を汲み取るといった意味で使われるようになった。
森友学園問題以降は、目上の人の意向を考慮して取り計らうという、行動を伴った意味で使われ始め、流行語として広く使われるようになってからは、対象も目上・目下関係なくなり、忖度と斟酌の意味に違いがなくなってきたのである。
身に危険を感じて不安であったり、不気味で避けたい気持ちになることを「恐ろしい」「怖い」「おっかない」という。
「恐ろしい」は客観的な表現。「怖い」と「おっかない」は主観的な表現である。
「恐ろしい事件」「怖い事件」「おっかない事件」はどれも使える。
また、「恐ろしかった」「怖かった」「おっかなかった」も使える。
しかし、自分が事件に巻き込まれ、その時の感情も含めて伝える場合、「恐ろしい事件に巻き込まれて、怖かった」という言い方は出来ても、「怖い事件に巻き込まれて、恐ろしかった」と言うと不自然になる。
これは、客観的に危険性を伝えるのが「恐ろしい事件」であり、主観的な恐怖感を伝えるのが「怖かった」だからである。
「おっかない」も「怖い」と同じ主観的表現だが、「恐ろしい事件に巻き込まれて、おっかなかった」と言った場合は、やや不自然になる。
これは、「恐ろしい」がやや改まった言葉であるのに対し、「おっかない」は俗語的で軽い印象を与え言葉で、客観的な危険性(恐ろしい)と主観的な恐怖感(おっかない)とのバランスが取れていないためである。
曖昧」「あやふや」「うやむや」は、物事がはっきりしないさまをいう。
曖昧は、意図的にごまかしてはっきりさせない場合にも、意図せず不確かな場合にも用いる。
あやふやは、意図せず不確かな場合に用いる。
その人自身がはっきりわきまえておらず、確かな表現ができないことをいうため、あやふやは曖昧よりも、毅然とした態度ができない頼りない様子となる。
うやむやは、意図的に不確かにしてごまかす場合に用いる。
その人自身ははっきりとわきまえているが、はっきりさせないままにしておくことで、うやむやは曖昧よりも、ごまかしの意味が強くなる。
「記憶が曖昧」「記憶があやふや」のような使い方はできるが、うやむやは記憶がはっきりしていても、意図的にはっきりさせないことなので、「記憶がうやむや」といった使い方はできない。
あやふやは意図せず不確かになることなので、「あやふやになる」。
うやむやは意図して不確かにすることなので、「うやむやにする」。
曖昧はどちらの場合にも用いるため、「曖昧になる」「曖昧にする」と表される。
ねだる」「せがむ」「せびる」は、私的に何かを強く要求することであるが、ニュアンスに違いがある。
「ねだる」と「せがむ」は、親密な関係にあるものが、甘えるように要求すること。
「ねだる」は、物品の要求や行動など、使われる範囲が広い。
「せがむ」は、「抱っこをせがむ」のように、行為を要求する意味で多く用いる。
「お小遣いをねだる」と「お小遣いをせがむ」はどちらも使うが、「せがむ」は行為の要求になるため、「お小遣いをくれとせがむ」とした方がより正しい言い方となる。
行為を要求する意味では、「ねだる」も「せがむ」も使えるが、「ねだる」の方が幼児的なため、大人が他人に行為を要求するのであれば「せがむ」を使う。
「せびる」は、無理やり要求を通そうとしたり、弱みに付け込んで、金品を強要することを表す。
親密な関係である必要はなく、些細な関わりがある程度でも用い、「ねだる」や「せがむ」よりも甘える要素が少なくなる。
夢と希望は、実現を望み願う事柄や、将来に対する期待の意味で使われる。
しかし、夢には睡眠中に見る幻覚体験や、現実離れした空想、心の迷いなどの意味もあるため、希望に比べて実現する可能性が低く、非現実的なことについて使われる。
たとえば、「プロ野球選手になる夢が叶った」とは言うが、「プロ野球選手になる希望が叶った」とは言わない。
プロ野球選手になれるのは、ごく一部の人だけであり、実現する可能性が極めて低いから「希望」ではなく「夢」なのである。
既にプロ野球選手になれることは確定しており、入りたいと思っているところへ入団することをいう場合は、さほど現実離れしたことではないため、「希望の球団に入ることができた」となる。
しかし、幼い頃から憧れていた球団に入れたことを表す場合は、プロ野球選手として通用するか不明な段階から望んでいたことなので、「希望」ではなく「夢」を使う。
望む事柄にもよるが、現実的・非現実的というのは、上記のように期間・時間の長短によっても変わるため、遠い将来のことを語る場合には「夢」、近い将来のことを語る場合には「希望」を使うともいえる。
また、希望は「ご希望に添えず申し訳ございません」という形でも使われるが、「夢」は使われない。
仮に、相手の望みが非現実的なものであったとしても、「夢」ではなく「希望」を使う。
これは、謝罪の言葉なので「本来であれば実現させるべきところ」という意味が込められているためである。
十分(充分)に楽しんだ」と「存分に楽しんだ」のように、十分と存分は物事を満足のゆくまでするさまの意味では共通して使われる。(十分と充分については「十分と充分の違い」を参照)
十分は、十等分したうちの10というところから、「満ち足りて不足・欠点がないさま」を意味する。
「思い通り」や「思うまま」を表すのは、「満ち足りている」という意味からの派生である。
存分の「存」は「異存はない」「努力する所存です」などに使われるように、「思う」「考える」という意味がある漢字で、現代ではあまり使われないが、存分には「思うところ」「考え」という意味もある。
満ち足りた状態の意味で使う際も、存分は「思い」や「考え」について満ち足りた状態を表すため、「思い通り」や「思うまま」という意味になる。
しかし、数値的に不足がないさまや、ある基準に対して満ち足りているさまを表すことができないため、「十分な量がある」のような使い方はできない。
このことから、「力を十分に発揮する」と「力を存分に発揮する」のように、似た表現であっても表している意味に違いが出てくる。
十分は「力」を基準のある数値的なものとして捉えることができるため、「力を十分に発揮する」は「力の限り(不足なく)発揮する」という意味で使える。
しかし、存分は「思い」や「考え」について満ち足りた状態にしか使えないため、「力を存分に発揮する」といった場合は、「力を思う存分に(思い通りに)発揮する」という意味になる。
上記のことを踏まえて冒頭の「十分に楽しんだ」と「存分に楽しんだ」を比較すると、「十分に楽しんだ」は「楽しめる限界に達するまで楽しんだから満足」、「存分に楽しんだ」は「限りにとらわれず、思い通りに楽しんだから満足」と解釈できるのである。
楽しい」よりも「面白い」の方が意味に幅があり、様々な解釈ができる。
また、意味が共通する点もあるが、ニュアンスには違いがある。
楽しいの意味は、心が満ち足りて、愉快な気持ちである。豊かである。
面白いの意味には、こっけいで笑いたくなる。愉快である。楽しい。気分が晴れ晴れする。一風変わっていて珍しい。心がひかれる。趣深いなどがある。
「楽しい人」といった場合は、おかしくて笑いを誘うような人、滑稽な人、心が満ち足りて快くなる人という意味を表す。
「面白い人」といった場合は、「楽しい人」が表す意味のほかに、かわっていて珍しい人、心がひかれる人、興味深い人などの意味も表す。
このように面白いの方が意味に幅があるが、楽しいと共通しているところもある。
しかし、共通する意味の中でも、持続性の感情を表すのか一過性の感情を表すのかという違がある。
楽しいは、この気持ちをできれば続けたいという持続性のある感情で、「一緒にいて楽しい人」といえば、この関係をいつまでも続けたいという気持ちも含まれる。
面白いは一過性の感情で、「一緒にいて面白い人」といえば、ある一瞬・一時的に快い気持ちになれる人を意味し、「面白い」だけでこの関係を続けたいという気持ちを表すことはできない。
「楽しい出来事」と「面白い出来事」の場合でも、できれば続いて欲しいと思える出来事だったのか、瞬間的に快いと思った出来事だったのかという点で使い分けられ、持続性と一過性の違いといえる。
一生懸命と一所懸命は、命懸けで物事に取り組むことを意味するが、違いが全くないわけではない。
一所懸命の元々の意味は、中世の武士が賜った一カ所の領地を命懸けで守り、生活の頼みとすることで、「一所」は「一カ所(の領地)」を表す。
これが近世に入ってから、物事を命懸けでするという意味になったため、「一所」と「一生」が混同され、「一生懸命」という言葉が生まれた。
一生懸命は「一所懸命の誤用」とされていた時代もあったが、「一生」を使った方が「力の限り」というニュアンスが伝わりやすく、「一生懸命」の表記が圧倒的に多くなったことから、誤用という解釈はされなくなり、現在は新聞などでも「一生懸命」の表記に統一されている。
しかし、「一所懸命」を使う場面が全くなくなったわけではない。
歌舞伎の挨拶では、多くの場合「一生懸命」ではなく「一所懸命」が使われる。
歌舞伎なので古い言い方をするというのも理由の一つだが、代々伝わる屋号(一所)を命懸けで守るという意味を含んでいるためでもある。
つまり、命懸けで物事にあたることを表すのであれば「一生懸命」と書くのが一般的だが、「一カ所を守る」という本来の意味を含んで使いたい時には、「一所懸命」と書くのが正しいのである。
ちなみに、「一所懸命」の読みは「いっしょけんめい」、「一生懸命」の読みは「いっしょうけんめい」なので、漢字と読みが一致していないものは間違いとなる。
手段と方法の意味は、ある目的を実現させるためのやり方のことで共通し、「有効な手段」は「有効な方法」に言い換えが可能である。
しかし、方法は目的に達するための計画的・全体的なやり方の意味で使うことが多いのに対し、手段はその一部で、目的に達するための個々の段階的・具体的なやり方の意味で使うことが多い。
そのため、「方法的に誤っている」「サービスのご利用方法」「方法論」など、目的に達するための全体的なやり方を表す場合は、「手段」に言い換えると不自然になる。
「卑劣な手段に出る」「非常手段」「交通手段がなくなった」など、目的に達するための具体的なやり方を表す場合、「方法」では不自然になるのである。
また、「方法」と「手段」のどちらを使っても不自然ではないが、表す対象範囲が変わってくることもある。
「彼はこのような方法で成功した」といった場合は、成功(目的)に繋がる行動の全てを表す。
これを「手段」に置き換えると、決め手となったある一点の行動を表すことになる。
違うと異なるは、ある物事が他の物事と同じではないことを意味する点では共通するが、まったく同じように使えるわけではない。
「色が違う」と「色が異なる」、「事実と違う」と「事実と異なる」などは、どちらを使っても間違いではないが、「違う」は一般的に使われる語であるのに対し、「異なる」は文章語的であるため「違う」に比べてやや硬い表現となる。
学問の分野、特に数学では「異なる2本の線が交差する……」など、「違う」よりも「異なる」を使うことが多い。
「違い」を含む言葉には「間違い」「勘違い」「場違い」「お門違い」などがあるように、「違う」は比較する対象が二者間、三者間だけでなく、正しいもの、基準となるもの、一般的なものとの比較にも使われる。
そのため、「違う」は正しくない、隔たりがあるといった意味も持っている。
たとえば、「答えが違う」と「答えが異なる」は、(AとBの)答えが同じではないという意味だが、「答えが違う」は答えが間違っている、正解ではないという意味でも使える。
「性能が違う」と「性能が異なる」は、(AとBを比較して)性能が同じではないという意味だが、「性能が違う」は一般的な性能よりも優っている(劣っている)という意味でも使われる。
ただし、比較対象を明確にしている場合には「異なる」も使える。
不正解の意味の「答えが違う」は「正解と異なる」に言い換えでき、一般的な性能ではない意味の「性能が違う」は「一般的な性能とは異なる」のように言い換えることは可能である。
近い過去から現在までの期間を意味する言葉には、「最近」「近頃」「この頃」「昨今」などあるが、同じように使える場合と使えない場合があるので使い分けが必要である。
「昨今」は文章語なので、硬い口調で古い印象を与える場面であれば会話の中でも使えるが、ふつうの会話の中では「最近」「近頃」「この頃」が使われる。
「―流行っている」のように、近い過去から現在まで継続している事柄については、「最近」「近頃」「この頃」「昨今」の全て使うことができるが、時間的な幅に違いがある。
時間的な幅が広い事柄にも使えるのは「最近」「近頃」「昨今」で、最も時間幅が広いのは「最近」、その次に「近頃」「昨今」となる。
「この頃」は少し前から今までを表すため、「―の若者は…」のようにやや長い期間を表す場合には使いにくい。
「彼に会ったのは最近だ」のように、過去のある一時点、一度限りのことについていう場合に、「この頃」「昨今」は使えない。
「彼に会ったのは近頃のことだ」のように「のこと」を付け加えれば「近頃」も使えるが、「最近」の方が自然である。
難しい」「困難」「至難」は、実現することが簡単ではないことを意味する。
三語の中で「難しい」が最も一般的に用いられ、意味の幅も広い。
「困難」と「至難」は「難しい」に比べてやや硬い表現となり、意味の幅は狭い。
難しいには、面倒であることや、気むずかしくて好みなどがうるさいこと、「難しい表情」のように不機嫌であることなども意味するが、「困難」や「至難」にはそのような意味がない。
困難の意味は、障害などがあって成し遂げることが容易ではないこと、苦労することや苦しみ悩むことである。
「彼と一緒に仕事をするのは難しい」といえば、簡単でないことや面倒であることを意味するが、「彼と一緒に仕事をするのは困難だ」といえば、簡単でないことや苦労することを表す。
至難は、この上なく難しいことを意味する。
「至難の業」の形で使うことが多く、よほどのことでない限り用いない表現で、容易ではない度合いが「難しい」や「困難」よりも上である。
また、「難しい」や「困難」は状況の変化によって簡単でなくなる場合にも使うが、「至難」は極めて困難であることが前もってわかっている場合にのみ使う。
そのため、「今は難しい状況だ」「今は困難な状況だ」とはいうが、「今は至難な状況」とはいわない。
東京周辺の界隈を「関東」または「首都圏」と呼びますね。いったいどこからどこまでが、「関東」でどのあたり「首都圏」なのか疑問に思ったことはありませんか? 二つの違いについて解説します。
関東とは
一般的には日本の8地方区分で「関東地方」の事を指します。 8地方区分で「関東地方」に分類されるのは、東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬の1都6県です。
8地方区分
【北海道地方】
北海道(1道)
【東北地方】
青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島(6県)
【関東地方】
東京、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、神奈川(1都6県)
【中部地方】
新潟、富山、石川、福井、山梨、長野、岐阜、静岡、愛知(9県)
【近畿地方】
京都、大阪三重、滋賀、兵庫、奈良、和歌山(2府5県)
【中国地方】
鳥取、島根、岡山、広島、山口(5県)
【四国地方】
徳島、香川、愛媛、高知(4県)
【九州地方】
福岡、佐賀、長崎、大分、熊本、宮崎、鹿児島、沖縄(8県)
しかし、8地方区分は法的な取り決めではなく、「関東」は広義にはもう少し広いエリアについて用いられる場合があります。
首都圏とは
上記「8地方区分」とは別で、東京を含む1都7県と規定されています。 災害などの緊急事態が起こった場合に備えるための方策として昭和31年に「首都圏整備法」にて制定されました。 東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬の1都6県に山梨県を加えた、1都7県の事を言います。
要するに!
・「関東」→東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬
・「首都圏」→関東+山梨県
キリスト教の聖職者の呼び名として用いられる「神父」と「牧師」。 キリスト教徒でない人も、この呼び方は聞いたことがあるでしょう。しかし、「この違いは?」というと知らない人が多いはず。
例えば、チャペルで婚礼の儀式を取り扱ってくれるのは、「神父」さん?それとも「牧師」さん? この二つの聖職者の呼び名には、次のような違いがあります。
神父とは
実は、同じ宗教の中にも宗派というものがあり、教えや戒律、あるいは信仰の対象が異なる場合があります。 例えば、日本の仏教にも十八宗と呼ばれる宗派があり、葬儀や法事のとり行い方がそれぞれ異なります。
話が少し横道にそれましたが、「神父」という呼び名は、キリスト教の二代宗派のひとつ「カトリック」教会で用いらる、聖職者に対する総称なのです。
牧師とは
キリスト教の二代宗派「カトリック」と「プロテスタント」のうち、「プロテスタント」で用いられる、信仰上の教師という立場の人です。 「神父」さんと異なる点は、「牧師」さんは聖職者という立場ではないという考え方です。 「プロテスタント」には聖職者という概念はありません。信者を牧するリーダーとして敬われている人が「牧師」さんなのです。
二つの違いとは、直接かかわりのない事ですが、冒頭で述べた、チャペルで婚礼の儀式を取り扱ってくれるのは、「神父」さんなのか、それとも「牧師」さんなのかという話。 これも、自身が「カトリック」と「プロテスタント」のどちらを信仰しているかで本来は異なるのです。
しかし、日本においてはチャペルでの婚礼は単なるパフォーマンスに過ぎず、新郎新婦がクリスチャンですらない場合がほとんどです。 ですから、チャペル側が用意してくれる「牧師」さんは、単にアルバイトの普通の外国人だったりします。
要するに!
・「神父」→カトリック教会の聖職者
・「牧師」→プロテスタントの教師
食品を保存できる期間として表記されている「賞味期限」と「消費期限」。 こららは食品衛生法とJAS規格(日本農林規格)で定義が定められており、二つの表記には次のような違いがあります。
賞味期限とは
定められた方法により保存した場合に、食品のすべての品質が十分保たれていると認められる期限です。 つまりその食品を「美味しく食べられる期限」と考えることができます。
「賞味期限」は、缶詰、缶や瓶のドリンク類、スナック菓子、インスタントラーメンなど、基本的に長期(5日を超える)保存が可能な食品に 表記されいます。ですから、表記が「賞味期限」の場合は、期限を過ぎても食べられなくなるわけではありません。
消費期限とは
定められた方法により保存した場合に、腐敗・変敗その他の食品の劣化に伴う衛生上の危害が発生するおそれがないと認められる期限です。 こちらは、「賞味期限」とは違い、期限を過ぎたものを食べると健康を害する可能性があります。
コンビニなどのおにぎり、弁当や惣菜、食肉、牛乳、生もの全般など、概ね5日以内に品質面で著しい品質低下が認められる食品や食材に表記してあります。 消費期限が切れた食品は、食べないように注意しましょう。
因みに、「賞味期限」「消費期限」共に、開封していない状態で表示されている保存方法に従って保存したときの期限が書いてあります。開封した場合は期限に関わらず早めに食べる、または使い切るようにしましょう。
要するに!
・「賞味期限」→美味しく食べられる期限
・「消費期限」→安全に食べられる期限く
正社員ではなく時給で働く労働者の事を、「パート」と言ったり「バイト」と言ったりしますが、 この二つの違いはどこにあるのでしょうか?
パートとは
パートタイマーの略で、通常の労働者と比べ労働時間がかなり短い人のことを指します。
バイトとは
アルバイトの略で、他に本業を持つ人が副業的に行う労働や、学生が学業のかたわらに行なう仕事の事を指します。
法律上の違いは
法律上では、「パート」「バイト」のどちらも、「パートタイマー」と呼ばれ、パート労働法により「1週間の所定労働時間が通常の労働者の1週間の所定労働時間に比べて短い労働者」と定められています。
ですから法律上また、社会保険や福利厚生面に差はありません。 なぜ、「パート」と「バイト」二つの言葉があるのかというと、企業側が求人などを行う際に「パート」=主婦向け、「アルバイト」=学生や本業を持つ短時間労働者向け、と区別しやすくするため、というのが主な理由なのです。
要するに!
・「パート」→労働時間が短い非正社員など
・「バイト」→副業など、かたわらに行う仕事
年越しからお正月にかけて、日本では特定の日に、特定の名前をつけて呼ぶことがあります。 例えば、年末の12月31日の事を「大晦日」、1月1~3日を「三箇日(さんがにち)」といいますよね。
そして、1月1日は「元日(がんじつ)」ですよね。でも、アレ?「元旦(がんたん)」って呼びかたもありますね。 どちらも、一年の一番最初の日に使われますが、2つの違いって何なのでしょうか?
元日とは
年が明けてから24時間。新年の一番最初の日。つまり1月1日の事を指します。
元旦とは
元日の朝、日の出頃の事を指します。 元旦の「旦」の字は、日(太陽)地平線から出てくるところを表現しています。 つまり日の出、元日、1月1日の朝を意味しています。
「元日」がその日、一日を指しているのに対し、「元旦」は特定の時間帯を指しているという事ですね。 ですから、「元旦の朝」というような使い方は間違いとなりますので注意しましょう。
要するに!
・「元日」→1月1日
・「元旦」→1月1日の日の出頃
水道のバルブなどを回して開けることを、「ひねる」と言いますが、これと似た表現に「ねじる」という言葉があります。 この二つには次のような違いがあります。
ひねるとは
一方向に、比較的軽い力で回すという意味があります。水道の蛇口などの固定されたものを楽な力で回す場合に用いられます。
ねじるとは
同時に逆方向にしっかりと力を加えるのが「ねじる」です。例えば、雑巾を絞る時は、端と端を持って逆方向にしっかりと回します。この場合「ねじる」が適切です。
要するに!
・「ひねる」→一方向に、比較的軽い力で回す
・「ねじる」→同時に逆方向にしっかりと力を加える
日本の国技、大相撲で活躍する「お相撲さん」の事を「力士」と呼んだり「関取」と呼んだりします。 どちらも、「お相撲さん」全般に対して使えるのかと思いきや、そうではないんです。 「力士」と「関取」という名称には次のような違いがあります。
力士とは
これは、「お相撲さん」全般の総称です。すべての相撲取りを力士と呼ぶことが出来ます。
関取とは
大相撲には「横綱」「大関」等の番付とは別に、次のような階級が定められています。「幕内」「十両」「幕下」「三段目」「序二段」「序ノ口」 これは、力の差がありすぎる力士が直接対決しないようにする方式で、野球に2軍、サッカーのJ2のようなものです。 「関取」とは、このうち「十両」以上の力士に対する総称です。いわゆる一軍選手のようなものです。
要するに!
・「力士」→相撲取り全体の総称
・「関取」→十両以上の力士の名称
お弁当などを持って、山や公園に出かけることを「ピクニック」と言いますが、これと似た意味で「ハイキング」という言葉もよく使われます。 「ピクニック」と「ハイキング」は同じようなイメージで使われますが、厳密には次のような違いがあります。
ピクニックとは
屋外でランチなどを食べて楽しむことです。山や公園など景色のいいところに出かけて食事をすることが目的です。
ハイキングとは
屋外に出て散歩などをして楽しむことです。運動そのものや自然散策などが目的です。
要するに!
・「ピクニック」→屋外で食事を楽しむ
・「ハイキング」→屋外を歩いて楽しむ
「おざなり」と「なおざり」という言葉はどちらも、物事を「適当に、いいかげんに対処する」というような意味で用いられます。 しかし実際には、明確な意味の違いがあります。
おざなりとは
物事を適当に、いいかげんに済ましてしまうことです。 漢字では「お座成り」と書き、これは江戸時代の幇間(ほうかん)の隠語だったという説が一般的です。 お座敷の時に、お客によって扱いを変える、つまりその「お座」なりに適当にやるという意味を持ちます。。
なおざりとは
物事に着手せず、そのまま放っておくという意味です。「おざなり」が物事をいい加減に行うのに対して、「なおざり」は行う事すらしないということになります。。 漢字では「等閑」と書き「とうかん」と読む事も出来ますが、意味は「なおざり」同じです。
要するに!
・「なおざり」→物事をいい加減に行う
・「おざなり」→ないがしろにして物事を行わない
小学校で習う「算数」という教科は、中学校になると「数学」という名前に変わります。 数字を扱う学問という事に変わりはありませんが、2つの教科には次のようなプロセスの違いがあります。
算数とは
日本では小学校で習得します。「足し算」「引き算」「掛け算」「割り算」などの基本的な計算を「正しくする」、また「計算力を高める」ことに重点が置かれています。 基本的に答えを導くプロセスに重きは置いておらず、暗記(暗算)をすれば良い場合も多くあります
数学とは
数および図形についての学問の総称ですが、小学校で習う「算数」と異なる点は、「答えに至るまでのプロセス」が重視される事です。 計算すれば解ける「算数」に比べて考える力が求められます。
要するに!
・「算数」→計算力を高めるための学問。
・「数学」→答えに至るプロセスを追求する学問。
薄毛に効果のあるヘアケア製品にはいろいろな種類のものがありますが、大きく分けると「育毛剤」「養毛剤」「発毛剤」に分けることが出来ます。 それぞれには次のような違いがあります。
育毛とは
今生えている髪をより太く成長させる事を言います。見た目のボリュームが出るだけでなく、太くなることで抜けにくくなります。 元々生えているものを強くするので、髪が無くなってしまった人には効果はありません。
養毛とは
髪に栄養を与えて栄養不足による抜け毛を防ぐものです。現在ではよほど偏った食生活を送っていない限り、髪に栄養がいかなくなる事はありません。 ですから、髪の栄養不足は頭皮の血管が収縮して起こる場合が多く、この場合は養毛剤を使うより頭皮マッサージの方が効果があります。
発毛とは
毛髪を作る毛母細胞の働きを活性化して、休んでいる毛穴から再び髪を生やす事を言います。 育毛、養毛は今生えている髪に対して行うものですが、発毛は休んでいる毛根に働きかけ髪を生やすものです。
要するに!
・「育毛」→今生えている髪を育成する。
・「養毛」→髪に栄養を与えて抜け毛を防ぐ。
・「発毛」→休んでいる毛穴を活性化し再び髪を生やす。
中学や高校などの音楽部の代表といえば、吹奏楽部ですが、これと似たものにブラスバンド部というものもあります。 吹奏楽とブラスバンド、いったいどこがどう違うのでしょうか?この2つには次のような違いがあります。
吹奏楽とは
トランペットやトロンボーンといった「金管楽器」と呼ばれる楽器と、フルートやオーボエといった「木管楽器」と呼ばれる楽器に打楽器を加えた楽団の事を言います。 オーケストラからバイオリンやビオラ等の「弦楽器」を除いた構成と考えれば分かりやすいかもしれません。
ブラスバンドとは
上記吹奏楽団からさらに「木管楽器」を除いた構成の楽団です。
要するに!
・「吹奏楽」→金管楽器+木管楽器+打楽器の構成
・「ブラスバンド」→金管楽器+打楽器の構成
家屋などの建物を地震から守る為の技術を「耐震」と言いますが、これと似た意味で「免震」という言葉が使われることもあります。 この2つの言葉には次のような違いがあります。
耐震とは
建物が地震で倒壊したり破損したりしないようにする技術を耐震と言います。主に柱や「はり」または基礎部を強化したり、補強材を入れることで建物自体を強固にします。
免震とは
地震の時におこる建物内の揺れを軽減する技術を免震と言います。免震装置等を設置し、激しい地震の揺れを吸収することで家具の転倒等、家の中の被害を最小限に食い止めます。
要するに!
・「耐震」→建物が地震で倒壊し内容にする技術
・「免震」→建物内の揺れを軽減する技術
子供の虐待に関する報道を見ると、いたたまれない気持ちになります。その虐待に関する報道などで、ネグレクトという言葉を聞いたことはないでしょうか? ネグレクトは虐待とは少し違った意味を持った言葉で、次のような違いがあります。
虐待とは
自分の保護下にある人や動物等に対し、暴力をふるったり日常的にいやがらせなどの行為を行うことを言います。 そして、保護者が子供に対して何らかの苦痛を与えることを「幼児虐待」と言い、「身体的虐待」「性的虐待」「心理的虐待」「養育放棄」の4つに分類されます。
ネグレクトとは
ネグレクトとは、上の4つの幼児虐待のうち「養育放棄」に対して用いられる、特定の用語です。 病気や怪我をしても病院に連れて行かない、学校へ行かせない、食事を与えない等、必要な育児を怠ったケースと言えます。
要するに!
・「虐待」→自分の保護下にある者に暴力やいやがらせなどを行う
・「ネグレクト」→幼児虐待のうち「養育放棄」を指す特定の言葉
「ねずみ講」とか「マルチ商法」と聞くと、なんだか怪しい商売とイメージされることでしょう。どちらも同じようなものと考えている人も多いようですが、この二つには次のような違いがあります。
ねずみ講とは
まず、お金を支払って組織の会員になります。会員になると次は他の人を勧誘して会員を増やす度に紹介料を得ることができます。 自分の勧誘した会員がさらに会員を増やせば、自分にも紹介料の一部が入ります。そのようにして、親会員から子会員へ、子会員から孫会員へと無制限に増殖していき、上の会員ほど儲かるシステムのことです。
紹介料の分配方式は、組織によって異なりますが、上位会員ほど儲かり、下にいけばいくほど儲からないことは共通しています。
ネズミ講は「無限連鎖講防止法」という法律で禁止されています。
マルチ商法とは
正式には、マルチレベルマーケティング(MLM)と言います。MLMは「特定商取引法の第33条」に記載されている「連鎖販売取引」にあたり、違法ではありません。
組織がねずみ算的に拡大していくシステムである事や、下に行くほど儲かりにくくなる事はねずみ講と同じです。
ねずみ講と違うのは、お金だけが回っているのではなく、きちんと商品やサービスを提供している点です。
要するに!
・「ねずみ講」→「無限連鎖講防止法」で禁止されている違法行為
・「マルチ商法」→「特定商取引法の第33条」に記載されている「連鎖販売取引」
企業などはお客様のクレームに応じなくてはいけない場面があり、それを「クレーム対応」と言ったりしますが、この「対応」と言う熟語の前後を入れ替えた「応対」と言う言葉もあります。 「電話で応対する」「応接室で応対する」など、こちらも接客絡みの言葉としてよく用いられます。 漢字を入れ替えただけの「対応」と「応対」この二つには次のような違いがあります。
対応とは
周囲の状況などに合わせて物事を対処することを「対応」すると言います。この場合の対処する事柄は、人であったりモノや現象等様々です。 何らかのアクシデントに対応する。お客のクレームに対応する。新製品を導入し対応する。
応対とは
「応対」という言葉は、相手に応じて受け答えするという意味になりますので、相手が人に限定されます。 電話や接客に限定して使われる言葉と言えます。
要するに!
・「対応」→周囲の状況などに合わせて物事を対処すること
・「応対」→相手が人に限定される
以下と未満の違いについては、皆さん小学校の高学年ぐらいで習った記憶がある事でしょう。しかし、「ん?どっちだったっけ?」となることはありませんか? ここでおさらいと共に、簡単な覚え方を紹介したいと思います。
未満とは
未満は、ソレを含まない場合に用います。「20歳未満はお酒を飲めない」であれば、20歳は含みませんので、20歳は飲めるという事になります。 「小学生未満無料」であれば、小学生は有料という事になります。
以下とは
以下は、ソレを含める場合に用います。お酒の場合なら「19歳以下はお酒を飲めない」という事になります。 「小学生以下無料」であれば、お金がかかるのは中学生からです。
同じように「以上」もソレを含める言い方で、含めない場合は「超える」を使います。 「以上」「以下」「超える」「未満」の覚え方は、「以(より)」という漢字が入っている場合は含める、入っていない場合は含めない。と覚えておけば簡単です。
要するに!
・「未満」→ソレを含めない
・「以下」→ソレを含める
あいまいで、定かではないことを表現して「あやふや」といったり、「うやむや」と言ったりします。 この二つの言葉は、似たような意味で用いられますが、次のような違いがあります。
あやふやとは
不確かで曖昧な状態が「あやふや」です。よく「記憶があやふやでわからない」といいますが、 これは、思い出そうとしても思い出せず不確かであると理解することができます。
うやむやとは
不確かであるという点では「あやふや」とおなじですが、「うやむや」という表現には、わざとごまかして不確かにしておくという意味があります。 「あやふや」が意図的でないのに対し、「うやむや」は意図的であると捉えることができます。ですから、「あやふやになる」というのに対し「うやむやにする」と表されます。
要するに!
・「あやふや」→意図せず不確かで曖昧な状態
・「うやむや」→意図的に不確かで曖昧にしておくこと
現在勤めている職場を辞めることを「退職」する、あるいは「退社」すると言います。この二つの言葉は同じような意味ですが、厳密には次のような違いがあります。
退職とは
現在勤めている職場、会社などを辞める場合に使われます。 定年による退職をはじめ、結婚や転職等の理由によって、現在の職場を辞める場合などすべてが「退職」と言えます。
退社とは
「退職」と同じく勤め先を辞める場合に用いる言葉ですが、「社」という漢字からわかるように、勤め先が「会社」の場合に限定されます。 ですから、組合・公務員等、会社組織ではない勤め先を辞める場合は、「退社」ではなく「退職」が適切です。
また、「退社」には仕事が終わって会社から引き上げる、という意味もあります。ですから、口頭で会社を辞める事を伝える場合は「退職」を用いたほうが誤解を招かないでしょう。
要するに!
・「退職」→現在勤めている職場を辞める。
・「退社」→①勤めめている会社を辞める。②仕事が終わって会社から引き上げる。
責任のある職務や役職を辞めて退くことを、「辞任」するまたは「退任」すると言います。 この二つの言葉は、同じような意味で使われますが、厳密には次のような違いがあります。
辞任とは
職務や役職を辞めて退くことを意味しますが、自分の意思で辞める場合にのみ「辞任」という言葉を使います。 これに対して、自分以外の意思で職務や役職を辞める、つまり辞めさせられる場合には「解任」という言葉を使います。
退任とは
「辞任」と同じように、職務や役職を辞めて退くことを意味しますが、「退任」は誰の意思で辞めるかは関係なく用いることができます。 つまり、自分の意思で辞める場合も、辞めさせられる場合も「退任」と言えます。
また、任期を満了して退く場合にも「退任」という言葉を使います。
要するに!
・「辞任」→自らの意思で役職を辞める
・「退任」→①役職を辞める ②任期を満了して役職から退く
学校や職場などで「整理整頓」と書かれた張り紙を見かけたことがあるでしょう。「整理」と「整頓」は同じような意味で用いられるうえに、「整理整頓」とセットで使わることもあります。 この二つの熟語には次のような違いがあります。
整理とは
整理を辞書で引くと、「乱れた状態にあるものをととのえ、秩序正しくすること」「不必要なものを取り除くこと」とあります。 まず最初の、「秩序正しくする事」とは、例えば順番がバラバラになったファイルを番号順に並べなおして使いやすくする事などが含まれます。 また、「不必要なものを取り除く」からは必要なものと必要でないものとを分けて時には処分する、という意味も持っていることがわかります。 つまり、見た目を整えるというより、機能や使い勝手の回復を目的に物事を整えること理解できます。
整頓とは
整頓を辞書で引くと、「よく整った状態にすることきちんと片付けること」とあります。こちらは、「片付ける」とあるように見た目を整えること目的です。 また、「取り除くこと」は含まれていません。分別したり順番を並べ替えたりすることは含まれず、見た目を調えることが目的であると理解できます。
また、任期を満了して退く場合にも「退任」という言葉を使います。
要するに!
・「整理」→機能や使い勝手の回復を目的に物事を整えること
・「整頓」→片付けて見た目を整えること
突然ですが、「ね・うし・とら・う・たつ・み・・・」これって何ですか? 「十二支(じゅうにし)」と答えた人と、「干支(えと)」と答えた人がいるのではないでしょうか。 「十二支」と「干支」はしばしば混同されやすいですが、実は明確な違いがあります。
十二支とは
「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12種類の要素の総称で、「ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い」 と読みます。 それぞれの要素に動物が対応しており「鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、羊、猿、鶏、犬、猪」となります。
干支とは
「えと」と読むのが一般的ですが、「かんし」とも読みます。「干(かん)」は、「十干(じっかん)」を表し、「支(し)」は「十二支(じゅうにし)」を表しています。 「十干十二支(じっかんじゅうにし)」とそのまま言われることもあり、「十干」と「十二支」を組み合わせたものになります。
「十干(じっかん)」とは 「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10種類の要素の総称で「きのえ・きのと・ひのえ・ひのと・つちのえ・つちのと・かのえ・かのと・みずのえ・みずのと」 と読みます。
この「十干」と「十二支」を組み合わせたものが「干支」で、
甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥
丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥
戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥
庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥
壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥
の60種類になります。
よくお正月などに、「今年の干支は、酉(とり)です!」と言ったりますが、厳密には「干支」の「十二支」の部分だけを取り上げているという事になります。 実際には同じ「干支」は60年に1度しかありません。 因みに、生まれ年の干支に戻る数え年の61歳を「暦が還る」という意味で「還暦(かんれき)」といいます。
要するに!
・「十二支」→「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12要素。
・「干支」→「十二支」と「十干」を組み合わせた60要素の歴
通常、年齢を聞かれたら、満年齢を答えるのが一般的です。しかし、七五三などの行事や、長寿の祝い事「還暦、古稀、喜寿、傘寿、米寿」等の節目は「数え年」を用います。 (最近では七五三は「満年齢」と「数え年」どちらでもよくなっているようです)
「数え年」の覚え方として、「満年齢+1歳」とする方法がありますが、厳密には正しくありません。「満年齢」と「数え年」次のような違いがあります。
満年齢とは
一般に年齢というと「満年齢」の事を指しますので、馴染みがあると思いますが、生まれた年を0歳として、以降誕生日を迎えた日に1歳を追加する年齢の数え方です。 なぜ最初の年が1歳ではなく0歳なのかというと、「満」はその期間が満たされ終了したという意味だからです。ですから、生まれてから一年を満たしたときに1歳となるわけです。
数え年とは
生まれた時を1歳として、以降新年(1月1日)を迎えた時に1歳を追加する年齢の数え方です。 ですから、極端な話12月31日生まれの人は、一日だけ1歳で次の日からは2歳になるのです。一年のうち364日は「満年齢+2歳」という事になります。
馴染みがないので少しややこしく感じますが、同じ生まれ年の人はすべて同じ「数え年」となるなど、覚えやすい面もあります。 日本では1950年「年齢のとなえ方に関する法律」が施行されるまで「数え年」を使うのが一般的でした。ですから、長寿の祝い事など古くからある行事には現在でも「数え年」が使われているのです。
要するに!
・「満年齢」→生まれた年を0歳として、以降誕生日を迎えた日に1歳を追加する
・「数え年」→生まれた時を1歳として、以降新年(1月1日)を迎えた時に1歳を追加する
髪の毛のカットやカラー、パーマ、シャンプーなどを行う専門職といえば、「美容師」と「理容師」があります。 どちらも国家資格で、取得しなければいけない免許が違うというところまでは一般的な知識ではないでしょうか? 「美容師」と「理容師」は国家資格だけではなく、できる事とできないことに少しの違いがあります。
美容師とは
美容師になるには「美容師免許」の取得が必要です。そして、美容師美容師法第二条では「パーマネントウエーブ・結髪・化粧等の方法により、容姿を美しくすること」と規定されています。 ですから、髪をカットするだけではなく、パーマやカラー、ヘアメイク等の幅広い知識と技術が必要で、流行りのスタイルにも敏感でなくてはいけません。
美容師さんが働くお店は、美容室または美容院と呼ばれ、美容室ではヘアメイクだけでなく七五三や成人式、結婚式の時のエステや着付けなど総合的なサービスを行うお店も多数あります。 美容師さんが、唯一できないのが「顔そり」でメイクをするために必要な施術としてしか顔そりは認められていません。
理容師とは
理容師になるには「理容師免許」の取得が必要です。そして、理容師法第一条の二では「頭髪の刈込、顔そり等の方法により、容姿を整えること」と規定されています。 頭髪のカットや顔そりを中心に、容姿を整えるのが理容師です。ほとんどの理容室では、パーマやカラーなども行ってくれます。ですから、美容師と同様に幅広い知識と技術が必要です。 技術を身につけることに関しては、「美容師」・「理容師」に違いはありませんが、これら2つの大きな違いは、顔そりを行えるかどうかです。
「顔そり」許可されるのは「理容師免許」を取得した場合のみです。理容室に男性のお客さんが多いのはそのためなのです。
要するに!
・「美容師」→容姿を美しくする職業。顔そりはできない
・「理容師」→容姿を整える職業。顔そりができる
お巡りさんが常駐している小規模な建物を、交番または駐在所と呼びます。 この二つには次のような違いがあります。
交番とは
字の通り、お巡りさんが交代で番をしている施設です。通常は警察署地域課の警察官が勤務しています。 平成6年の警察法改正で当時「派出所」から「交番」に名称が変わりました。
駐在所とは
1人のお巡りさんが24時間駐在します。そのため施設は住居を兼ねており、警官は駐在所で寝泊まりしています。 人口の少ない村などに置かれています。
要するに!
・「交番」→複数の警官が交代で勤務している
・「駐在所」→1人の警官が寝泊まりして駐在している
特別な功績を得た人に贈られる、「賞状」や「表彰状」。なぜ二つ呼びかたがあるのでしょうか?この二つの違いについて解説します。
賞状とは
表彰状や感謝状などすべての書状の総称です。書状の別の言い方という事が出来ます。 一般的によく目にするのは、スポーツなどの競技において優勝、準優勝など上位の成績の人に贈られるものですが、広義には卒業証書や終了証、あるいは参加賞等も含まれます。
表彰状とは
大きな功績や模範となるような行いがあった場合に讃えて授与される賞状です。 「表彰状」は公共性を帯びたものであり、数ある賞状類の中でも最も上位に位置づけされる大変名誉のある賞状です。
要するに!
・「賞状」→すべての書状の総称
・「表彰状」→社会的に大変名誉のある賞状
缶ビールや缶コーヒーといった、缶飲料の「あけ口」の部分を「プルトップ」と言ったり、「プルタブ」と言ったりします。 この二つには次のような違いがあります。
プルトップとは
プルタブを引き起こして開ける方式のふたです。つまり全体の仕組みの事を言います。
プルタブとは
缶飲料などを開けるための引き手です。プルトップ構造のフタの引き手の部分の名称です。
プルトップとプルタブの関係性は、ドアとドアノブの関係と考えればわかりやすいでしょう。 「ドアを引く」「ドアノブを引く」はどちらも正しいです。 「ドアを開ける」は正しいですが、「ドアノブを開ける」は正しくありません。
従って、資源ごみとしてプルタブを集めることがありますが、「プルトップ」を集めるという言い方は間違いです。
要するに!
・「プルトップ」→タブを引き起こして開けるフタの総称
・「プルタブ」→引き起こして開けるフタのタブ部分
後が荷台になっている自動車を「トラック」と言いますが、同じように荷物を積んで走る車には「ダンプ(カー)」と呼ばれるものもあります。 この二つは次のような違いがあります。
トラックとは
貨物自動車の総称です。後ろが荷台になっていて主に荷物を運ぶ為に用いる車です。
ダンプとは
正式には「ダンプ・トラック」と言い、トラックの種類の一つです。 「ダンプ」とは「投げ捨てる」という意味を持ち、荷台持ち上げて積み荷を一気に落すことができる事が特徴です。 土、砂、石などの工事資材の運搬に多く使われています。
要するに!
・「トラック」→後が荷台になっている貨物車の総称
・「ダンプ」→荷台持ち上げて積み荷を一気に落すことができるトラック
シャンプーの後にするものと言えば「リンス」!ところが「リンス」と同じような商品に「トリートメント」と呼ばれるものがあります。 この二つは次のような違いがあります。
リンスとは
髪の表面に作用し、シャンプーの後の髪のきしみを防いで、手ざわりをサラサラにすることができる製品です。
トリートメントとは
リンスと同じような効果があるりますが、髪の内部にまで浸透してダメージ部分に栄養素を補給する事ができる製品です。
要するに!
・「リンス」→髪の表面に作用しカバーする。
・「トリートメント」→髪の内部に浸透してケアする。
医療機関の名称としてよく使われているのは「病院」ですが、このほかにも「診療所」や「医院」、「クリニック」などの名称の医療機関もよく見かけます。 この名称の違いには次のような意味があります。
病院とは
病院という名称を使うには、医療法により次の条件を満たさなければなりません。 「20床以上の入院施設」つまりベッドを設置し、医師3名、患者3人に対して看護師1名、薬剤師1名。 従って、病院は比較的規模の大きい医療機関となります。
診療所とは
入院施設がないかベット数が19以下の医療機関です。「病院」と言う名称が使えないだけでその他の規定はありません。 そのため、「診療所」や「医院」、「クリニック」など医療機関と理解しやすい名称が自由に使われています。
要するに!
・「病院」→入院施設が20床以上の医療施設
・「診療所」→入院施設が19床以下の医療施設
線を引いたり長さを測ったりするときに使う「物差し」と「定規」。混同しやすいこの二つの文房具にもきちんとした使い方の違いがあります。
物差し
物の長さを測るための道具です。まっすぐ物が多いため線を引くためにも用いられがちですが、本来は寸法を測るための道具です。 物差しには、巻尺などのまっすぐでないものも含まれます。
定規とは
線を引くための道具、一定の距離や角度を保つための道具です。メモリが付いているものもあり、物差しとして使う事も出来ますが、本来の目的は線を引くための道具です。
要するに!
・「物差し」→長さを測る道具
・「定規」→線を引くための道具
最新のテレビには「液晶」と「プラズマ」という二種類の方式があります。 「液晶テレビ」と「プラズマテレビ」には次のような違いがあります
液晶とは
時計や電卓で用いられる「液晶」を使って色を制御する方式ですバックライトの光を液晶パネルの開閉によって調整することで色を作ります。 プラズマに比べると消費電力が少なく、小型化できるのが特徴です。
プラズマとは
画素の1つ1つが「プラズマ(発光)」によって光り色を作ります。そのため、光のコントロールはすぐれていますが、消費電力が高くなる傾向があります。 液晶に比べると、黒の表現能力は高く応答速度も速いという特徴があります。
現在では、満たされているという意味で使用すればどちらも間違いではありません。
要するに!
・「液晶」→消費電力が少なく小型でもきれい。
・「プラズマ」→黒の表現力が高く映画などに向いている。
私たちの生活に欠かせない「水」ですが、水には「硬水」と「軟水」があるのをご存知でしょうか? 「硬水」と「軟水」には次のような違いがあります。
硬水とは
まず、水に含まれるカルシウムとマグネシウムの量をあらわす言葉を「硬度」といいます。 そして硬水とは、硬度300以上の水の事で、カルシウムとマグネシウムを大変多く含んでいます。 ミネラルが豊富で、好みにもよりますが硬水でコーヒーを入れると苦みが増し、美味しいと言われています。
軟水とは
硬度100以下で、カルシウムとマグネシウム含有量の少ない水です。 まろやかな口当たりで、そのまま飲んだり料理に使用するのに向いています。 日本の水はほとんどが硬水です。
現在では、満たされているという意味で使用すればどちらも間違いではありません。
要するに!
・「硬水」→硬度300以上、カルシウムとマグネシウム含有量が多い。
・「軟水」→硬度100以下、カルシウムとマグネシウム含有量が少ない。
日本の代表的な宿泊施設には「旅館」とよばれるものと「ホテル」と呼ばれるものがあります。 この2つの宿泊施設、いったいどこが違うのか気になったことはありませんか? 「旅館」と「ホテル」という名称は、「旅館業法」という法律の第2条により次のように定められています。
尚、旅館とよく似た施設、「民宿」については民宿と旅館の違いで解説しています。
旅館とは
「旅館営業」とは、和式の構造及び設備を主とする施設を設け、宿泊料を受けて、人を宿泊させる営業で、簡易宿所営業及び下宿営業以外のものをいう。 また旅館は部屋の数が5部屋以上と規定があります。
ホテルとは
「ホテル営業」とは、洋式の構造及び設備を主とする施設を設け、宿泊料を受けて、人を宿泊させる営業で、簡易宿所営業及び下宿営業以外のものをいう。 また部屋数は10室以上と定められています。
要するに!
・「旅館」→おもに和風部屋や施設を備えるもの。
・「ホテル」→おもに洋風の部屋や施設を備えるもの。
高速道路でドライバーが一休みする施設には、サービスエリア(SA)と呼ばれるものとパーキングエリア(PA)と呼ばれるものがあります。 この二つの施設にあまり違いが無いように思いますが、厳密には次のような違いがあります。
サービスエリア(SA)とは
概ね50キロ毎に設置されている、ドライバーと車に必要なサービスが提供されている施設です。 駐車スペースに、トイレや休憩所、フードコート、レストラン、売店、ガソリンスタンド等が設置されています。
パーキングエリア(PA)とは
概ね15キロ毎に設置されている、ドライバーのための休憩施設です。 駐車スペースに、トイレ、自動販売機等が設置されています。
サービスエリアとパーキングエリア共に、駐車スペースとトイレは必ず設置されています。それ意外の設備は設置されている場合と無い場合があります。 また、交通量や利用率の変化により、設備が撤去されたり、増設されたりします。 中には、パーキングエリアにガソリンスタンドが設置されるケースもあるようで、近年はこの二つの施設を明確に分けることが難しくなっています。
要するに!
・「サービスエリア」→ドライバーと車に必要なサービスが提供されている施設
・「パーキングエリア」→ドライバーのための休憩施設
海外に渡航するには「パスポート」が必要というのは誰もが知っている話ですが、入国するのに「ビザ」が必要という話も聞いたことがあるのではないでしょうか。 「パスポート」と「ビザ」入国にはどっちが必要なのでしょう?または、両方が必要なのでしょうか?「パスポート」と「ビザ」について解説します。
パスポートとは
国籍等が記載された国際的な身分証明書です。パスポートは、自国の政府機関で発行します。つまり、日本人なら日本政府から「この人は日本国民です」とお墨付きを頂いたことの証明書となります。 パスポートは別名「旅券」とも言い、海外に渡航する際は「出国の許可証」となります。通常は、パスポートが無ければ、出国することも他の国に入国することもできません。
ビザとは
一方ビザは、外国人に対する入国および滞在許可証という事ができます。つまり、自国ではなく渡航先の国から発行される許可証です。入国の理由によって、就労ビザ、留学ビザ、観光ビザなどがあります。 また短期間の旅行の場合はビザを必要としない国もあります。
要するに!
・「パスポート」→自国の政府機関で発行する国際身分証明書
・「ビザ」→外国人に対する入国および滞在許可証
夏にになると、女性に愛用される「キャミソール」や「タンクトップ」。 どちらも、腕や肩の露出が高い似たようなデザインの服ですが、この二つには次のような違いがあります。
キャミソールとは
袖がなく細い肩紐を肩、または首から吊り下げて着るタイプの衣服です。 元々は、女性の上半身用のインナーでしたが、ブラの機能を併せ持つキャミソール等が出てきたことにより、一枚で着るスタイルが増えてきました。 今では、下着という認知は少ないようです。
タンクトップとは
タンクトップは、襟ぐりが深くデザインされたランニング型のシャツです。 キャミソールとの大きな違いは、肩の部分が紐になっておらず、1枚の素材でつながっています。 タンクスーツという女性用の水着のデザインに似ていることから、「タンクスーツ」の「トップス」→「タンクトップ」という名前が付いたと言われています。
要するに!
・「キャミソール」→袖がなく紐で吊り下げて着るタイプの衣服
・「タンクトップ」→襟ぐりが深くデザインされたランニング型のシャツ
服や、鞄、財布など多用途に用いられる、スライド型の留め具を「ファスナー」と言いますが、これと同じものを「チャック」と呼んだり、「ジッパー」と呼ばれたりすることがあります。 ファスナー、チャック、ジッパーはすべて同じものを指しており、どれを用いても間違いではありませんが、名前の由来には次のような違いがあります。
ファスナーとは
ファスナー(Fastener)は、国際的に通用する名称で「ネジ」など締め付けるもの全般をさして用います。 日本で言うスライド型のファスナーは、国際的にはスライドファスナー(Slide Fastener)といいます。
チャックとは
チャック・ファスナー社という日本の企業が名づけた登録商品名で、きんちゃく袋の「ちゃく」をもじったと言われています。 日本では、「スライドファスナー」を指す一般的な用語となっていますが海外では通じません。
ジッパーとは
3つの呼び名の中では、一番なじみが薄いという人が多いのではないでしょうか。 それもそのはず、これは米企業のビー・エフ・グッドリッチ(B. F. Goodrich)社の登録商品名です。 商品名はファスナーを閉めるときの「擬音」に因んだと言われています。
要するに!
・「ファスナー」→国際的に通用する正式名称
・「チャック」→チャック・ファスナー社の登録商品名
・「ジッパー」→ビー・エフ・グッドリッチ社の登録商品名
リモコンや懐中電灯などの製品に欠かせない乾電池ですが、この乾電池には、マンガン電池とアルカリ電池があるのをご存知でしょうか? それぞれ、特徴がありどのような製品にどちらの電池が適しているかを覚えておくと、電池の寿命を長持ちさせることが出来ます。
マンガン電池とは
二酸化マンガンと亜鉛を反応させることから、マンガン電池と呼ばれます。マンガン電池は小さい電流しか流すことができません。その代り、休ませると電圧が回復するという特性を持っています。 ですので、リモコンや、懐中電灯など使用頻度や、使用時間が少ない製品に向いています。
アルカリ電池とは
電解液にアルカリを用いる電池です。超寿命かつ大きな電力を流せますので、ラジコンなどのモーターを使用する製品や、ラジカセなど長時間使用する製品に向いています。 アルカリ電池は液漏れした場合、配線等が腐食してしまう事があります。長期間使用しない時は、電池を抜いておくようにしましょう!
要するに!
・「マンガン電池」→使用頻度や、使用時間が少ない製品に向き
・「アルカリ電池」→長時間大きな電力が必要な製品向き
家電量販店などに行くと、製品のパンフレットやカタログがたくさん置いてあり、製品を探したり機能を調べたりするのに役立ちます。 このパンフレットやカタログ、どちらがどういうものなのか、ちゃんと意味を理解していますか?二つには次のような目的の違いがあります。
パンフレットとは
案内・説明・広告などを記載した仮とじの小冊子です。 仮とじでなく製本されたものも中にはありますが、商品やサービスの案内をするために作られたのがパンフレットです。
カタログとは
商品や作品の目録、つまり様々な製品をカテゴリ等で分類して掲載したものです。 パンフレットが「案内や広告」によって関心を抱かす目的に対し、カタログはある程度購入することを前提とし、商品を選ぶために用いるものという事が出来ます。
池とは
自然にできたものではないもの、つまり人工的に作られた水溜まりを池といいます。
要するに!
・「パンフレット」→製品やサービスに関心を抱かす目的もの
・「カタログ」→製品等の一覧。選ぶために用いるもの
代表的な宿泊施設ホテルと旅館の違いについては別の項目で紹介していますが、このうちの「旅館」とよく似た施設に「民宿」と呼ばれるものがあります。 最近では「民宿旅館」という、なんだか曖昧な施設も登場してきましたが、本来、民宿と旅館は次のような違いを持っていました。
民宿とは
読んで字のごとく、民家の宿。農家や漁師などを営む人が、本業のオフシーズンに自宅の一部を間貸しして客を泊めていたのが民宿です。 普通の民家なので、風呂は共同で一つ、料理は家庭料理、従業員はその家の家族という場合が多く、その分旅館よりも安い料金で泊まれるというメリットがあります。
旅館とは
一方、「旅の宿」を本業としているのが旅館です。接客や掃除などを担当する「中居」、料理を担当する「板前」など各分野に専門のスタッフが雇われています。 風呂も男女別で、大浴場を備えている施設もあります。サービス料などの料金がかかり民宿に比べると、宿泊料は高めとなります。
要するに!
・「民宿」→副業で民家を宿として提供するもの
・「旅館」→宿泊施設を本業として営むもの
日本の伝統的な宿泊施設旅館に宿泊すると、部屋の清掃や食事の配膳等をしてくれる女性のスタッフがいます。 この、スタッフの事が「中居(なかい)さん」あるいは「女将(おかみ)さん」と呼ばれているのを聞いたことがあるのではないでしょうか。
中居さんとは
元々は、公家や門跡の邸宅で主人の側で奉仕する人の控室を指して使われていました。後に料理の配膳や清掃など家政的な役割を持つ職員という意味でも使われるようになりました。 これに由来し、お客様に格別のサービスを提供する旅館では、料理の配膳や清掃などのお世話をするスタッフを「中居」と呼びます。
女将さんとは
女の将と書く通り、「中居さん」等のスタッフ束ねる人を「女将さん」といいます。伝統のある旅館では、「女将さんは」実質経営者か、経営者の奥さんにあたります。 最近では、「雇われ女将」という場合もありますが、スタッフを束ねる人という事に違いはありません。
要するに!
・「中居さん」→料理の配膳や清掃などのお世話をするスタッフ
・「女将さん」→中居さん等のスタッフ束ねる人
赤ちゃんの頃は、うんちやおしっこをしてしまった時のためにオムツをはかせますが、このオムツを、「おしめ」という事があります。 比較的、年配の人が「おしめ」という言葉を使っているイメージがありますが、「昔の言い方」という訳ではなくこの二つの名称には次のような違いがあります。
おむつとは
おむつは漢字で「御襁褓」と書き、排泄物(尿や便)を捕捉するため下腹部に着用する布や紙の正式な名称です。 おむつといえば、主に赤ちゃんを連想しますが、医療や介護用としても使用されていますし、犬や猫などのペットに使う場合もあります。 おむつは、それら着用具の総称という事が出来ます。
おしめとは
「おしめ」は「湿っている」という表現に「お」をつけて丁寧にしたのが由来と言われています。 赤ちゃんに呼びかける時は「お手て」とか「お口」等、やたらと「お」を付けて呼びかけてしまいますよね。「おしめ」もそのような呼びかたの一つという事が出来ます。
ですから「おしめ」は赤ちゃんに対してだけ使う言葉といえます。医療や介護用の現場で使うと、失礼になってしまいますので注意が必要です。
要するに!
・「おむつ」→排泄物を捕捉するため下腹部に着用する布や紙
・「おしめ」→おむつと同じ意味。赤ちゃんに対して使う言葉
暑い季節、扇風機をかけて涼むととても気持ち良いですね。この扇風機と同じように風邪を送る家電製品にサキュレーターというものがあります。 どちらも用途は変わらないように思いますが、なぜ名前が違うのでしょう?単に扇風機をカッコ良く言っただけなのでしょうか? 実はそういうわけではなく、この二つにはその使用目的に違いがあります。
サキュレーターとは
「サーキュレーター」は、空気を循環させるのが目的です。直進性の高い風を重視し、渦巻き状の風を発生させて効率を高めている製品もあります。 直進性を重視しているのでほとんどの製品に首振り機能はついていません。
扇風機とは
扇風機は、直接人体に風をあてて涼感を得るためのものです。ですから、お休みタイマーや、リズム風など程よい涼感を得るための機能が付いているというわけです。
しかし、結局のところサキュレータは扇風機の代わりになりますし、扇風機で空気を循環させることも可能ですので、あまり細かくこだわる必要は無いかも知れません。 本来の使用目的に違いがあった、というお話でした。
要するに!
・「サキュレーター」→空気を循環させるのが目的
・「扇風機」→直接人体に風邪をあてて涼感を得るためのもの
映画やドラマを観ているとアメリカ合衆国の警察のような機関として「FBI」や「CIA」がよく登場します。 これらは、映画の世界の話ではなく、どちらも実在するアメリカ合衆国の公的な機関です。 これら二つのには次のような違いがあります。
FBIとは
Federal Bureau of Investigation の略で、アメリカ合衆国の捜査機関「連邦捜査局」のことです。 1908年に設立されたアメリカ合衆国の司法省に属する組織で、本部はワシントンD.C.に置かれています。 「FBI」の主な活動は、テロやスパイなどからアメリカ合衆国を守る事、複数の州に渡る事件、銀行強盗など被害額の大きい強盗事件などです。
たとえば、A州で犯罪を犯した犯人がB州に逃亡した場合、捜査権がA州の地方警察からFBIに移ります。他の活動も基本的に、警察よりも大きな事件に対して活動する組織という事が出来ます。
CIAとは
Central Intelligence Agency の略で、アメリカ合衆国の情報機関「中央情報局」のことです。 1947年に設立されたアメリカ合衆国の大統領直属の組織で、本部はバージニア州フェアファックスに置かれています。 「CIA」の主な活動は、他国の政治・軍事・経済に関する情報収集、アメリカの安全保障政策の決定に必要な諜報活動や、国内外における情報操作、敵対国家の弱体化工作、などと考えられていますが詳細は明らかにされていません。
要するに!
・「FBI」→司法省に属する組織で、警察よりも大きな事件を取り扱う。
・「CIA」→大統領直属の組織で情報収集、情報操作を行う。
私は子供の頃、よく怪我をする子だったので、その度、傷口に絆創膏(ばんそうこう)を貼ってもらっていました。 ある日友達の家で遊んでいた時、足をすりむいてしまい「絆創膏(ばんそうこう)ある?」と尋ねたら「バンドエイドならあるよ!」 と言われて、出してもらったら結局同じものだった事をを記憶しています。 絆創膏とバンドエイドっていたっいどう違うのでしょうか?
絆創膏とは
怪我をした際に傷口や患部の保護に使う粘着テープのことです。粘着テープの中央部に不織布製のパッドが付いているものが一般的で、傷口への細菌の侵入や感染を予防します。 医療用には、粘着テープタイプ以外にも「液体絆創膏」や「テープ絆創膏」などもありますが、一般的に「絆創膏」というと粘着テープタイプを指す場合がほとんどです。
バンドエイドとは
アメリカのジョンソン・エンド・ジョンソン社が製造・販売している「絆創膏」の名前、つまり商品名です。 「バンドエイド」は、世界で最初の「絆創膏」として発売されており、当時は「絆創膏」=「バンドエイド」だったため、今でも絆創膏の代名詞として定着しています。
ファミリーコンピューター世代の人達が、テレビゲーム全般を「ファミコン」って言うのと同じですね。 現在では、「バンドエイド」以外にも「カットバン」「サビオ」「オーキューバン」「リバテープ」「キズガード」などの商品名の絆創膏が発売されています。
要するに!
・「絆創膏」→怪我をした際に傷口や患部の保護に使う粘着テープ
・「バンドエイド」→ジョンソン・エンド・ジョンソン社の絆創膏の商品名
日本のトイレ事情は世界的に見ても最かなり進んでおり、最近では公共の施設やお店など、ほとんどの場所のトイレに「温水洗浄便座」が設置されています。 ところでこの「温水洗浄便座」という言葉は、「便座に付けられたノズルからお湯が出てきてお尻を洗浄してくれる装置」の正式名称なのですが、「温水洗浄便座」って名称を使っている人はあまり見かけません。 大抵の人は、「ウォシュレット」とか「シャワートイレ」と呼んでいるのではないでしょうか? その理由は、二つの違いを読めばわかります!
ウォシュレットとは
トイレなどの陶器具類を販売するメーカー「TOTO」の商品名です。TOTOは1960年代頃から、医療用や福祉施設用に温水洗浄便座輸入の販売を行っていました。 その後、1980年6月に一般家庭用に正式な販売を開始します。今では、「一家に一台」の家電製品と言っても過言ではありませんが、発売前後では馴染みのない機能に賛否両論あったようです。
シャワートイレとは
こちらも陶器具類を販売するメーカーLIXIL(旧INAX)の商品名です。同社が「シャワートイレ」という名称を使い始めたのが、TOTOの「ウォシュレット」が販売された1980年頃とほぼ同時期でした。 つまり、一般家庭としては馴染みのなかった「温水洗浄便座」が2大メーカーから同時期に発売されたのです。
そのため今でも「温水洗浄便座」は「ウォシュレット」と「シャワートイレ」の二つの名称でよばれることが多いという訳なのですね。最近でいうと、IphoneとAndroidの関係によく似ていますね。 因みに、トイレメーカーとして当時「TOTO」が業界1位、INAXは業界2位でした。その影響で、「ウォシュレット」という名称を使う人がの方が若干多いようです。
要するに!
・「ウォシュレット」→陶器具類メーカー「TOTO」の商品名
・「シャワートイレ」→陶器具類メーカー「INAX」の商品名
出張や旅行の交通手段として便利な新幹線ですが、この新幹線には現在(2017年)主に三つの種類があるのをご存知ですか? 「のぞみ」と「ひかり」と「こだま」という名称の新幹線です。この3つの新幹線、鉄道ファンの間では色々と細かな違いがあるようですが、一般的に大きく違うのは停車駅と、速さです。
のぞみとは
1992年に開業した新幹線で、東海道山陽新幹線で最も速いのが、ひかりです。 東京?新大阪、または新大阪?博多の所要時間は2時間30分程。この時間を実現するため停車駅は少なめで主要な駅にしか停車しません。 東京、品川、新横浜、名古屋、京都、新大阪、新神戸、岡山、広島、小倉、博多など。
ひかりとは
1964年に開業した新幹線で、「のぞみ」の開業までは、東海道山陽新幹線で最速でした。現在では2番目に早い新幹線です。 東京?新大阪は3時間程、新大阪?博多まで2時間30分?3時間程、「ひかり」は列車によって停車駅が異なり所要時間に少しムラが出ます。 「のぞみ」では停車しない、小田原、熱海、三島、静岡、浜松、豊橋、岐阜羽島、米原、相生、新倉敷、新尾道、三原、東広島、新岩国、新下関等の駅に停車します。 また、ひかりは東京、品川、新横浜、名古屋、京都、新大阪、新神戸、岡山、広島、小倉、博多に加えて、姫路、福山が確実に停車する駅となります。
こだまとは
「ひかり」と同じく1964年に開業した新幹線で三つの中では最も遅い新幹線です。東京?新大阪は4時間程、新大阪?博多までは4時間30分?5時間程かかります。 スピードは遅いですが、「値段が少し安い」「自由席が多い」「地方の駅から利用可能」等のメリットがあります。
要するに!
・「のぞみ」→東京?新大阪間、2時間30分程度。主要な駅のみ停車。
・「ひかり」→東京?新大阪間、3時間程度。のぞみより停車駅が多い。
・「こだま」→東京?新大阪間、4時間程度。各駅停車。自由席が多い。
世界一高い山といえば「エベレスト」ですが、「チョモランマ」という名称も聞いたことがありませんか?実は「チョモランマ」も世界一高い山なのです。 「え!じゃあ世界一高い山は二つあるの」と疑問に思われる事でしょう。二つの名称の違いについて解説します。
エベレストとは
エベレストはネパールとチベット(中国)の国境をまたぐ世界最高峰の山です。 インド半島とチベット高原を隔て、ネパール、チベット自治区、インド、パキスタン、ブータンの5カ国にまたがるヒマラヤ山脈にあり、標高8848mと世界一の高い山なのです。 エベレストの名前の由来は、1852年にヒマラヤ山脈の中で「エベレスト」が世界最高峰であることを発見したインドの測量局が、イギリス人地理学者のジョージ・エベレスト氏にちなんで名付けたとされています。
チョモランマとは
エベレストが跨る地区の一つチベットでの現地名です。チベット語で、「世界の母なる女神」という意味があります。 因みに、同じくエベレストが跨る国の一つネパールでは「サガルマータ」といい、「世界の頂上」を意味しています。 登山家の間では、チベットとネパールのどちら側から登ったかによって「チョモランマ」と「サガルマータ」を使い分けることがあります。 しかし、一般的には「エベレスト」の呼称が多く用いられています。
要するに!
・「エベレスト」→ネパールとチベット(中国)の国境をまたぐ世界最高峰の山。
・「チョモランマ」→エベレストが跨る地区の一つチベットでの現地名。
ポイント
「記入」=枠がある。「記載」=枠がない。
「記入」=文字とは限らない。「記載」=文字。
「記入」=書く行為。「記載」=書いた後に読まれる。
「記入」=重要でない場合も。「記載」=重要事項。
解説
何かを書き記すことを表す言葉として「記入」と「記載」があります。
意味もよく似ているこの2つですが、どのような違いがあり、どのように使い分ければいいのでしょう?
まず、書き記す際に、記入欄や枠があるかどうかで区別することができます。
記入欄や枠がある場合、その中に書くことになりますので「記入」、
枠がない場合や原稿用紙など枠があっても大まかな場合には「記載」を用いることになります。
また、「記載」は必ず文字を書くことになりますが、「記入」は文字とは限りません。
マークシートなどがその典型的な例で「記入」を使います。
また、書いたものが第三者に読まれるかどうかという視点でも使い分けられます。
アンケート用紙などでは、後に集計しやすくするため選択式やチェック式になっている場合もありますが、
「記載」では書いたものそのものが読まれることを前提としています。
また、記入欄があるものでも、その重要度によっては「記載」となる場合もあります。
戸籍謄本や履歴書などでは、事実と異なることを書いた場合「虚偽記載」となり、法律で罰せられることもあります。
ポイント
「宿命」=生まれる前に決まる。「運命」=生まれた後に決まる。
「宿命」=変えられない。「運命」=変えられる。
「宿命」=避けられない。「運命」=避けられる。
解説
自分の意志にかかわらずめぐってくるものという意味の言葉として「宿命」と「運命」があります。
この2つの言葉にはどのような違いがあるのでしょうか?
まず、どちらも避けて通れないものという意味では「宿命」も「運命」も同じです。
しかし、あえて区別すれば、「宿命」は生まれる前から決まっていたもの、「運命」は生まれた後に決まるものとすることができます。
例えば、生まれた人種や性別は、自分の意志や行いで決定されるものではなりませんので「宿命」で、
生まれた後の自分の意志や行いによって左右される可能性もあるものが「運命」ということができます。
言い方を変えると、「宿命」は変えられないもの、「運命」は変えられる(変えられた)ものととらえることもできます。
「運命の出会い」という言葉がありますが、これは偶然が重なり合ってたまたま出会ったという意味もあり、
何かが欠けたら出会えなかったという意味も含みます。
また、「宿命」は避けられない、「運命」は避けられると言うこともできます。
「宿命のライバル」とは、本来なら後天的な要素が多いものですので「運命のライバル」となりますが、
避けられないライバルという意味で「宿命」と比喩的に用いられているようです。
ポイント
「宿命」=生まれる前に決まる。「運命」=生まれた後に決まる。
「宿命」=変えられない。「運命」=変えられる。
「宿命」=避けられない。「運命」=避けられる。
解説
自分の意志にかかわらずめぐってくるものという意味の言葉として「宿命」と「運命」があります。
この2つの言葉にはどのような違いがあるのでしょうか?
まず、どちらも避けて通れないものという意味では「宿命」も「運命」も同じです。
しかし、あえて区別すれば、「宿命」は生まれる前から決まっていたもの、「運命」は生まれた後に決まるものとすることができます。
例えば、生まれた人種や性別は、自分の意志や行いで決定されるものではなりませんので「宿命」で、
生まれた後の自分の意志や行いによって左右される可能性もあるものが「運命」ということができます。
言い方を変えると、「宿命」は変えられないもの、「運命」は変えられる(変えられた)ものととらえることもできます。
「運命の出会い」という言葉がありますが、これは偶然が重なり合ってたまたま出会ったという意味もあり、
何かが欠けたら出会えなかったという意味も含みます。
また、「宿命」は避けられない、「運命」は避けられると言うこともできます。
「宿命のライバル」とは、本来なら後天的な要素が多いものですので「運命のライバル」となりますが、
避けられないライバルという意味で「宿命」と比喩的に用いられているようです。
ポイント
「基礎」=知識・技能。「基本」=認識・価値観。
「基礎」=客観的に把握できるもの。「基本」=人によってはさまざま。
「基礎」の上に「基本」ができる。
解説
物事の元になる部分を指す言葉として「基礎」と「基本」があります。
よく似ている言葉ですが、この「基礎」と「基本」の違いや使い分け悩んでしまうことはないでしょうか?
まず、「基礎」には知識や技能という意味合いがあり、「基本」には認識や価値観という意味合いがあります。
言い換えれば、「基礎」は客観的に把握できるもの、「基本」は人によってはさまざまなものともとらえられます。
「基礎」はテストなどで知識や技能などを他社と比較することが可能なものが多く、その反面「基本」ができているかどうがは判断する人の主観的なものになりがちです。
また、「基礎」の上に「基本」が成り立つという考え方もできます。
スポーツに例えれば、そのスポーツをするための体力をつけるのが「基礎体力」ですし、
その体力を正しく競技に生かすために基本動作を身に着けるのが「基本」とも言えます。
学習でも、読み書きなどが「基礎」に当たり、有無を言わず覚えなければなりません。
これができた上で公式を覚え理解することが「基本」となり、応用ができるようになります。
「頭越し」=当事者をさしおく。「頭ごなし」=一方的に決めつける。
「頭越し」を「頭ごなし」と間違う場合が多い。
「頭越し」も「頭ごなし」も話を聞いてもらえない。
解説
「頭越し」と「頭ごなし」、似ている言葉ではありますが、その意味にはかなりの違いがあります。
まず、「頭越し」には「当事者をさしおいて」という意味があります。
当事者に全く連絡や相談もなく、勝手に決められてしまった際などは「頭越し」となります。
会社などでも、本来相談するべき直属の上司をとばし、上層部に直接訴える場合などは、こちらに当たります。
一方、「頭ごなし」は言い分を言いてもらえず一方的に決めつけられる場合などに用いられます。
「頭越し」と「頭ごなし」は、よくテレビなどでも誤用されることがあるようですが、
傾向としては「頭越し」と言うべき所で「頭ごなし」を使ってしまうケースが多いようです。
どちらも当事者の意見を言いてもらえないという意味では共通する部分もあります。
ポイント
「うやむや」=わざとらしい。「あやふや」=わざとらしくない。
「うやむや」=意図的にごまます。「あやふや」=不確かで曖昧。
「うやむや」=記憶がある。「あやふや」=記憶がない。
解説
あいまいなことを表現する言葉として「うやむや」と「あやふや」がありますが、この2つの言葉の違いや使い分けに悩む場面はないでしょうか?
しかし、この「うやむや」と「あやふや」にはかなりの意味の違いがあり、使い方を間違うと痛い目に遭うこともあるかもしれません。
まず、「うやむや」には「わざとらしい」のいうニュアンスが入り、「あやふや」にはそれがありません。
「うやむやにする」という言葉は、あえてはっきりさせずにおくという意味がありますが、この場合「あやふやにする」とは言いません。
また、「記憶があやふや」という言い方もよく耳にしますが、この場合は記憶がなかったり、不確かな状態ですのでわざととは言えません。
言い換えると、「うやむや」=意図的にごまます、「あやふや」=不確かで曖昧、ということにもなります。
見方を変えると、「うやむや」には記憶があり、「あやふや」には記憶がないとも言えます。
「うやむや」は記憶があるにもかかわらず覚えていないフリをしたりはっきりさせない場合、「あやふや」は記憶なく、本当にはっきりしない場合に使われます。
ポイント
「青田買い」=収穫前に買い取る。「青田刈り」=収穫前に刈り取る。
「青田買い」=優秀な人材を卒業前に採用する。「青田刈り」=「青田買い」の誤用。
「青田刈り」=戦国時代の戦術が由来。
「青田刈り」=農業の生産調整など。
解説
優秀な人材を確保するという意味で「青田買い」という言葉が使われますが、
似た言葉で「青田刈り」という言葉も存在し、混合されることもあります。
この「青田買い」と「青田刈り」の違いについて整理してみます。
まず、「青田買い」とは、元々は収穫量を確保するためや価格の高騰にそなえるため、稲が実る前に田を買い取ることで、
稲が実る前に田畑を買い取ることを指します。
このことから、現代では優秀な人材を卒業前に採用するといった行為に使われます。
一方、「青田刈り」=戦国時代の戦術が由来しています。
敵の城の周りの稲を実る前に刈り取ることで食糧を不足させるという兵糧攻めの1つです。
現代では、米や野菜の相場の低下を抑えるため、収穫前の作物を刈り取って生産調整する場合などに用いられます。
ですので、優秀な人材を前もって確保するという意味に「青田刈り」を使うのは間違いという事になります。
ポイント
「参詣」=神社仏閣に行くこと。「参拝」=神社仏閣に行き拝むこと。
「参詣」=行く行為。「参拝」=拝む行為。
「参詣」も「参拝」も同義語として扱われる。
寺と神社での区別はない。
解説
神社仏閣にお参りする言葉として「参詣」と「参拝」がありますが、
この2つの言葉の違いと使い分けについて実は分からないという人が多いのではないでしょうか?
読み方は「参詣」は「さんけい」、「参拝」は「さんぱい」となります。
まず、「参詣」は、神社仏閣に行くこと自体を指します。
ですので、厳密に言えばお参りをしなくても構いません。
例えば、散歩で神社に行ったり縁日で神社に行ったりするのも「参詣」という事になります。
一方、「参拝」は神社仏閣に行って拝む行為を指します。
この際、「参拝」するためにはその寺や神社に赴かなければならず、「参詣」を兼ねることになります。
このようなことから、一般的には「参詣」と「参拝」は同義語として扱われ、特に使い分けが必要ということはありません。
「お参り」と「お詣り」は、寺と神社で使い分けられますが、
「参拝」と「参詣」は、このような使い分けはありません。
ポイント
「親族」=血族・姻族。「遺族」=亡くなった人の親族。
「親族」=生存に関係ない。「遺族」=亡くなった場合のみ。
法律的には「親族」=6親等以内。「遺族」=生計を共にしていた人。
葬儀などでは、近親者を意味して「ご親族」が使われる場合も。
解説
「親族」は、血のつながりのある血族と、婚姻によって繋がりのある姻族を指します。
「遺族」は、亡くなった人の親族を指します。
つまり、「親族」は、当人が生存しているかどうかに関係なく使われますが、
「遺族」は、当人が亡くなっている場合にのみ使われます。
また、法律的には、「親族」は民法で6親等内の血族、配偶者、3親等内の姻族と定められています。
一方、「遺族」は、恩給法では、死亡者と生計を共にしていた配偶者・子・父母・祖父母および兄弟姉妹、労働基準法では、死亡した労働者の死亡当時、その収入によって生計を維持していた者(内縁を含む配偶者・子・父母・孫・祖父母)とされています。
つまり、大まかにいうと、血の繋がりに関係なく、生計を共にしていた人が「遺族」ということになります。
「親族」「遺族」という言葉が使われるのは葬儀などですが、
通常は「ご遺族・ご親族」というようにセットで使われることが多く、特に区別されることはありません。
しかし、より近親者という意味で「ご親族」が用いられることがありますが、
この際には何親等までという明確な区別をするものではありません。
ポイント
「香り」=いいニオイ。「臭い」=いいニオイも悪いニオイも含まれる。
「香り」=ほのかに臭う。「臭い」=遠くからでも臭う。
「香り」=品格や美しさも含む。
「臭い」を「クサイ」と読み間違えないために「香り」を使う場合も。
解説
「臭い」と「香り」の最大の違いは、嗅いだ人の感覚によります。
まず、「臭い」は、とにかく鼻を刺激するもの全てを指します。
いいニオイでも悪いニオイでも「臭い」が使われます。
一方、「香り」は、いいニオイに限定されて使われます。
別の見方では、、ニオイのする範囲によって使い分けられる場合もあります。
厳密な区別はありませんが、「香り」はほのかに臭う場合、「臭い」は遠くから臭う場合に使われる傾向があります。
また、「香り」は美しさや品格、高級感をイメージさせる場合に敢えて用いられることもあります。
「臭い」は、「クサイ」とも読むことができますので、この読み間違いを防ぐために「香り」を使うこともあるようです。
ポイント
「ねじる」=逆方向に回す。「ひねる」=一方向に回す。
「ねじる」=無理に回す。「ひねる」=素直に回す。
「ねじる」=力を入れて回す。「ひねる」=指先で回す。
「ひねる」=身体を痛める・苦心する・殺すなど回す以外の意味もあり。
解説
まず、「ねじる」は逆方向に回す、「ひねる」は一方向に回すという意味があります。
例えば、棒状のものを回す場合、両端を逆方向に回す場合は「ねじる」、両端を同じ方向に回し力を伝える場合「ひねる」となります。
また、力を入れて無理に回すことを「ねじる」、指先だけで力をいれず素直に回す場合えお「ひねる」を用います。
例えば、瓶のフタが簡単に開く場合は「ひねる」ですが、固くてなかなか開かず、力ずくで開ける場合は「ねじる」になります。
ぞうきんは両手で力を入れて無理に逆方向に回しますので「ねじる」ですが、水道の蛇口は力もいらす指先で回せますので「ひねる」になります。
また、「ひねる」には「足首をひねる」「頭をひねる」「鶏をひねる」というように、身体を痛める・苦心する・殺すなど回す以外の意味もあります。
ポイント
「少々」=親指と人差し指の2本。「少量」=親指と人差し指と中指の3本。
「少々」=約1g強。「少量」=約2g。
解説
料理番組やレシピ本などでよく使われる「少々」と「少量」という言葉ですが、実はその違いを理解していない方も多いのではないでしょうか?
まず、一つの目安としては、「少々」は2本指、「少量」は3本という点です。
塩など粉状の調味料を扱う際、「少々」は親指と人差し指の2本でつまんだ量、「少量」は親指と人差し指と中指の3本でつまんだ量となります。
こうして覚えておくと、スプーンなどでいちいち計量しなくても済み便利です。
また、実際の重さに置き換えると、「少々」は約1g強、「少量」は約2gとなります。
塩分などを気にされる場合、こちらを目安にしておくと塩分量の目安にもなります。
ポイント
「タカ派」=強硬派。「ハト派」=穏健派。
「タカ派」=The hawks。「ハト派」=The doves。
「タカ派」も「ハト派」も政財界で使われることが多い。
「右翼」「左翼」とは関係ない。
解説
「タカ派」と「ハト派」は、「右翼」「左翼」と混同されがちですが、これらは関係ありません。
「タカ派」は強硬派を意味し、「ハト派」は穏健派を意味する言葉です。
主に政財界の人や組織に対して使われ、英語でも「The hawks」「The doves」で通用します。
ハト派のハトは、平和の象徴として用いられ、その由来は旧約聖書のノアの方舟まで遡ります。
このハトのイメージから穏健派が「ハト派」と呼ばれるようになりました。
このハトに対して、鳥類で最も獰猛な猛禽類の一種であるタカに例え、強硬派を「タカ派」と呼ぶようになりました。
最近ではこれらになぞり、「クジャク派」「ニワトリ派」「フラミンゴ派」などという俗語も登場してきています。
ポイント
「叱る」=相手のため。「怒る」=自分のため。
「叱る」=相手に成長・改善の機会を与える。「怒る」=相手に自分の感情をぶつける。
解説
「叱る」と「怒る」は同じような意味として使われますが、本来の言葉の意味は異なります。
一言で表わすと、「叱る」は相手のため、「怒る」は自分のための行為となります。
言い方をかえると、「叱る」は相手に成長・改善の機会を与える行為、「怒る」は相手に自分の感情をぶつける行為ともなります。
ですので、「子供を怒る」とは厳密には間違った使い方となります。
言葉の意味の違いだけでなく、
お子様には、自分の感情をぶつけて「怒る」のではなく、成長・改善の機会を与えて「叱る」にしたいものです。
ポイント
「創業」=事業を始める。「設立」=会社や組織を立ち上げる。
「創業」=商売に関係。「設立」=会社や組織に関係。
解説
よく会社概要などで見かける「創業」と「設立」ですが、明確な違いがあります。
「創業」は事業を始めること、「設立」は会社や組織を立ち上げることという意味となります。
例えば、「創業日」と「設立日」が違う場合、
その事業を始めた日や店を開いた日が「創業日」、事業が拡大し、会社を作って登記した日が「設立日」となります。
また、「創業」は商売に関連する場合に限定して使われる傾向もあります。
営利目的でない事業を始めても「創業」とはなりません。
また、「設立」は、その事業の内容に関係なく、会社や組織に関係する場合にのみ使われます。
ポイント
「測定」=量を数値化すること。「計測」=ある目的のために量を把握すること。
「測定」=道具を使う。「計測」=道具を使わない場合もある。
「測定」は「計測」の中の作業の1つ。
解説
「計測」と「測定」は同義語をして扱われますが、厳密には意味に違いがあります。
「測定」は量を数値化すること、「計測」はある目的のために量を把握することです。
また、別の見方をすると、「測定」には道具を使いますが、「計測」には道具を使わない場合もあります。
例えば、2人の身長の高さを比べる場合、
身長計で身長を計る行為自体は「測定」となります。
その数値を用いて2人の身長を比べることは「計測」となります。
また、身長計を用いず、2人が並んでみて大きさを比べる場合、「測定」とはなりませんが、これも「計測」です。
このように、「測定」は「計測」する過程の1つの作業とも言えます。
しかし、この違いの定義は曖昧で、明確な使い分けはないのが実情です。
測定するための機器を計測器と呼ぶ場合もありますし、
長さを「測定」、それ以外を「測定」と区分するという説などもあります。
ポイント
「参加」=集まりに加わる。「参画」=事業・計画に加わる。
「参加」=既にあるものに加わる。「参画」=計画段階から加わる。
「参加」=加わるだけ。
解説
堅苦しいイメージのある「参画」と気軽なイメージのある「参加」ですが、その意味には違いがあります。
「参加」は単に集まりに加わることですが、「参画」は事業や計画に加わることを意味します。
別のいい方をすると、「参加」は既にあるものに加わることを指し、「参画」は計画段階から加わることを指します。
イベントなどに例えると、そのイベントに加わることは「参加」、イベントの企画・運営に携わる場合「参画」となります。
また、「参加」は加わるだけでも「参加」になりますが、「参画」は加わるだけでは「参画」とは言えません。
義理で集まりに顔を出すだけだったり、一言も発言しない場合、「参加」であっても「参画」とは言えません。
このような意味を踏まえ、積極的な参加を訴えたい場合、敢えて「参加」ではなく「参画」が使われる場合もあります。
ポイント
「使用」=本来の目的で使う。「利用」=本来の目的以外で使う。
「使用」=道具として使う。「利用」=何かに役立たせる。
解説
「利用」と「使用」の違いは、そのものの本来の目的で使うかどうかです。
「使用」は本来の目的で使うのに対し、「利用」は本来の目的以外で活用する場合に使います。
例えば、箸でご飯を食べるのは「使用」ですが、狭い場所に入ってしまったものを取るのに箸を使う場合「利用」になります。
また、近い意味ですが、道具として使う場合は「使用」、何かに役立たせる場合は「利用」となります。
針で裁縫をする場合は「使用」ですが、針で刺さったトゲを抜く場合などは「利用」になります。
「利用」も「使用」も、人に使う場合は注意が必要です。
「使用人」はお金を払って身の回りの仕事をしてもらう人ですが、人を道具として使う意味もあり、あまりいいイメージはありません。
「人を使う」というのも同様で、高圧的な意味が入ってしまいます。
「利用」はさらに悪いイメージになります。
「人を利用する」は、その人を騙して自分の利益を得るという意味も入ってきます。
どちらも人に使う場合には注意しましょう。
ポイント
「原因」=1つ。「要因」=複数。
「原因」=ある事象を起こしたもの。「要因」=ある事象に影響のあるもの。
「原因」=今回発生させたもの。「要因」=今後も発生させる可能性があるもの。
解説
「要因」と「原因」は、さまざまなシーンでよく使われる言葉ですが、意味も似ているためによく混同されます。
一般的には、「原因」は1つしかない場合や1つに特定できる場合に用い、「要因」は複数ある場合や1つに特定できない場合に用います。
また、ある事象を起こしたものを「原因」、ある事象に影響のあるものを「要因」と区別する見方もあります。
例えば、交通事故の場合、事故の「原因」は居眠り運転、その「要因」は疲れや睡眠不足などが挙げられます。
また、過去の特定の事象を起こしたものを「原因」、今後ある事象を起こす可能性のあるもの「要因」と区別する方法もあります。
同様に交通事故に例えると、
同じ居眠り運転でも、今回の事故を指す場合は「原因」となりますが、今後の交通事故を起こす可能性は他にもスピードの出し過ぎ・わき見運転など様々ですので、居眠り運転は交通事故の「要因」の1つと言えます。
ポイント
「左翼」=革新。「右翼」=保守。
「左翼」=自衛隊廃止。「右翼」=自衛隊強化。
「左翼」=日米安保破棄。「右翼」=日米安保維持。
「左翼」=天皇制廃止。「右翼」=天皇制維持。
「左翼」=憲法改正反対。「右翼」=憲法改正賛成。
解説
「右翼」というと、街宣右翼をイメージし、天皇制や北方領土問題をイメージする方が多いかと思いますが、そもそも「右翼」「左翼」という言葉の意味は、このような事を指すわけではありません。
まず、広い意味では、「左翼」=革新、「右翼」=保守ということになります。
革新・保守とは、相対的なものですので、その時代や立場によって意味が異なります。
例えば、日本では共産主義は左翼・革新として考えられていますが、中国は共産党が政権をとっているため、共産主義は右翼・保守です。
現在の日本において、「左翼」「右翼」の主張が大きく分かれるテーマがいくつかあります。
まず、自衛隊では、「左翼」廃止を主張し、「右翼」は維持・強化を主張しています。
日米安保では、「左翼」は破棄、「右翼」は維持を訴えています。
天皇制については、「左翼」は廃止、「右翼」は維持を主張、憲法改正では、「左翼」は反対、「右翼」は賛成の立場をとっています。
ポイント
「なおざり」=いい加減で何もしない。「おざなり」=いい加減に物事をする。
「なおざり」=何もしない。「おざなり」=何かをする。
どちらも適当・いい加減。
「なおざり」=等閑と書く。「おざなり」=御座形と書く。
解説
「なおざり」と「おざなり」は、どちらもいい加減・適当という意味が含まれますが、その正しい意味は全く異なります。
「なおざり」は、いい加減で何もしない、「おざなり」は、いい加減に物事をするという意味になります。
最大の違いは、「なおざり」は何もしない、「おざなり」は何かをするという点です。
「おざなり」は御座形と書き、お座敷の席で形ばかりを取り繕ったことをいったところからきています。
「なおざり」は等閑と書き、漢語の「等閑(とうかん)」を後からあてたものとされています。
そのまま何もしなという「直(なお)」に、遠ざけるという意味の「去(さり)」がくっついたのではないかという説が有力です。
ポイント
「原料」=原型をとどめていない。「材料」=原型をとどめている。
木材を使う場合、「原料」=紙・パルプ。「材料」=柱など。
ノートの原材料:「原料」=パルプ。「材料」=紙。
パンの原材料:「原料」=小麦。「材料」=小麦粉。
解説
「原料」と「材料」の違いは、完成品からその元になったものを推測・判断できるかどうかという点になります。
分かりやすく言い換えると、原型をとどめているかどうかということになります。
「原料」は原型をとどめていない場合、「材料」は原型をとどめている場合に用いられます。
また、これらを合わせて「原材料」とも言います。
木材を使って作られるものの場合、柱などは原型をとどめていますので材料です。
しかし、紙・パルプなどは原型をとどめていませんので「原料」となります。
逆に、ノートの原材料として考えると、原料はパルプ、材料は紙となります。
同じように、パンの原材料を考えると、原料は小麦、材料は小麦粉となります。
ポイント
「川柳」=季語がない。「俳句」=季語がある。
「川柳」=切れ字は重要ではない。「俳句」=切れ字が重要。
「川柳」=口語体。「俳句」=文語体。
「川柳」=人事がテーマ。「俳句」=自然がテーマ。
どちらも俳諧の連歌が起源。
解説
「川柳」と「俳句」の違いとして知られているのが季語です。
川柳では季語を必要としませんが、俳句では季語が必須です。
しかし、季語意外にも「川柳」と「俳句」には違いがあります。
俳句では「切れ字」が重要となってきますが、川柳では「切れ字」は重要視されません。
「切れ字」とは、句を切るために使われる「や」「かな」「けり」というものです。
また、切れ字に代表されるように、俳句は文語体で表現されます。
一方の川柳は、口語体で表現され、より日常会話に近い言葉で表されます。
取り上げるテーマにも違いがあります。
季語に象徴されるように、俳句では自然をテーマにするものがほとんどです。
川柳では、人間模様や社会風刺といった人事をテーマにしているものが多くなっています。
俳句は古くからある物で、川柳は最近のものというイメージがありますが、川柳の歴史も古く、このような違いがありません。
どちらも俳諧の連歌が起源で、古くから日本人に親しまれています。
ポイント
「森」=自然に生えている。「林」=人の手が入っている。
「森」=盛りが語源。「林」=生やしが語源。
解説
「森」と「林」の違いは、大きさという説がありますが、更に遡ると違った意味が出てきます。
「森」は自然に生えているものなのに対し、「林」は人の手が入っているという違いがあります。
そのため、「森」は「盛り」が語源になっているという説があり、「林」は「生やし」が語源になっているという説があります。
ただし、辞書によれば「森」は大規模なもの「林」は小規模のものというような分類がされています。
人の手はそれほど大規模に入れられないため、その結果がこのような規模の違いになったとも考えられます。
ポイント
「和尚」と書いて「おしょう」「わじょう」「かしょう」と読む。
「わじょう」は「和尚」「和上」の2つの書き方がある。
和尚(おしょう)=禅宗・浄土宗。
和尚(わじょう)は法相宗・真言宗。
和上(わじょう)=律宗・浄土真宗。
和尚(かしょう)=華厳宗・天台宗。
解説
「おしょう」と「わじょう」の違いは、どちらも仏教の僧侶の呼び方ですが、一言でいうと宗派の違いです。
「和尚」とは「和尚」と書きますが、同じ漢字を用いて「おしょう」「わじょう」「かしょう」とも読みます。
また、「わじょう」は「和尚」と「和上」の2つの書き方があり、これらはそれぞれ宗派によって読み方や書き方が変わります。
これらを宗派で整理すると、こちらのようになります。
和尚(おしょう)=禅宗・浄土宗。
和尚(わじょう)は法相宗・真言宗。
和上(わじょう)=律宗・浄土真宗。
和尚(かしょう)=華厳宗・天台宗。
ポイント
「整理」=捨てることが含まれる。「整頓」=捨てることが含まれない。。
「整理」=見た目は関係ない。「整頓」=見た目を整える。
「整理」=ルールから考える。「整頓」=ルールに従って保存する。
解説
「整理」と「整頓」は、広辞苑によるとそれぞれ下記のような意味になります。
「整理」:(1)乱れた状態にあるものをととのえ、秩序正しくすること。(2)不必要なものを取り除くこと。
「整頓」:よく整った状態にすることきちんと片付けること。
似たような意味に感じますが、一番の違いは「捨てる」行為が含まれるかどうかです。
「整理」には捨てることが含まれ、「整頓」には捨てることが含まれません。
一般的には捨てる事を柔らかく表現する時に「整理」と言う事もあり、「整理」=「捨てる」という意味もあります。
また、見た目上の意味も含まれる場合もあります。
「整頓」は見た目を整えることが目的なのに対し、「整理」は機能や使い勝手を重視するため、見た目は関係ありません。
さらに、「整理」は保存・保管するためのルールから考える事も含まれますが、「整頓」はそのルールに従って保存・保管することを指します。
ですので、「整理」→「整頓」という順番になりますので、「整理整頓」という言葉も理にかなっているのです。
ポイント
もともとは「よろん」=輿論・与論。「せろん」=世論。
「よろん(与論)」=社会的な合意。「せろん(世論)」=一般大衆の気分や人気。
現代では「世論」を「よろん」とも「せろん」とも読む。
「よろん」も「せろん」もどちらも正しく、明確な意味の区別もない。
解説
もともとは、「よろん(輿論)」と「せろん(世論)」は下記のように区別されていました。
「輿論」=世間一般の人に共通した意見のこと
「世論」=世間のうわさ、議論、風評など
「よろん(輿論)」=社会的な合意、「せろん(世論)」=一般大衆の気分や人気ととらえる言い方もあります。昭和21年に当用漢字が定められたのをきっかけに「輿論」を「与論」と書くようになります。その後、「世論」を「よろん」と読むようになってきました。
NHKのアナウンサーが「世論」を間違えて「よろん」と読んでしまったのがきっかけという説もありますが、詳細は不明です。
最近では、辞書でも「与論」も「世論」も同義語として扱われ、「世論」を「せろん」「よろん」どちらの読み方も正しいとされています。
ポイント
「進呈」=気軽に贈る。「贈呈」=改まって贈る。
「進呈」=個人的に贈る。「贈呈」=公式の場で贈る。
「進呈」=目上の人に贈る。「贈呈」=目下の人に贈る。
解説
「進呈」と「贈呈」の違いを辞書で調べると、ほとんどが同義語として扱われています。
コトバンクによると、この「進呈」と「贈呈」の違いは下記のように定義されています。
「進呈」は個人的な関係で気軽に人に物を差し上げる意を表す。
それに対して「贈呈」は「進呈」と同様の意味もあるが,特に公式の場などで改まった気持ちで人に物を差し上げることをいう。
Q&Aサイトなどでは、「進呈」は目上の人に、「贈呈」は目下の人に使うという答えがたくさん投稿されています。
一見、辞書と逆の意味で矛盾しているように感じますが、「進呈」には間接的に「たいした物ではありません」や「つまらないものですが」という意味が含まれているため、目上の人に対して使われるようになっているものだと思われます。
ちなみに、「無料にて贈呈(進呈)」という表現は間違いだそうです。「贈呈」「進呈」は贈るという意味ですので、すでに無料という意味が含まれています。「無料にて」を付けてしまうと、「無料」という意味が二重になってしまうからだそうです。
ポイント
「有名人」=良くも悪くも名の通った人。「著名人」=いい意味で名の通った人。
「著名人」=重んじられている人。「有名人」=重んじられていない場合もある。
解説
基本的には、「有名人」はいい意味でも悪い意味でも名の通った人のことを指します。
一方、「著名人」はいい意味で名の通った人を指す場合に限定されます。
芸能人でもスポーツ選手でも指名手配犯でも、とにかく名が通っていれば「有名人」と言うことができます。
しかし、犯罪者などを「著名人」という事はありません。
ちなみに、goo辞書にて調べてみると、「有名人」という言葉は載っていませんでした。
「著名人」は「ある分野や社会で名前をよく知られ、重んじられている人。」となっています。
要するに、「重んじられている」かどうかが違いのようです。
また、「有名」という言葉とその類義語の使い分けについては、下記のようになっています。
「有名」は、「あの人はけちで有名だ」のように、悪いことで名が知られているときにも用いる。
「知名」「著名」「高名」「名高い」は、よい意味で名が知られているときに用いる。「名うて」は、よい評判にも、悪い評判にも使う。
芸術や文学の世界で功績を残した人の場合が「著名人」という説もあるようです。
これは「著」という文字のイメージからきているようですが、正しくはこのような意味はないようです。
ポイント
「筆者」は文章を書いた人。「筆者」は書物を書いた人。
本になるまでは「筆者」。本になったら「著者」。
解説
類語例解辞典によると、「筆者」と「著者」はそれぞれ下記のように記載されています。
「著者」は、ノンフィクション、学術書、案内書などを書いた人。
「筆者」は、ある内容の文章を書いた人。新聞、雑誌などの、事実の報告でなく、ある主張をもつ部分などを書いている人などにいう。
ですので、「筆者」の書いた文章が出版されることになったら「著者」になるとも言えます。
また、文章を書いた場合も、コピペやテープ起こしでは「筆者」になれないという事にもなります。
少々紛らわしくなりますが、著作権を有している人のことを指す「著作者」という言葉があります。
この「著作者」にあてはめると、「筆者」も「著者」も「著作者」該当することになるようです。
ポイント
「製品」は製造された品物。「商品」は、売買の目的物。
「製品」は、「商品」に含まれる。
「商品」にはサービスも含まれる。
「商品」=加工せずに売れるもの。「製品」は加工して売れるもの。
解説
「製品」は文字通り、製造された品物を意味します。
一方の「商品」は、売買の目的物としての品物を意味します。
ですので、「製品」という集合は、「商品」という集合に含まれると考えるのが普通です。
例えば、「農産物」など「製造されないもの」は「商品」には含まれますが、「製品」には含まれません。
また、「商品」には具体的な形を伴う品物に限らず、「サービス」など行為が含まれることもあります。
会計用語では、仕入れたもの、加工せずに売れるものを商品、作ったもの、加工して売れるものを製品と定義しているようです。
ポイント
「訂正」は間違いあり。「修正」は間違いとは限らない。
「訂正」=誤りを正しく直すこと。「修正」=不十分・不適当と思われるところを改め直すこと。
「訂正」はお詫びをともなう。「修正」はお詫びをともなわない。
解説
「訂正」と「修正」の違いは、国語辞書によると、「訂正」=誤りを正しく直すこと、「修正」=不十分・不適当と思われるところを改め直すこととなります。
要するに、間違ったものを正しく直すことを「訂正」、それ以外は「修正」となります。
「訂正」が誤りを正しくすることに特化した語句、「修正」は、間違ってはいないが、より良くするために手を加えたりする場合にも用いることができます。
また、「訂正」は「お詫び」が必要ですが、「修正」は事務的に行うことができます。
ポイント
「自動詞」はすること。「他動詞」はされること。
「自動詞」に「を」は使えない。
場所をあらわす表現のみ「を」+「自動詞」を使える。
英語の「自動詞」と「他動詞」の見分け方は目的語を必要とするかどうか。
解説
動詞は「自動詞」と「他動詞」に分類されます。
大まかにいうと、前の言葉が主語の場合は「自動詞」、目的語の場合は「他動詞」ということになります。
言い換えると、することは「自動詞」、されることは「他動詞」となります。
また、見方を変えると「を」でつながっている場合は「他動詞」、それ以外は「自動詞」とも言えます。
例)
学校に行く。:「行く」→自動詞
友達と会う。:「会う」→自動詞
本を読む。:「読む」→他動詞
テレビを見る。:「見る」→他動詞
ただし、場所をあらわす場合、例外として自動詞でも「を」を使います。
例)
「駐車場を通る。」:駐車場=場所・「通る」→自動詞
「空を飛ぶ。」:空=場所・「飛ぶ」→自動詞
英語でも基本的には同じですが、目的語を必要とするかどうかで「自動詞」と「他動詞」を区別することができます。
例)
「I go.」=「主語+動詞」だけで完結→goは自動詞
「I visit Tokyo.」=「主語+動詞+目的語」→visitは他動詞
ポイント
「問題」は事象。「課題」は取組。
「問題」は自分に課せられない。「課題」は自分に課せられている。
「課題」は「問題」を解決するための手段。
解説
「課題」と「問題」はよく混同されますが、「問題」は事象を指し、「課題」は問題を解決するための取り組み対象を指します。
例)
「問題」=地球温暖化により、異常気象や海面の水位の上昇が懸念される
「課題」=地球温暖化の原因となる二酸化炭素の排出量を削減する必要がある
また、自分に課せられているかどうかでも「問題」と「課題」を区別できます。
例)
「問題」=会社の売り上げが下がっている
「課題」=売り上げをアップするための部署や自分のノルマ
このように考えると、「課題」は「問題」を解決するための手段であり、「問題」があるから「課題」があるとも言えます。
ポイント
元々は「一所懸命」。
最近では「一生懸命」が使われる事がほとんど。
どちらも正しい。
解説
「一生懸命」と「一所懸命」では、元々は「一所懸命」が使われていました。
これは、武士が自分の領土を命がけで守る事が由来です。
現代では、次第に「一生懸命」が使われるようになっており、「一所懸命」はほとんど使われなくなりました。
ちなみに、goo辞書によると、それぞれの意味は下記のようになります。
「一所懸命」=1、中世、1か所の領地を命をかけて生活の頼みにすること。また、その領地。2、命がけで物事をすること。また、そのさま。必死。
「一生懸命」=1、命がけで事に当たること。また、そのさま。2、引くに引けないせっぱ詰まった場合。瀬戸際。
新聞社や雑誌社では、外部からの寄稿などを除いて「一生懸命」に統一しているところが多いようです。放送でも「一生懸命」を使っています。
ポイント
「以下」は含む。「未満」は含まない。
「未満」は「以上」の反対。
20歳未満はお酒を飲めない。
解説
「以下」は、その数字を含んで下、「未満」はその数字を含まないで下になります。
また、「未満」は「以上」の反対として使われます。
例えば、飲酒の場合、20歳になったらOKですが、肯定的に表現する場合は「20歳以上」という言い方になります。
逆に、若者の飲酒が禁止されている事を強調する場合は「20未満」という言い方になります。
「20以下」と言ってしまうと、飲酒できるのは21歳からということになってしまいます。
このように、「以下」と「未満」の区別が付かない場合、飲酒を思い浮かべると覚えやすいかもしれません。
ちなみに、「以下」の反対を意味する言葉は明確にはないようです。
「○○より上」や「○○を超えて」と表現されるのが一般的です。
ポイント
「が」は疑問への答えが前にくる。「は」は後に来る。
「が」は唯一。「は」は他の候補もある。
「が」は前が主語。「は」の主語は曖昧になる。
「が」は「こそ」という意味合いもある。
「は」は日常。「が」は非日常。
解説
「が」は疑問への答えが前にくる。「は」は後に来る。
疑問や質問に答える場合、「が」は答えが前に、「は」は後になります。
例)
「佐藤さんが社長です。」=答えは佐藤さん
「社長は佐藤さんです。」=答えは佐藤さん
「が」は唯一。「は」は他の候補もある。
「が」は唯一であることを表し、「は」は他の候補もある場合に使われます。
例)
「佐藤さんが社長です。」=社長は佐藤さんしか」いない。
「佐藤さんは社長です。」=社長以外の側面もある。
「が」は前が主語。「は」の主語は曖昧になる。
動詞文の場合、「が」は前が主語になりますが、「は」の主語は曖昧になります。
例)
「佐藤さんが叱った」=佐藤さんが主語
「佐藤さんは叱った」=主語は佐藤さん、またはそれを見た自分
「が」は「こそ」という意味合いもある。
「が」は「こそ」という強調する意味合いもあります。
例)
「社長は佐藤さんです。」=社長が誰かを淡々と説明。
「佐藤さんが社長です。」=社長は佐藤さんであることを強調。
「が」は非日常を表す意味も。
「は」は日常的で、「が」は普通ではない場合にも使われます。
例)
「佐藤さんはやさしい」=常にやさしい
「佐藤さんがやさしい」=普段はやさしくない
ポイント
「づらい」は主観的。「にくい」は客観的。
「づらい」は出来なくはないけど大変。「にくい」は物理的に難しい。
漢字で書くとイメージしやすい。(「辛い」「難い」)
どちらも間違いではない。
解説
出現時代は「にくい」が古く、10世紀には用例があります。「づらい」は19世紀になってから登場します。
「にくい」から「づらい」へ移行しているとも言えます。
「にくい」の方が長く使われ、「づらい」がだんだん台頭してきたと考えられます。
そもそも漢字では「難い(にくい)」「辛い(つらい)」と書きますから、「にくい」=【することが難しい】、「づらい」=【することが辛い】と読み替えることができます。
「溶ける」「さびる」「焦げる」など、人の意志がからまない場合には「溶けにくい」「さびにくい」「焦げにくい」というのが一般的なのです。
一方、「頼みづらい」「話しづらい」などのように、自分の主観的な意思が入った場合は「づらい」を使いことが多い傾向にあります。
借金を頼み込む場合、「頼みにくい人」は誰が頼んでも貸してくれそうにない人、「頼みづらい人」は度重なる借金でこれ以上自分に貸してくれないか、別の個人的事情で自分には貸してくれそうにない人という違いがありそうです。
ただ、「頼みにくい/頼みづらい」「話しにくい/話しづらい」といった場合、客観的、主観的とはっきり分けることはできませんので、どちらが正しいということはありません。
近年、若い人は「にくい」よりも「づらい」を多用する傾向にあるといわれます。
若い人に尋ねると「にくい」は人を責めているような感じがするため、自分の感覚をいう「づらい」の方が使いやすいのだそうです。
ポイント
正しくは「ずつ」。
公用文や学校教育、新聞では「づつ」は間違いとされる。
「竹筒」など二語の連合によって生じた場合のみ「づつ」。
解説
歴史的には「づつ」が使われてきたようです。
しかし、昭和21年に定められた「現代仮名遣い」で、「ずつ」を原則とすることが定められました。
これにより、法令・公用文書・新聞・雑誌・放送などでの基準も「ずつ」となりました。
学校などの教育現場でも、正しいものは「ずつ」となります。
「現代仮名遣い」は、昭和61年に改訂されていますが、同様に「ずつ」を原則としています。
例外として、「竹筒」など二語の連合によって生じた場合のみ「づつ」を使います。
これは、「三日月(みかづき)」「小遣い(こづかい)」と同様に、2つの言葉をつなげた濁音として分類されるためです。
結論として、現代において正しいものは「ずつ」となります。
すこしずつ
ひとりずつ
漢字で「筒」や「包」として書けるものは例外として「づつ」を使います。
たけづつ
こづつみ
ポイント
正しくは「すみません」。
「すいません」は「すみません」の口語。
書くときは「すみません」。
目上の人に使う時は「すみません」。
解説
「すいません」も「すみません」も、どちらも間違いではありませんが、
「すいません」は「すみません」の口語として定着したものです。
すみませんの語源は「済む」の否定形「済まぬ」からきています。
「このままでは気持ちがおさまらない」という意味で使われていたのが、謝罪やお礼の言葉に使われ始めたそうです。
ちなみに、英語の「エクスキューズ・ミー」も「許してください」という意味です。
日本語でも、人を呼び止める際にも「すみません」を使いますが、どちらも語源は同じようです。
「すいません」は、その口語ではありますが、それだけでなくニュアンスを和らげたりする意味や効果もあります。
ですので、逆に目上の人に使うと失礼にあたる事もありますので、注意が必要です。
文書に書くときは、必ず「すみません」になります。
ポイント
「いく」も「ゆく」もどちらも正しい。
「いく」は口頭的。「ゆく」は文章的。
昔はほとんど「ゆく」。現代は「いく」が基本。
一部の表現では「ゆく」としか読まない例もある。
解説
「いく」と「ゆく」は、いずれも標準的な言い方で、どちらか一方が誤りであるということはありません。
万葉集にも「いく」と「ゆく」という両方の言葉があり、古くから使われていたことがわかります。
ただし、当時はほとんどが「ゆく」と読まれていて、標準的だったようです。
現代語では、連用形の音便形は、「いく」の「いっ(て)」「いっ(た)」の形しか用いられません。
また、下記のような言葉や表現では必ず「ゆく」を使い、「いく」と表現されることはほとんどありません。
「立ちゆく」
「亡びゆく」
「更けゆく」
「消えゆく」
「ゆくえ」
「ゆく末」
「ゆくて」
「ゆく春」
「ゆくゆく(は)」
「明けゆく」
「移りゆく」
「暮れゆく」
「過ぎゆく」
「ゆく秋」
「ゆく年」
チョコレート」と「ショコラ」の違いは言語の違いで、同じものを指している。
チョコレートは英語の「chocolate」から、ショコラはフランス語の「chocolat」に由来する。
日本では「チョコレート」の呼称が古くから定着しているため、そう呼ぶことが多いが、「ガトーショコラ」のように「ショコラ」をの方が多く使われる場合もある。
これは、「ガトー(gateau)」がフランス語だからである。
「gateau」は焼き菓子を意味し、広義にはクッキーなども含まれるが、主に「ケーキ」の意味で使われる。
「ガトーショコラ」の「ショコラ」を「チョコレート」に置き換えるならば、「チョコレートケーキ」である。
中心部が液状になるように仕上げた「フォンダンショコラ」は、フランスのチョコレートケーキで、フランス語では「fondant au chocolat(フォンダン・オ・ショコラ)」といい、「fondant」は「溶ける」を意味する。
「ショコラティエ(chocolatier)」も、ヨーロッパでチョコレートを使ってデザートや菓子を作る専門職人の呼称である。
上記のことからもわかるように、フランス語が含まれる場合やフランス発祥のものには「ショコラ」を使い、それ以外に「チョコレート」を使っていることが多い。
ただし、「ショコラ」と呼んだ方がオシャレなイメージがあるため、「チョコレートケーキ」を「ショコラケーキ」と呼ぶこともある。
模擬実験のことを「シミュレーション」や「シュミレーション」という。
どちらを使っても意味は通じるが、どっちが正しい発音でどっちが間違った発音かという違いはある。
英語の綴りは「simulation」で、カタカナ語にすると「シミュレーション」となる。
そのため、カタカナ語としての正しい発音は「シミュレーション」で、「シュミレーション」は間違いである。
しかし、「シュミレーション」と発音する人が多い。
これは「シミュ」という発音が日本人にとって馴染みが薄く、発音しにくいためだ。
「コミュニケーション」を「コミニケーション」という人もいるように、「ミュ」だけでも日本人には苦手な発音になる。
これが「シミュ」になると更に難しくなり、「シミュレ」はそれ以上に難しくなるのである。
反対に「シュ」という発音は日本語の中に多くあり、「趣味」という言葉があるように「シュミ」は日本人にとって発音しやすい。
そのため、自然と「シミュ」が「シュミ」に変換され、「シュミレーション」というようになったのである。
少数派だが、「コミニケーション」のように「シミレーション」という人もいる。
「シュミレーション」のように音素の並び順が入れ替わる現象を「音位転換」や「音位転倒」といい、「feminism(フェミニズム → フェニミズム)」もその例である。
音位転換は日本語の中にもあり、「雰囲気(ふんいき)」を「ふいんき」と読むのも同じ現象である。
「ふいんき」は誤りとされているが、新しい(あらたしい → あたらしい)、山茶花(さんざか → さざんか)、秋葉原(あきばはら → あきはばら)など、誤って音位転換したものが、現代では正しいものとして定着している言葉も数多くある。
ピントもフォーカスも、日本語で「焦点」を意味する。
レンズの焦点を合わせることを、昔は大半が「ピントを合わせる」と言ったが、現在は「フォーカスを合わせる」と言うことも多くなってきている。
これは、「フォーカス」よりも「ピント」の方が早く日本に入った言葉であるためである。。
しかし、現在でも人々の注意や興味の集まるところや、物事の中心点の「焦点」を表す時には、「ピントがずれている」「ピンぼけ」などと言って、「フォーカス」よりも「ピント」を使うことが多い。
これは、入ってきた順番のほか、「焦点」という言葉の成り立ちも関係している。
ピントはオランダ語の「brundpunkt」に由来する。
「brundpunkt」の「brund」は燃えるや焦げるの意味で、「punkt」は点を意味する。
「焦げる点」というのは、太陽の光を凸レンズで集めた点が焦げることからである。
「brundpunkt」を日本語に訳した言葉が「焦点」で、古くは「焼点」とも書いた。
つまり、焦点は「ピント(の語源)」に由来する言葉で、「焦点=ピント」となるため、焦点は全て「ピント」に置き換えることができたのである。
フォーカスは英語の「focus」に由来し、「focus」にも興味や関心の中心という意味はある。
しかし、フォーカスは「焦点=ピント」という図式が出来上がった後に入ってきた言葉である。
また、興味や関心の中心の意味で「焦点」を使うのは、比喩的な印象がある。
そのため、フォーカスは「焦点」の意味の中でも、特に「レンズの焦点」を表す言葉として使われたのである。
ちなみに、英語の「focus」は、ラテン語で「炉・火」を意味する「focus」に由来し、イタリア語で「火」を意味する「fuoco」も、ラテン語の「focus」が語源である。
カボチャは英語で「Pumpkin(パンプキン)」と訳されることが多いが、日本でよく食べられているカボチャはパンプキンではない。
カボチャは大きく分けて「西洋カボチャ」「日本カボチャ」「ペポカボチャ」に分類される。
英語では、これらのカボチャを総称して「Squash(スクワッシュ)」というため、種類に関係なくカボチャを表すのであれば、「スクワッシュ」というのが正しい。
日本で最も多く流通している西洋カボチャは、英語で「Winter squash(ウインター・スクワッシュ)」や「kabocha squash(カボチャ・スクワッシュ)」と呼ばれる。
その次に多い日本カボチャは、「Tropical squash(トロピカル・スクワッシュ)」や「Japanese squash(ジャパニーズ・スクワッシュ)」。
ペポカボチャは、「Summer squash(サマー・スクワッシュ)」といい、3つの分類の中にも「パンプキン」は出てこない。
英語で「Pumpkin(パンプキン)」と呼ばれるのは、ペポカボチャ(サマー・スクワッシュ)の一部で、オレンジ色の果皮をした、ハロウィンのジャック・オー・ランタンでよく使われるものである。
ペポカボチャに含まれるカボチャには、パンプキンの他に、金糸瓜、おもちゃカボチャ、ズッキーニなどがある。
ベテランとは、その分野で長年の経験を積み、熟達した人のこと。
「ベテランドライバー」「ベテラン俳優」「ベテラン選手」など、職能・芸能・スポーツなどの分野の人に使われる。
熟達していなくても、単に経験年数が長い人、古株の意味で使われることもある。
エキスパートとは、ある分野で経験を積んだり研究を重ねたりして、高度な技能や知識を持っている人のこと。熟練者。専門家。
「授業のエキスパート」「医療機器のエキスパート」など、学問や技術の分野の人に使われる。
ベテランのように、長年の経験を積んだだけの人には使うことはなく、熟練者よりも専門家の意味が強い。
スペシャリストとは、特定の分野を専門にする人や、特殊な技能を持つ人のこと。専門家。
「ゼネラリスト(様々な分野の知識や技能をこなす人)」の対義語である。
特に使われやすい分野があるわけではなく、経験年数の長さも関係ないが、特別な知識や技能を要することを専門に行う人、専門性の高い人に対して、「スペシャリスト」と呼ぶことが多い。
ゴシップの意味は、興味本位の噂話。
スキャンダルの意味は、名誉を傷つけるような不祥事や不正事件。また、不名誉な噂のこと。
ゴシップの語源は、「名付け親」という意味の古英語で、名付け親は、その家で見聞きしたことを尾ひれを付けて他人に喋ることから、噂話の意味となった。
そのため、有名無名を問わず使う言葉である。
スキャンダルは、「障害物」や「罠」を意味するギリシャ語が語源で、社会的地位を失うような不祥事や、よくない噂の意味となっている。
事件や不名誉な噂で社会的地位を失うのは、政治家やタレント、スポーツ選手などの著名人であるため、無名な人に対しては使われない。
日本では、ゴシップを有名人に対していうことが多いため、ゴシップとスキャンダルは混同されやすいが、スキャンダルは、刑事事件や不倫などの男女関係といった、不名誉な事柄が対象となる。
一方のゴシップは、著しく名誉を傷つけられたり、謹慎や引退に追い込まれない程度のもので、私生活に関する噂話が中心である。
Q&Aは「question and answer」の略で、「質問と回答」「一問一答」の意味。
企業のWEBサイトなどでは、実際の質問に対する回答を載せていることもあるが、多くの場合は、尋ねられそうな質問を想定し載せている。
FAQは「frequently asked questions」の略で、「頻繁に尋ねられる質問」「よくある質問」の意味。
質問のみではなく、質問に対する回答も含まれる。
Q&Aの中から、よくある質問を厳選して、まとめたものがFAQであり、Q&Aの一種である。
Q&Aと同様に、企業のWEBサイトなどでは、頻繁に尋ねられそうな質問を想定し、よくある質問として載せているケースが多い。
「FAQ(よくある質問)」「Q&A(一問一答)」が本来の形だが、「よくある質問(Q&A)」や「FAQ(一問一答)」としているサイトも多く存在する。
一見、間違いのように思えるが、カッコ内に訳が入るとは限らず、前の言葉を補う目的でも使用される。
そのため、「よくある質問(Q&A)」も「FAQ(一問一答)」も、よくある質問を一問一答形式で掲載していると解釈できる。
全ての質問と回答を載せることは難しいため、「Q&A」や「一問一答」とだけ記載されていても、実際は、よくある質問を一問一答形式で載せていることがほとんどである。
プレゼントもギフトも贈り物を意味する言葉だが、使われ方に違いがあり、日本と海外での使われ方にも違いがある。
英語の「present」は、親しい人に贈る、愛情や友情など気持ちを込めた私的な贈り物。
「gift」は「present」よりもフォーマルな表現で、価値のある贈り物を意味し、天賦の才能という意味もある。
厳密に使い分けされている訳ではないが、「present」は同士もしくは目下から目上に贈る物、「gift」は目上から目下に贈る物に使われる。
日本でも、プレゼントよりギフトの方が改まった表現という点は同じである。
しかし、日本のギフトは、お中元やお歳暮など社交上の慣例として贈る「ご進物」の意味が強いため、どちらかと言えば目下から目上に贈る物になる。
また、海外では「gift」の方が「present」よりもポピュラーだが、日本ではプレゼントの方が一般的である。
カタカナ語の「ギフト」を使うよりも、「贈り物」「ご進物」などの日本語を使った方が改まった表現になるため、会話中に「贈り物」の意味で「ギフト」の語が使われることは少ない。
「ギフト券」「ギフト商品」「ギフトセット」など、他の語と複合して用いるのが普通で、「贈り物」というよりは「贈り物商品」を表す言葉となっている。
ランク(rank)は、順位や等級、順位をつけること。
レベル(level)は、水準や段階。
グレード(grade)は、等級や段階。
クラス(class)は、階級・等級・層の意味。
クラスは、優劣などで区分した時のそれぞれの集まりのどこに属するかを表し、対象が個である場合には用いない。
ランクもクラスと同じように、区分された集まりの「等級」も表すが、外部からの評価によって区分された集まりに対して使われることが多い。
グレードも「等級」の意味で用いるが、ランクやクラスのように位置・地位の境界線がはっきりしたものではなく、品質や価値、難易度などが、どの程度の段階にあるかを表す。
レベルもグレードと同様に、どの程度の段階にあるかを意味するが、質的・数値的に見て、どの程度の高さにあるかという、高低度合・差の意味に重点を置いて用いられる。
セミナーは、少人数を対象に、特定のテーマについて開催される講演会や発表会・討論会。
ゼミナールは、教授の指導のもと、少人数の学生が特定のテーマについて研究・報告・討論する形式の大学の授業や、そのクラス。予備校や私塾などが催す講演会などにも使われる。
というのが一般的なイメージだが、上記はどちらが多く使われているかということで、セミナーとゼミナールの意味に違いはない。
違いを挙げるとすれば、ゼミナールは「ゼミ」と略されるが、セミナーは「セミ」と略さないことと、言葉の入ってきた国の違い。
セミナーは、英語の「seminar」から。
ゼミナールは、ドイツ語の「Seminar」から。
セミナーもゼミナールも、語源は同じである。